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第九話 母の声と、父の夢

一 十歳の脚


 ユキヒコは、走っていた。


 左手に黒曜石の槍。両脇に空のペットボトル二本を挟むようにして抱え、残った右手で時おり草や岩を掴みながら、斜面をほとんど滑るように駆け下りていく。


 朝霧の残る五月の森は、夜の気配をまだ含んでいた。苔の上に結露が白く残り、スニーカーの底が何度も滑る。それでも少年は止まらなかった。


 ──ドグ、ドグ、ドグ、ドグ。


 心臓の音が耳の奥で鳴り続けていた。


 肺が熱い。喉の奥に鉄の味。脇腹に針で刺されるような痛み。


 でも、止まれない。止まってはいけない。


 ──お父さんが、死ぬ。


 その一つの言葉だけが、十歳の少年の全身を、ただただ前へ前へと押し出していた。



 ユキヒコの視界の隅を、褐色の影が横切った。


 鹿だった。雌鹿が一頭、子鹿を連れて、朝の下草の露を踏みながらこちらを見ていた。昨日の夕方、父タカシが矢を射損ねた、あの群れの一部かもしれなかった。


 鹿はユキヒコを見ても、逃げなかった。


 ──"敵"ではないと、判断したのだ。


 次の瞬間、別の茂みの中から、ずんと重い気配がした。


 こちらはイノシシだった。成獣の雄で、黒々とした毛並みの背中が視界の端に一瞬だけ見えた。普段のユキヒコなら、恐怖に足が竦んでいた大きさだった。


【弥生時代末期の日本列島におけるイノシシ(Sus scrofa leucomystax)の生息密度は、現代の少なくとも五〜十倍に及んだと推定される。縄文遺跡から出土する哺乳類骨の中で、ニホンジカと並びイノシシは最多の個体数を示す。体重は成獣で七十〜百二十キログラム、犬歯の突出した雄は"牙"を武器に、人間のももを一突きで貫く力を持つ。古代狩猟民にとっては主要な獲物であると同時に、遭遇すれば即座に致命的な脅威ともなる両義的な存在だった。『古事記』では倭建命ヤマトタケルが伊吹山で白猪の神に呪われて死に至る神話が記される。猪は神の使いでもあり、神そのものでもあった】


 イノシシはユキヒコをじっと見た。


 ユキヒコもイノシシを一瞬だけ見た。


 ──だが、今は、お前じゃない。


 ユキヒコは視線を前に戻した。


 イノシシも、視線を、ふっと外した。


 獣同士が互いを"今は敵ではない"と認め合う、不思議な瞬間だった。


 ユキヒコは再び駆け出した。



 斜面が急になった。


 湿った落ち葉の下に隠れた木の根が、ユキヒコの右足のかかとにするりと絡んだ。


「あっ──!」


 少年の体は、自分でも何が起きたかわからないまま、斜面を前のめりに滑り落ちていった。


 ペットボトルが手から離れた。


 槍が、宙を舞った。


 ユキヒコは腕で頭を庇いながら、落ち葉と泥の中を数メートル転がった。


 ──どん。


 岩にぶつかって止まった。



 全身が痛かった。


 膝を擦りむいた。肘に切り傷。脇腹に深い打撲。


 ズボンが泥だらけになり、頬に血が滲んだ。


 ユキヒコは、ゆっくりと顔を上げた。


 斜面の下の方に、放り出されたペットボトルの片方が転がっているのが見えた。キャップが外れて、中にわずかに残っていた昨日の湧水が地面にこぼれていた。


 もう一方は、少し離れた藪の中。


 黒曜石の槍は、幸いにも、すぐ横に落ちていた。


 ユキヒコは、膝に手をついて、立ち上がった。


 ──立ち上がらなきゃ。


 ──お父さんが、待ってる。


 擦りむいた膝から血が垂れ、泥と混じってズボンを赤茶色に染めた。その痛みは、もはやどうでもよかった。


 ユキヒコはペットボトルを拾い、槍を拾い、そして、再び斜面を下り始めた。


二 湧水の底の、母の声


 湧水の前に膝をついた時、ユキヒコの体は、限界まで張り詰めていた。


 昨日、父と一緒に見つけた、あの透明な窪地。


 シダの緑に囲まれて、こんこんと湧き続ける、地の底からの水。


 ユキヒコはペットボトルのキャップを震える指で開け、口を湧水の泉の中に沈めた。


 ゴボゴボゴボ──。


 空気の泡が水面に上がった。


 ペットボトルの中に、透明な水が、静かに満ちていった。



 水音を聞きながら、ユキヒコの視界は、次第に、別の景色に置き換わっていった。


 ──白い、病院の部屋。


 ──消毒液の匂い。


 ──細い、金属の軋む音。


 それはほんの一年前の、忘れようにも忘れられない光景だった。


【日本における子宮頸がんの死亡率は年間およそ二八〇〇人(厚生労働省・人口動態統計)。二十代後半から三十代での発症が徐々に増加傾向にあり、進行がんの場合五年生存率は著しく低下する。HPVワクチンの普及・検診の徹底が早期発見の鍵とされるが、若年女性の死亡は家族に拭いがたい傷を残す。特に幼い子を抱えた母親の死は、残された子供の心に生涯消えない空洞を穿うがつ。──"母親の死"は、十歳の魂には、生涯で最も深い外傷となる】


 病室のベッドの上で、痩せ細った母アカリが、酸素マスクに薄く息を曇らせていた。


 父タカシは廊下にいた。医師と何かを話していた。


 ユキヒコは、一人で、ベッドの横にいた。


 十歳の手で、細くなった母の手を握っていた。


 ──お母さん。


 ──お母さん。


 ユキヒコは、何度も、何度も、呼びかけた。


 ──お母さーん!


 その声は、ユキヒコの記憶の中で、今、泉の水の音と重なって響いた。


 痩せ細り、呼吸器に繋がれた母の顔が、水面にぼんやりと浮かんだ気がした。



「──!」


 ユキヒコは、はっと、我に返った。


 手の中のペットボトルは、もうとっくに満タンを超え、あふれた湧水が手首を伝って袖口まで濡らしていた。


 少年は、慌てて、もう一本のペットボトルに水を入れ始めた。


 ──何、考えてんだ、僕は。


 ユキヒコは、自分の頬を、ぱちん、と強く叩いた。


 乾いた音が森に響いた。痛みで意識が引き戻された。


 ──お父さんは、まだ生きてる。


 ──お父さんは、ちょっと怪我しただけだ。


 ──お母さんの時とは、違う。



 無理に、自分にそう言い聞かせた。


 本当は、怖かった。


 父の腕の、あの黒ずんだ腫れ上がりを見た瞬間、ユキヒコは母の死の記憶が全身を貫いたのを、はっきりと感じていた。


 同じだ、と。


 あの時の母の、冷たくなっていく指と、今朝の父の熱に潤んだ瞳が、どこか同じ"死の気配"を漂わせていた、と。


 ──でも。


 ──お父さんは、ちょっと、怪我しただけだ。


 ユキヒコは、二本目のペットボトルのキャップを、ぎゅっと閉めた。


 そして──。


 バッ、と立ち上がった。


【トラウマ体験と行動化──幼少期に近親者の死を経験した子供が、後年に類似の状況に置かれた場合、身体が自動的に"反復"の行動様式に入ることが臨床心理学で知られている。これは単なる記憶の再生ではなく、"今度こそ救う"という贖罪的な衝動として表出する。この衝動は大人の想像を超えて強力であり、十歳の子供にも数倍の身体能力と集中力を瞬間的にもたらすことがある】


 ユキヒコは、ペットボトル二本を両脇に抱え、黒曜石の槍を握り直し、来た道を、今度は登りながら、駆け出した。


三 日陰で倒れた父


 車に戻ると、運転席のドアが半開きになっていた。


 ユキヒコの心臓が、ぎくり、と跳ね上がった。


 運転席側に駆け寄り──。


「お父さん!」


 ──タカシは、そこには、いなかった。


 助手席のシートは、夜通しの発汗で色を変え、乾きかけた大きな人の形の湿った痕跡だけが残っていた。


「お父さん!?」


 ユキヒコの叫び声が、朝の草原に響いた。



 ユキヒコは、車の周囲を駆け回った。


 ──いた。


 車の反対側、後輪の陰に、タカシは倒れていた。


 腹這いになった姿勢で、右腕を前に伸ばし、額を土に押し付けるようにして、浅い呼吸をしていた。


 車の屋根がちょうど小さな日陰を作っていた。タカシは熱にうなされながら、無意識に日陰を探して車外に出たのだろう。


「お父さん!」


 ユキヒコは父の傍らに膝をついた。


「ゆ、ユキヒコ、すまん。──暑くて、な……」


 タカシが掠れた声で言った。


 目は半分しか開いていなかった。瞳孔がゆるく拡散していた。


「水だよ! 飲んで!」


 ユキヒコはペットボトルのキャップを外し、父の口元にそっと当てた。


 タカシは震える唇で水を受け、ゆっくり、ゆっくり、喉を動かして飲み始めた。


「ああ……う……」


 タカシは、言葉にならない呻きを漏らしながら、水を飲み続けた。



 ユキヒコは、父の右腕を見た。


 ──!


 少年の顔が、凍りついた。


 父の腕の、昨日巻いた即席の包帯の布切れの上に、びっしりと、黒い何かが、たかっていた。


 蠅だ。


 何十匹もの蠅が、血の染みと化膿した膿の匂いに吸い寄せられて、包帯の隙間に、傷口の表面に、びっしりと群れていた。


【クロバエ科・ニクバエ科の蠅類──腐敗臭と化膿創かのうそうに極めて強い誘引を示す双翅目昆虫。雌は傷口や腐肉に産卵し、幼虫(蛆)は壊死組織を分解する。古代の野戦において兵士の負傷部位に蛆が湧く現象は頻繁に観察され、一部はむしろ『創傷の自然清浄化』として結果的に生存率を高めた例も記録される(近代医療では『マゴットセラピー』として今も特殊医療に用いられる)。しかし同時に、蠅は破傷風菌、黄色ブドウ球菌などの病原体を傷口に持ち込む"感染の運搬者"でもあった。──三世紀の日向山地で父の傷口にたかる蠅たちは、恐らくその両方の可能性を同時に孕んでいた】


 ユキヒコは反射的に、手でその蠅たちを払った。


 ぶわっ、と黒い群れが、重たげに舞い上がり、しかしすぐにまた戻ってこようとした。


 ユキヒコはもう一度、もう一度、手を振った。



 ユキヒコは、涙を堪えながら、父の包帯を外した。


 昨日、父が自分の手で塗ったヨモギとドクダミのペーストは、夜通しの発熱と化膿液の中で、すでに黒ずんだぼろぼろの何かに変わっていた。


 ユキヒコは湧水で傷口を洗った。


 昨日、父がやっていたのと同じ手順で。


 そして、周囲の下草からヨモギの葉を素早く探した。葉の裏が白く、切れ込みがあり、揉むと青い香りがする葉──。


 見つけた。


 ドクダミも、あの独特の強烈な匂いを頼りに、下流側の湿った岩陰で、白い十字の花を咲かせる群落を見つけた。


 ユキヒコは、ヨモギとドクダミを石の上に置き、別の小石の縁でごりごりと押し潰した。


 ──昨日、父がやっていた通りに。


 十歳の小さな掌が、潰れた薬草のペーストを指で掬い取り、父の熱を持った傷口に、そっと、そっと、塗り込んでいった。


 父の呼吸が、わずかに、深くなった。


四 星空の下の、焚き火


 昼が過ぎ、夕方になった。


 ユキヒコは、焚き火の前で、膝を抱えて座っていた。


 父は、日陰のビニールシートの上で、浅い眠りに沈んでいた。


 時おり、熱に浮かされたように、意味の通らないことを呟いた。


 ユキヒコは、何も言わずに、焚き火の炎を見つめた。


 そして、足元の枯れ枝を一本ずつ、丁寧に、丁寧に、炎の中に加えていった。


 ──火を、絶やしちゃいけない。


 ──お父さんが言ってた。火があれば、夜、獣は来ないって。



 夜が来た。


 焚き火の火が、夜の闇の中で、ちろちろと揺れていた。


 頭上には、昨日タカシが呟いていた通りの、二千年前の、信じられないほど豊かな星空が広がっていた。


 肉眼で、天の川が見えた。


 無数の星屑が、帯のように、南北の空を貫いていた。


【古代の星空と日本神話──『古事記』『日本書紀』には天体の記述が少ないが、『古語拾遺こごしゅうい』や『万葉集』には星への畏敬の断片が残る。『夕月夜』『明けの明星』『すばる』など、古代日本人は星ごとに固有名を持って呼び分けていた。特に七月七日の七夕たなばた行事の起源は、中国の牽牛織女伝説の輸入以前に、日本列島独自の『棚機津女たなばたつめ』信仰があったとされ、これは水辺で機織はたおりをする女神に神衣を織って奉げる習俗であった。──弥生時代の日向の夜空は、現代の天文学者が『プラネタリウムで再現しきれない』と嘆くほど、圧倒的な星の密度を誇っていたはずだ。その下で、十歳の少年は、一人、父の命を見守っていた】


 焚き火の炎が、少年の頬を、赤く照らした。


五 父の夢


 その頃──。


 焚き火から少し離れた、日陰のビニールシートの上で。


 タカシは、ある夢を、見ていた。



 それは、東京のアパートの、寝室だった。


 ワンルームの狭い部屋。ベッドの脇に小さな本棚。邪馬台国関連の文献が、びっしりと詰まっていた。窓の外では、早朝の通勤電車の音が、かすかに響いていた。


 タカシは、そこで、目を覚ました。


 若い。


 ──二十代だ。


 まだ起業する前、大学院を出て、アカリと同棲どうせいを始めたばかりの頃の、自分だった。


 隣に、女性がいた。



 若き日のアカリが、ベッドの縁に腰掛けて、タカシの額に、そっと、手のひらを当てていた。


「ごめん、起こしちゃった?」


 アカリの、透明な、あの声。


 タカシは、息を呑んだ。


 ──夢だ。


 ──これは、夢だ。


 ──でも。


 あまりに、鮮やかだった。


 アカリの指先のわずかな冷たさも、シャンプーの匂いも、窓から差し込む朝陽の角度も──全部、全部、"本物"だった。


「いや──」


 タカシは、掠れた声で、答えた。


「すごい、悪夢を、見ていた気がする」


「悪夢?」


 アカリが、小首をかしげた。


 その仕草に、タカシの胸の奥が、鋭く締め付けられた。


「僕が、息子と──邪馬台国の時代に、タイムスリップしてさ」


 タカシの口から、自然と言葉が、漏れ出た。


「なんで?」


 アカリは、くすりと笑った。


「なんで、そんな夢見たの?」


「分からない……でも、ものすごく、リアルで」


「そりゃあ、そうでしょ」


 アカリの瞳が、いたずらっぽく、光った。


「だって、──それって、あなたの夢じゃない」



 タカシの中で、何かが、ぐらりと、揺れた。


 ──夢?


 ──あなたの、夢?


 アカリは、ベッドの脇でタカシの手を、そっと、取った。


 二十代のタカシの、まだ細い指を、二十代のアカリの、まだ温かい指が、ぎゅっと、握った。


「あなた、ずっと言ってたじゃない。学生の頃から。"卑弥呼の時代を、この目で見られたら、何を捨ててもいい"って」


「……言ったな」


「じゃあ、これは、叶った夢ってこと」


 アカリは、屈託なく、笑った。


 二十三歳の、病気を知る前の、何一つ失う前の、アカリの笑顔だった。



 タカシは、その手を、握り返した。


 両手で、包むように。


「……そんな夢、要らないよ」


 タカシの声が、震えた。


「そんな夢なんて、要らない。──君と、ずっと、いられれば」


「タカシ……」


 アカリが、戸惑った顔で、タカシを見た。


 タカシの、二十代の、まだ若い、泣き顔。


 アカリには、分からないのだ。


 自分がこれから、三十六歳で子宮頸がんを発病して死ぬことも。


 残された夫と息子が、どれほど途方に暮れて、どれほど深い穴に落ちるかも。


 ──アカリ。


 ──君は、知らないんだ。


 ──これが、どんなに、どんなに、二度と戻らない時間か。


 タカシの両目から、涙が、すうっと、一筋、流れた。


 枕を、濡らした。



【臨死前夢(death bed vision)──高熱、敗血症、重篤な身体的危機の中で、患者が明瞭に"亡くなった近親者"と再会する夢を見る現象は、現代医療現場でも頻繁に報告される。臨床心理学・緩和ケア医学においては、この現象を脳内の防衛反応、あるいは生存意欲を喚起する身体の最後の祈りとして解釈する説がある。重要なのは、このビジョンが多くの場合、患者に『生きる意志』を強く取り戻させる契機となることだ。"もう一度会えた"記憶は、生の岸辺から戻る橋になる】


六 鹿光、来てよ


 同じ瞬間。


 焚き火の前。


 ユキヒコは、父の額に、そっと、手を当てていた。


 ──!


 少年の指先が、凍りついた。


 焼けるように、熱かった。


 夕方よりも、さらに、上がっている。


 ユキヒコは、慌てて父の顔を覗き込んだ。


「お父さん! お父さん!」


 タカシの顔は、蒼白そうはくだった。


 唇には、ほとんど血の気がない。まぶたの下で、眼球が不規則に動いていた。


 ──夢を、見ている。


 ──でも、もう、ほとんど、生きている顔じゃない。



 ユキヒコの、膝が、震えた。


 ──お父さんが、死ぬ。


 ──本当に、死ぬ。


 少年の、中の、何かが、弾けた。


 ユキヒコは、ふらり、と立ち上がった。


 焚き火の火が、少年の頬を、赤く照らした。


 少年は、一歩、一歩、崖の縁へと、歩いていった。



 夜の崖の上に、立った。


 頭上には、二千年前の、天の川。


 眼下には、真っ暗な、二四〇年の、知らない土地。


 ユキヒコは、天を仰ぎ、ありったけの声で、叫んだ。


「──鹿光、来てよ!」


 少年の叫び声が、夜の山に響いた。


 こだまが、幾重にも、谷を伝わっていった。


「鹿光! あんたが、僕たちを、この時代に連れてきたんだろ!?」


 返事は、なかった。


 ただ、冷たい夜風だけが、少年の頬を撫でた。


「──お父さんを、殺さないで!」


 少年の叫びは、泣き声に変わった。


「一人ぼっちに、なりたくないよ──!」


 その声は、もう、言葉ではなかった。


 魂の、ただの、き出しの、悲鳴だった。



「鹿光〜〜〜〜〜〜〜〜!」


 絶叫が、谷を、貫いた。


 山が、震えた。


 星々が、輝いていた。


 無数の、二千年前の、無音の、星屑たちが、頭上で、ただ、ただ、輝き続けていた。


 ──何の、応えも、返さずに。



 ユキヒコは、その場に、崩れ落ちた。


 駆け出すように、焚き火の方へ戻った。


 日陰のビニールシートの上で、浅い呼吸を繰り返す父の胸に──。


 少年は、しがみついた。


 両腕を、父の、痩せた胸に回し、額を、父の脇腹に押し付け、そして──。


「わあああああああああああああ──!」


 ユキヒコは、泣き叫んだ。


 十歳の、全身の、ありったけの、声で。


 父の、まだ生きている、その胸に、すがりついて、泣き叫んだ。


 焚き火の火が、夜風に、ゆらりと、揺れた。


 星々は、何も言わずに、輝き続けた。


(第九話 了)


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