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第十話 青銅の刃、そして名乗り 


一 闇から、三つの影


「わあああああああああああああ──!」


 ユキヒコの嗚咽が、夜の森に響き続けていた。


 焚き火の火が、ゆらゆらと揺れていた。


 父の胸は、まだ浅く上下していた。しかし、その鼓動はあまりに細く、ちろりと動き続ける焚き火の炎の方がむしろ強く揺れているようにすら、ユキヒコには感じられた。


「お父さん、死なないで──!」


 少年は、父の痩せた胸にすがりついたまま、鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにして、叫び続けた。


「死なないでよぉ──!」



 その、瞬間だった。


 ユキヒコの背後、焚き火の炎の届かない藪の中で──。


 ガサッ。


 乾いた草の擦れる音。


 ユキヒコの全身が、氷のように、固まった。


 少年は、父の胸に顔を押し付けたまま、涙の滲む瞼を、ゆっくりと、開いた。


 ──背後。


 ──誰か、いる。



 ユキヒコは、父の胸から、ゆっくりと体を起こした。


 傍らに置いてあった黒曜石の槍を、震える両手で、掴み上げた。


 そして、ゆっくりと──振り向いた。


 藪の中は、真っ暗だった。


 焚き火の光が、わずかに草の輪郭を浮かび上がらせているだけで、その奥は、完全な、夜の闇だった。



「は、……は、……」


 ユキヒコの呼吸が、荒く乱れた。


 涙で滲んだ瞳を、少年は必死に見開いて、藪の奥の闇を、ただ、凝視した。


 ──いる。


 気配が、ある。


 一つではない。


 二つ、三つ──。


 複数の、人の気配が、闇の奥に、確かに、存在していた。



 闇の中から、ぬうっ、と、一本の手が伸びた。


 続いて、肩。


 腰。


 そして──三つの、人影。



 焚き火の炎の届く距離まで、彼らは、歩み出た。


 ユキヒコの涙に潤んだ瞳の中に、その姿が、徐々に、焦点を結んでいった。


 仮面。


 黒曜石のやじり


 刺青の入った、むき出しの腕。


 ──!


 ユキヒコは、槍を握る手に、ありったけの力を込めた。


(古代人! ──あいつらだ!)


 二日前、沢で遭遇した、あの三人。


 そして昨日、焚き火の岩魚に矢を射ち込んできた、あの──。



 ユキヒコは、父を背中に庇うようにして、前に出た。


 黒曜石の槍の穂先を、まっすぐに、三人の胸のあたりに向けた。


 十歳の両腕が、がたがたと震えた。


 穂先が、小さく、上下に、揺れた。


 ユキヒコは、涙目で、三人を睨み上げた。


「──ど、どうするつもりだ!」


 少年の声が、夜の草原に、掠れた響きで、広がった。



 三人は、動かなかった。


 後ろの二人の男は、それぞれ弓と石槍を手にしていたが、構えてはいなかった。ただ静かに、先頭の少女の後ろに、控えていた。


 先頭の少女の、仮面の奥の両目が、焚き火の炎を受けて、ちろりと光った。


 その目は──。


 ユキヒコが予想していた"殺気"や"敵意"を、一切、含んでいなかった。



 少女は、ゆっくりと、自分の両手を仮面に、かけた。


 そして、──バッ。


 仮面を、外した。



 素顔が、あらわになった。


 ユキヒコは、息を呑んだ。



 焚き火の炎の中で浮かび上がったその顔は──美しかった。


 夜の薄暗がりの中でなお、透き通るような白い肌に、鋭く、しかし柔らかな輪郭を持つ頬。両目は黒曜石のように深く、瞳孔の中心に、小さな朝露のような光を宿していた。


 そしてその頬には──。


 刺青が、なかった。


 周囲の男たちの頬には刻まれていた幾何学模様の刺青──恐らくこの部族の"成人の印"──が、少女の頬には、一切、存在しなかった。


【古代日本における"成人儀礼の非適用"──刺青(黥面・文身)は多くの古代共同体で成人儀礼として施されたが、"特別な身分"に該当する者には意図的に施されない慣習が世界各地で確認される。アマゾン先住民における呪医シャーマンの見習い、アフリカ西部の王族の聖児せいじ、そして琉球王朝の聞得大君きこえおおきみ──いずれも通常の成人儀礼から意図的に除外され、"異なる存在"として育てられた。日本列島においても、古代の巫女みこは幼少期から"俗の印"を帯びないまま成長する事例があった可能性が民俗学的に推定されている。──頬に刺青を持たないこの少女は、この部族において、"別格"の存在だった】


 ユキヒコは、声を失った。


 涙の滲む瞳を、少年は、ただ、少女に釘付けにした。


 ──綺麗だ。


 そんな場合ではない、と分かっていながら、ユキヒコの胸の奥で、そんな言葉が、ひとりでに、浮かんだ。


二 奪われた槍


 その時だった。


 ──バッ。


 ユキヒコが少女に見惚みとれた、まさにその一瞬。


 右脇の背後から、音もなく回り込んでいた、もう一人の男──仮面で顔を覆ったまま──が、ユキヒコの槍の柄を、ぐいっ、と掴んだ。


「あっ!」


 ユキヒコは、振り向いた。


 男は、そのまま槍を、ユキヒコの手から、力強く、持ち上げた。


「……っ!」


 ユキヒコは、槍を握りしめていた指を、ずるり、とがされた。


 黒曜石の穂先が、男の手の中で、焚き火の炎を受けて、短く光った。



 ユキヒコは、反射的に、手を伸ばそうとした。


 だが、男は、素早く、少年の両腕を後ろから羽交はがめにした。


 十キロ近く体重差のある大人の両腕の中で、十歳の少年は、完全に、動きを、封じられた。


「は、離して──!」


 ユキヒコはもがいた。


 だが、男の両腕は、万力のように、少年を抱え込んだまま、ぴくりとも動かなかった。



 その間に。


 少女が、もう一人の男を引き連れて、すっ、とユキヒコの背後──父タカシの倒れているビニールシートの方へ、歩を進めた。


 ユキヒコの目が、見開かれた。


「!!」


 少女と、もう一人の男が、父の腫れ上がった腕を覗き込んでいる。


 少女が何か、小声で男に指示した。


「な、何するんだ!?」


 ユキヒコは、背後の男の腕の中で、必死に身をよじった。


「お父さんに、何するんだ──!」



 少女は、ユキヒコの叫びに答えなかった。


 代わりに、腰の小さな布袋から、何かを取り出した。


 それは──。


 青銅の、小さな、剣のようなやいばだった。


 刃渡り、十センチほど。柄には貝殻が象嵌ぞうがんされ、刃の表面には細かな文様が浮き出ていた。


 焚き火の炎が、その青銅の表面で、ちろりと反射した。


 ──!


 ユキヒコの目が、恐怖で、大きく、見開かれた。


【弥生時代の青銅器文化──倭国に青銅器が本格的に導入されたのは紀元前三〜四世紀ごろ、朝鮮半島経由で流入した。当初は祭器・武器として希少に扱われ、一般の実用道具は依然として石器であった。しかし弥生後期(一〜三世紀)に入ると、青銅の鋳造技術は列島内で飛躍的に発達し、銅剣・銅鉾どうほこ銅戈どうかの他に、小型の青銅製ナイフも作られた。九州では糸島半島や有明海沿岸に青銅製品の出土遺跡が集中し、福岡県・須玖岡本すぐおかもと遺跡、佐賀県・吉野ヶ里遺跡などから多数の青銅小刀が検出されている。──重要なのは、こうした青銅製小刀がしばしば祭祀や"医療"の文脈で登場することだ。神聖な金属としての青銅が、日常の石器では触れてはならない特別な処置──たとえば、うみを切開する医療行為──に限って用いられた可能性が指摘されている。少女が手にしていたこの青銅の刃は、この部族の"医療用神器"であった可能性が極めて高い】


「やめろ──!」


 ユキヒコの絶叫が、夜の草原を切り裂いた。


「お父さんに、そんなもの、近づけるな──!」


「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉっ──!」


三 焚き火の、青銅


 少女は、ユキヒコの叫びに、顔を上げた。


 そして、少年を、まっすぐに、見た。


 その目は、冷静だった。


 ──少年の恐怖を理解している目。


 ──そして、それでもなお、やるべきことがあると知っている目。


 少女は、男たちに、小さくうなずいた。


 そして、青銅の刃を手にしたまま、焚き火の方へ、歩み寄った。


 ユキヒコは、背後の男の腕の中で、目だけを、必死に、追った。



 少女は、焚き火の前で膝をついた。


 青銅の刃の先端を、焚き火の赤い炎の中に、ゆっくりと、差し入れた。


 ごうっ──。


 刃の表面が、炎に舐められ、徐々に色を変えていった。


 青銅特有の金色が、赤みを帯びた黄金色へ、そしてさらに赤へと、熱を吸収しながら変化していく。


【熱による刀剣の滅菌──現代の外科学においても、緊急時に刃物を滅菌する最も古くから知られた手法は"直火にかざす"ことである。摂氏三百度以上で数秒間、金属表面を加熱することで、ほぼ全ての病原菌は死滅する。古代の医術者たちは、細菌の存在を知らないまま、経験則でこの処置の有効性を把握していた。紀元前五世紀の古代ギリシア、ヒポクラテスの著作には"刃物を赤く炙ってから使う"との記述があり、古代エジプトの医療パピルスにも類似の記述がある。──三世紀の日向の巫女がこの技術を知っていたことは、決して偶然ではない。縄文以来、数千年にわたり積み上げられた"野の医術"の結晶だった】


「……」


 ユキヒコは、息を呑んで、見ていた。


 少女は、焼いている。


 切るのではなく、まず、焼いている。


 ──?


 少年の頭の中で、何かが、微かに、動いた。



 少女は、十分に刃を熱し終えると、焚き火からすっと刃を引き上げ、立ち上がった。


 そして、父タカシの傍らに、再び、膝をついた。


 もう一人の男──後ろに控えていた仮面の男──が、父の右腕を、力強く、両手で押さえ込んだ。傷の周囲の皮膚を、ぐっ、と押さえて、膿の溜まった一点を、わずかに盛り上がらせるように、絞り出す。


 少女は、赤く熱された青銅の刃の先端を、父の腫れ上がった腕の、その一点に、慎重に、近づけた。


 そして──。


 プツッ。


 刃先が、皮膚に、刺さった。



 次の瞬間──。


 ブシャッ!


 黄緑色の、濃い、どろどろとした体液が、父の腕から、勢いよく、飛び散った。


 それは、少女の顔に、まるで顔射のように、ばっしゃりと、かかった。


「──!」


 ユキヒコの口が、開いたまま、閉じなくなった。


 少女の、あの美しい頬、白い額、綺麗に結わえられた黒髪、そのすべてに──。


 父の傷の、膿と血が、濃厚に、べっとりと、こびりついていた。



 ユキヒコは、呆然として、その光景を見ていた。


 ──????????


 何が、起きているのか、少年には、まったく、理解できなかった。


 父の腕を、切った?


 でも、少女は、血と膿を浴びて、平然としている。


 嫌がってもいない。


 ただ、真剣な目で、父の傷口から、さらに膿を絞り出させている。



 少女は、飛び散った膿を袖でぐいと拭いもせず、男に低い声で、指示した。


「アラエ!」


 ──洗え。


 もう一人の男──槍を取り上げた方の男──が、ユキヒコを抱え込んだまま、腰の帯から、大きな瓢箪ひょうたんを取り出し、もう一人の男に投げ渡した。


 瓢箪の栓を抜いて、男が、父の傷口に、どくどくと、水をかけた。


【瓢箪と古代の水容器──ウリ科のヒョウタン(Lagenaria siceraria)は、日本列島に縄文時代早期(約一万年前)には既に到達していたと考えられる最古級の栽培植物である。果皮の内側をくり抜いて乾燥させれば軽量かつ堅牢な容器となり、水・酒・種子の保存・携行に極めて優れていた。縄文・弥生遺跡から瓢箪の種子や果皮の痕跡が多数出土しており、"容器革命"以前の水運搬の主役として活躍した。古事記・日本書紀には瓢箪を意味する『ひさご』の記述が頻出し、神事や治水(例:仁徳天皇記の茨田堤の築造神話)においても重要な道具として登場する。──少女の仲間が腰に下げていた瓢箪は、恐らく湧水を汲んで携行していた、この部族の日常の命綱だった】


 傷口から、さらに、黄緑色の膿と、紫がかった古い血が、ずるずる、と流れ出た。


 地面に、どろりとした液だまりができた。


 少女は、膿が出尽きるまで、男に絞らせ続けた。


四 父の、帰還


 どれくらい、そうしていたか。


 やがて──。


「ぐううう……」


 父の、呻き声が、聞こえた。


 タカシの、閉じていたまぶたが、ゆっくりと、震えながら、開いた。



 焦点の合わない、潤んだ瞳で、タカシは、見た。


 眼前に──仮面の古代人。


 その後ろに──血と膿で汚れた、見知らぬ少女。


 焚き火の遠い灯り。


 夜の星空。


 古代人の、刺青の入った腕。


「──!」


 タカシの頭の中は、混乱の渦だった。


(な、何だ──? 古代人? ──いや、アカリ? ──今、俺は、あかりと、東京の、部屋にいて……)


 タカシの意識は、まだ、夢の中に、半分、残っていた。


 若き日のアカリの、手の温もりが、まだ指先に残っていた。


 アカリが、額に手を当てていた、あの朝の、光。


(──夢、だった? あれが? それとも──今、ここが、夢?)


(うう、さっきまで、私は、アカリと、東京で──)



 そして、視界の片隅で──男の腕の中で身をよじらせている、小さな、泥まみれの、人影が、動いた。


「お父さん! 大丈夫!?」


 息子の、声だった。


 タカシの、意識の、ぼんやりとしたベールが、ぴりりと、裂けた。


(ユキヒコ! ──私の、息子!)


 一気に、記憶が、蘇った。


 タイムスリップ。


 二四〇年の、日向。


 沢での遭遇。


 猿の咬傷。


 ヨモギとドクダミ。


 そして──高熱、意識混濁、夢、夢、夢。


(そうだ、私は、古代で、猿に、腕を、噛まれて──)



 タカシは、掠れた声で、ようやく、言葉を絞り出した。


「うう……彼らは──?」


 ユキヒコは、古代人たちの方を、見た。


 そして、安堵と困惑の混じり合った顔で、父に答えた。


「わからないけど……多分、お父さんを、助けてくれてるんだと、思う」



 タカシは、ぼんやりと、自分の右腕を、見た。


 腫れ上がりが──。


 先ほどまでの、あの赤黒いパンパンの腫脹が、明らかに、引き始めていた。


 傷口からは、まだ、わずかに、液体が滲み出ていたが、もはや黄緑色の膿ではなく、赤い鮮血と、透明な組織液だった。


切開排膿術せっかいはいのうじゅつの効用──化膿創の治療において最も効果的なのは『貯留した膿汁の物理的排出』である。抗生剤のない時代、細菌感染を制御する唯一の方法は、感染源となる膿瘍を切開して中身を出し切ることだった。現代医学でも化膿巣に対する処置の第一選択は依然として切開排膿(incision and drainage)であり、抗生剤はその補助的手段に過ぎない。──古代医術の中核に位置するこの技術は、縄文時代から続く数千年の臨床観察の結晶だったと考えられる。ちょうど熱した刃で切開し、感染組織を絞り出し、清浄な水で洗浄し、再び熱処置した刃で縫合する──この一連の手順は、明治期の西洋医学導入以前、日本列島のあらゆる"野の医者"が共有していた基本技術だった】


 タカシの目が、ゆっくりと、少女を、見た。


 膿で汚れた、しかし真剣な、美しい少女の顔を、見た。


 ──助けられた。


 タカシの意識の底で、そう、確信が生まれた。


五 丸薬


 少女は、立ち上がった。


 膿で汚れた顔を、袖の反対側で、さっと拭った。


 そして──後ろに控えていた仮面の男に、片手を差し出した。


「クスリ」


 男は、腰の帯から、もう一つの小さな竹筒を外し、少女に手渡した。



 少女は、竹筒の栓を抜いた。


 中から、ぼろぼろ、と、黒褐色の、小さな、ころんとした塊が、いくつも転がり出てきた。


 ──丸薬だった。


【古代日本の丸薬がんやく──『くすり』の語源は『しき力』とされ、縄文時代から薬草文化の痕跡が確認されている。縄文遺跡からは既にヨモギ、ゲンノショウコ、ドクダミなど約五十種の薬用植物の花粉・種子の出土例がある。複数の薬草を組み合わせる複合処方は遅くとも弥生時代には成立し、天日乾燥・粉砕・混合・成形・再乾燥という一連の製剤技術が確立していた。『古事記』では大国主命が焼かれて死に瀕した際、母神が遣わした『䗯貝比売きさがいひめ』が貝殻を粉にし、『蛤貝比売うむぎひめ』が母乳を混ぜて塗り、蘇生させる神話が記される。これは明確な"複合製剤による救命"の神話的表現である。──少女が手にしていた丸薬もまた、恐らく数種の薬草を組み合わせた、この部族独自の処方薬だった】


 少女は、丸薬の一粒を、指先で、まみ上げた。


 焚き火の赤い光の中で、黒褐色の塊が、鈍く、光った。



 まず、小鍋に、瓢箪の水を少量注いだ。


 小鍋を焚き火の縁に据え、ぐつぐつと、煮立てた。


 丸薬を、二粒、三粒、と、小鍋の中へ、ぽとん、ぽとん、と落とした。


 鍋の中で、薬が、ゆっくりと、溶け始めた。


 苦く、しかしどこか芳しい、薬草の香りが、夜の空気に、広がっていった。



 ユキヒコは、もう暴れていなかった。


 背後の男の腕の中で、じっと、その光景を、見つめていた。


 少女の、所作しょさは、あまりに、手慣れていた。


 手順の一つひとつに、迷いが、ない。


 ──この子は、本当に、薬を、知っているんだ。


 十歳の少年は、本能的に、それを理解した。


 そして、その瞬間、ユキヒコの中で、少女への警戒心は、完全に、解けた。



 薬が煮えた頃合いを見計らって、少女は、小鍋から、一杯の汁を、土器の器に注いだ。


 そして、父タカシの方へ、歩み寄った。


 父は、まだ朦朧もうろうとしていたが、意識は戻っていた。


 少女は、タカシの頭を、そっと、腕で支えた。


 器を、唇の前に、ゆっくりと、傾けた。


「コリャ ユルメチ ノマセッゾ」


 少女は、低い声で、つぶやいた。


 ──これは、ゆるめに、飲ませるよ。



 ユキヒコは、その言葉を、理解した。


 そして、ハッとした。


 ──さっきまで、自分を睨んでいた敵の言葉が、急に、"言葉"として、心に届くようになっていた。


 先ほど、少女の素顔を見て、彼女が膿を顔に浴びてでも父を救おうとしているのを見て、ユキヒコの中で、何かが、溶けた。


 相手を"敵"と見なす氷が、溶けた瞬間、少年の耳は、古代の言葉の"意味"を、初めて、拾い始めた。



 タカシは、少女の支える器の縁から、薬の煎じ汁を、ゆっくりと、飲み始めた。


 苦い。


 目が覚めるほどに、苦い。


 だが同時に──どこかしら、懐かしい、緑の、草の、芳香が、鼻に抜けた。


 タカシは、飲んだ。


 ごくり、ごくり、と、喉を、動かした。


 二、三口飲んで、タカシは、ふう、と息を吐いた。



 少女は、器を、そっと、引いた。


 そして、タカシの頭を、ビニールシートの上に、ゆっくりと、戻した。


「……」


 タカシは、少女を見上げた。


 血と膿で汚れた、しかし穏やかな、表情の、少女を。


「……すまん」


 タカシの口から、小さく、その言葉が、漏れた。


「助け……て、くれたのか……」


 少女は、タカシの言葉を、理解したかどうかは分からない。


 だが、うっすらと、微笑んだ。


 父の意識は、また、薬の作用の中に、ゆっくりと、沈んでいった。



 焚き火の火が、ぱちり、とぜた。


 火の粉が、夜空へと舞い上がり、満天の星々の一つひとつに、溶けるように、吸い込まれていった。


 ユキヒコは、ようやく、男の腕の中から解放され、父の傍らに膝をついた。


 そして、薬を煎じる少女の横顔を、じっと、見た。


 ──この子は、何者なんだろう。


 十歳の少年は、父の寝顔と、少女の横顔を、交互に、見た。


 ──どっちも、綺麗な、顔だ。


 そんな、十歳らしい感想だけが、疲れ果てた少年の頭の中に、ふわり、と浮かんだ。


(第十話 了)



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