第10話 名前を教えて
第10話 名前を教えて
僕はお父さんの前に立った。
槍を向けても、三人は帰らなかった。草を踏み、火の明かりの中へ入ってくる。
「どうするつもりだ」
声が震えた。
真ん中の少女が、立ち止まった。
仮面へ両手をかける。
素顔が現れた。
僕とそんなに変わらないくらいの、女の子の顔だった。
意外で、僕は一瞬、槍の先を見失った。
横から、大きな手が来た。
「あっ!」
槍の柄を掴まれ、持ち上げられた。離すまいとした僕の足まで浮きかける。
次には、腕ごと抱えられていた。
「離せ! お父さんに触るな!」
足を蹴る。肘を動かす。男の体はびくともしなかった。
少女と、もう一人の男が、お父さんのそばに膝をついた。
腕を見て、何か話す。
少女が、刃物を取り出した。
「やめろ!」
僕は体を捩った。
刃は、お父さんではなく、焚き火へ入った。
少女はじっと火を見ていた。それから取り出し、男へ何か短く命じた。
男がお父さんの腕を押さえる。
刃先が近づいた。
お父さんが呻いた。
僕は目を閉じかけ、開けた。見ていなければならないと思った。
傷のところから、濁った血が流れた。
「洗え!」
その一言だけ、分かった。
男が容器を取り、水を使い始めた。
少女はお父さんの顔を覗き、呼びかけていた。
殺そうとしているのではない。
それが分かったのは、僕を押さえる腕の力が少し緩んだときだった。
腕の中から抜け出しても、男は槍を返さなかった。でも、僕がお父さんの横に膝をつくのは止めなかった。
「お父さん」
目が、開いた。
火の方を見た。それから、少女を見て、ようやく僕を見た。
「……ユキヒコ」
「うん。僕だよ」
「彼らは……」
僕は三人を見た。
少女の頬に、血がついていた。自分のものではないはずだった。
「多分、お父さんを助けてくれてるんだと思う」
お父さんの目が、もう一度、少女へ動いた。
口が動いたけれど、言葉にはならなかった。
*
少女は、竹の筒から黒い粒を出した。
小さな丸い塊だった。僕が見ているのに気づくと、一つ持ち上げ、口を指した。
「……薬?」
少女は何か答え、男たちへ向き直った。
僕は、その先にある鍋を見た。
お父さんと湯を沸かした鍋だ。
男が持ち上げて眺め、もう一人が縁へ指を触れようとして、熱さに手を引いた。
そのやり取りが、こんなときなのに少しおかしかった。
少女が短く何か言う。
男たちはすぐ動いた。
鍋から新しい匂いが立ち始める。昨日のお父さんの葉とは違う、もっと苦そうな匂いだった。
僕には、何を混ぜたのか分からない。
いつから、そういうものを使っているのかも。
でも、三人は互いに確かめ合いながら、休まず手を動かしていた。
少女が土器へ汁を移した。
男がお父さんの上半身を支える。お父さんは目を開け、器へ口をつけた。
少し飲んで、咳き込んだ。
「お父さん!」
手を伸ばすと、少女がこちらを見た。
「残すな」
強い言い方だった。
お父さんは嫌そうに顔を歪めながら、また口をつけた。
僕は膝の上で、拳を握っていた。
薬なのだろう。だけど、お父さんが苦しそうな顔をするたびに、止めたくなった。
お父さんはまた横になり、目を閉じた。
少女は腕の処置を続け、男たちに布を出させた。
僕は邪魔にならないところへ座った。
何か、できることがないだろうか。
考えていると、少女が火の横へ手を伸ばした。そこにある枝は、太すぎた。
「こっち」
僕は、昼間に集めた細い枝を差し出した。
少女は受け取り、火へ足した。
それから、もう一本欲しいというように手を開いた。
僕は渡した。
少なくとも、それはできた。
*
三人は、帰らなかった。
男たちが交代で立ち、森の方を見た。少女はお父さんのそばに座っていた。
お父さんはときどき目を開けた。苦いものを口へ運ばれると眉を寄せ、僕が呼ぶと、顔を少し動かした。
それから、また眠った。
夜は、いつまでも終わらないものだと思っていた。
でも、三人が来てからは、することがあった。
火が小さくなると枝を運ぶ。空になった器を受け取る。少女が手を伸ばした先の布を渡す。
言葉は、ほとんど分からなかった。それでも一つ手渡せば、次に必要なものが見えた。
男の一人が、僕の槍を車の脇へ立てかけた。
手を離し、僕を見た。
返してくれたのだ。
僕は槍を取りに行かなかった。
少女がようやく、自分の頬を拭いた。
指先まで汚れていた。
僕は自分の両手を見た。土と葉の色が、爪の間に残っている。
少女の手も、少し似ていた。
「……ありがとう」
顔が上がった。
僕はお父さんを指し、それから頭を下げた。
「助けてくれて」
少女は僕とお父さんを見比べた。
何か言って、腕に巻かれた布を示した。まだ何か気をつけろという意味なのだろうか。
僕が分からない顔をすると、少女はお父さんのそばへ座り直した。
帰らずに見ていてくれる。
今は、それだけでありがたかった。
僕は膝を抱えた。
隣に座っているのに、呼び方が分からない。
さっきまでは、あの人、とか、少女、とか、それでよかった。近づいてきたら逃げる相手だった。
でも、今は違った。
「僕、ユキヒコ」
自分の胸を指した。
少女が首を傾ける。
「名前。ユキヒコ」
もう一度言う。
それから、お父さんを指した。
「お父さんは、タカシ」
男たちがこちらを向いた。
少女の目が、少し大きくなった。
「……名?」
「うん。君の名前は?」
「わの、名?」
僕は頷いた。
少女は二人の男を見た。男たちが顔を見合わせ、一人が、驚いたように息を吐いた。
「神さんが、名を……」
そのあとが、聞き取れなかった。
僕は少し不安になった。
聞いてはいけないことだったのだろうか。お父さんなら、こういうとき、何か分かったかもしれない。
でも、お父さんは眠っている。
「ユキヒコ」
少女が言った。
ちゃんと、僕の名前だった。
「タカシ」
お父さんを見て言う。
僕は何度も頷いた。
「そう。それで、君は?」
少女は、ほんの少し背筋を伸ばした。
「わの名は、カヤっちゃ」
カヤ。
口の中で繰り返す。
同じ音を、今度は声に出した。
「カヤ」
「カヤ姫と、呼びなっせ」
男が言った。
僕は慌てて言い直した。
「……カヤ姫」
カヤ姫が笑った。
そのとき初めて、綺麗な顔だと思った。
仮面を取ったときも同じ顔だったはずなのに、さっきは、それどころではなかった。
「君たちは?」
男たちへ尋ねる。
二人は仮面へ手をかけた。
見覚えのある刺青の顔と、今まで隠れていた顔が現れた。
「ワシは、ドグリ」
「わの名は、マグリじゃ」
僕は二人を交互に指した。
「ドグリ。マグリ」
二人が頷く。
ドグリは、僕の槍を掴んだ男だった。マグリは、お父さんの腕を押さえていた男だ。
もう、仮面の男、とは思わなかった。
木々の上が明るくなっていた。
カヤ姫の髪の端に、朝の光が当たっている。
僕はしばらく見て、それからお父さんを振り返った。
息をしていた。
まだ治ったわけではない。
でも、次に困ったときは、誰を呼べばいいか分かった。
僕は三人の名前を、もう一度、頭の中で繰り返した。




