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第十一話 名を、明かす


一 飲み干せ


 焚き火の炎の揺らぎの中で、父タカシは、まだ、浅い呼吸を繰り返していた。


 腕の腫れは、少女の青銅の刃によって開かれ、膿は、一度、大きく出し切られた。


 だが、それで全てが終わったわけではなかった。


 体の芯に燃え続ける高熱は、まだ、引いていない。


 ユキヒコは、父のすぐ傍らに膝をつき、父の額を、濡れ布で、ぬぐい続けていた。



 父は、首を、わずかに、傾けた。


 焦点の定まらない目で、焚き火の向こう、鍋を囲む古代人たちの方を、見た。


(うう……彼らは……何を……?)



 焚き火を挟んだ向こう側では──。


 ドグリと呼ばれていた古代人の男が、鍋を覗き込んで、じっ、と中身の色を見ていた。


 男の顔には、黒い幾何学模様の刺青が、頬からこめかみにかけて、細く、しかし確かに、刻まれていた。


「コイバ、カナノ、ツボジャナカカ?」


 男は、小さく、呟いた。


 ──これは、金の、壺じゃないか?


 もう一人の男、マグリが、鍋の縁にもたれかかるように身を寄せ、感嘆したように、頷いた。


「サスガ、カミサンジャナ」


 ──さすが、神様かみさんじゃな。


【古代日本語における"カネ"と"カナ"──現代日本語で"きん"を指す語は、古代にはむしろ"金属全般"を意味していた。『かね』は鉄・銅・青銅を含む総称であり、青銅器のことを"あかがね"(赤金)、鉄器のことを"くろがね"(黒金)、きんそのものを"こがね"(黄金)と呼び分けた。『日本書紀』崇神紀には、すでに"てつ"と"どう"を区別する記述が見られる。──ドグリが言った『コイバカナノツボ』──"これは金の壺ではないか"──は、文脈から判断すれば、"まるで金属の壺のように薬効のある鍋"、あるいは端的に"宝物じみた鍋"という意味だった。この時代の倭人にとって、鍋一つで複雑な薬を調合することは"神の業"に映ったのである】



 父は、混濁した意識の中で、その言葉を、何となく、聞いていた。


(かみさん……? 神様……? ──俺が?)


 父の頭の中は、夢とうつつの狭間で、ぐるぐると、揺れていた。


 先ほどまで、若き日のアカリと、東京のアパートにいた気がする。アカリが額に手を当てていた。タカシの額に。


 ──違う。


 あの手の温もりは、夢だった。


 今、額をぬぐってくれているのは、ユキヒコの、十歳の、小さな指だ。


 タカシは、その温度の違いに、ようやく、"うつつ"の方の岸辺へ、少しずつ、戻りつつあった。



 焚き火の鍋の前で。


 少女カヤが、腰の竹筒から、丸薬を、からから、と振り出した。


 ぽとん、ぽとん、と、煮立つ鍋の中に、丸薬が、落ちていった。


 ぐつぐつ、と。


 黒褐色の薬草の色が、湯の中に、じわじわと、溶け出した。


 鍋から、独特の、しかし不思議なほど深い、芳香が、立ち昇った。


 ヨモギ。ドクダミ。甘草かんぞうらしき甘み。そして──何か、もっと苦い、木の皮のような香り。


【複合薬の伝承──古代日本の薬草調合は、単一種ではなく複数の薬草を混合することで相乗効果を得る方向に早くから進化していた。『和名類聚抄わみょうるいじゅしょう』(十世紀の辞書)にはすでに数百種の薬草名が記録されており、その多くは縄文・弥生期から使用されていたと考えられる。特に注目されるのは、漢方薬学が中国から本格的に流入する前から、日本列島独自の"多剤併用"の考え方が存在していた可能性である。九州山間部の山の民が数種の薬草を組み合わせた丸薬を常備していたことは、古代医術の洗練度を物語る】



 やがて、鍋が、十分に煮立った。


 マグリが、小さな土器の器に、その煎じ汁を、慎重に注ぎ入れた。


 湯気が、夜風に、ゆらりと、立ち昇った。


 少女は、器を、両手で受け取った。


「サア、デキタゾ」


 少女は、低い声で、そう、告げた。



 マグリが、大きな身体を屈め、父の背中に片腕を滑り込ませた。


 ぐっ、と上半身を、起こした。


 父の頭が、少女の胸の高さまで、引き上げられた。


 少女は、器を、父の口元に、傾けた。


「ノメバイ」


 ──飲みなさい。


 父の、割れた唇が、ひんやりとした土器の縁に、触れた。



 煎じ汁は、想像を絶する、苦さだった。


 ──苦い。


 ただ、苦い。


 舌の表面から、喉の奥までが、一気に、しわくちゃになるような、痺れる苦さだった。


 父は、ごくり、と一口、飲み下した。


「う……」


 顔を、ほんの少しだけ、らそうとした。


 だが、少女はそれを許さなかった。


 器の縁を、もう少し、強く、父の唇に押し付けた。


 もう一口、流し込まれた。


 ごくり。


 父の喉仏が、動いた。



 三口目。


 父は、反射的に、咳き込んだ。


「ゲホッ、ゲホッ──」


 口の端から、苦い薬が、顎を伝った。


 少女の眉が、きゅっ、と引き締まった。


「ミナ、ノメ!」


 ──全部、飲め!


 少女の声は、低く、しかし、鋭かった。


 器の中身は、まだ、三分の二、残っていた。



 父は、ぐ、と顔を背けようとした。


「ノコスナ!」


 ──残すな!


 少女は、もう一度、強い声で、命じた。


 マグリの腕が、父の背中を、さらに強く、支えた。


 ユキヒコは、傍らで、呆然として、その光景を、見ていた。


 ──強い。


 この少女は、自分より少し年上なだけの、細身の少女にしか見えないのに。


 大人の男に薬を飲ませる時の、その指示は、一切の妥協を許さない、祭司そのものだった。



 父は、観念した。


 器の中の、残った煎じ汁を、最後まで、飲み干した。


 ごくり、ごくり、ごくり──。


 最後の一滴までが、父の喉を、降りていった。


 飲み終えた瞬間。


「うう……」


 父の瞳孔が、ゆるりと、上方へ、転がった。


 白目を、剥いた。


 身体から、完全に、力が、抜けた。


 父の上半身が、マグリの腕の中で、ぐたり、と崩れ落ちた。


「お父さん──!」


 ユキヒコが、反射的に、父の手を掴んだ。



 だが、少女は──。


 にこり、と、微笑んだ。


「ナンナ、イッチャ」


 ──なんでもないっちゃ。


 少女の声は、先ほどまでの厳しさが、嘘のように、柔らかかった。



【古代の麻酔の代替──現代医学における麻酔の歴史は、明治以降の西洋医学導入以来、飛躍的に発展した。しかし、それ以前の"野の医術"では、苦い薬草の大量服用による意識の鎮静化、すなわち強制的な昏睡誘導が、しばしば処置の最終段階に用いられた。ヨモギ・ドクダミ・センブリ・ヤマウコギなどの複合投与による鎮静効果は、近年の薬理学的研究でも一部裏付けられている。"薬の効きすぎ"で患者が意識を失うのは、むしろ"当然の経過"として予想されていた。──少女の『ナンナイッチャ(何でもないよ)』の言葉は、その経験則を完全に踏まえた、プロの医術者の言葉だった】


 ユキヒコは、少女の顔を、見上げた。


 少女の瞳は、焚き火の炎を映し、穏やかに、揺れていた。


 ──大丈夫、なんだ。


 十歳の少年は、少女を信じる、と、決めた。


二 夜通しの看病


 少女は、崩れ落ちた父を、ビニールシートの上に、丁寧に、横たえさせた。


 そして、両脇の男たちに、それぞれ、指示を出した。


「ノコッタトバ、ヌッテヤレ」


 ──残ったのを、塗ってやれ。


「ヌノン、ワケテ、キチナッセ」


 ──布を分けて、巻いてやれ。



 ドグリが、焚き火の脇に置かれていた鍋の縁に、刃を立てた。


 鍋の底と縁に、煮詰まった丸薬の黒いどろどろが、こびりついていた。


 ドグリは、それを、器用に、ナイフでこそぎ取った。


 黒褐色の、ねっとりとした、薬草ペーストが、刃先に、集まった。



 ドグリは、そのペーストを、父の傷口の上に、慎重に、塗り込んでいった。


 少女の青銅の刃で切開された傷口の、周囲の、赤く腫れた皮膚の上に、黒いペーストが、じわりと、染み込んでいく。


 父は、わずかに、眉を寄せた。


 だが、意識はなく、それ以上の反応は、なかった。



 マグリが、腰の荷物から、長い、木の皮の繊維で編まれた、あらい布を、取り出した。


 布は、土色で、しかし想像以上に柔らかく、通気性のある織りだった。


【古代日本の繊維──弥生時代の日本列島で使用された繊維は、主にアサ苧麻カラムシ、藤、葛、木の皮(特にコウゾ、シナノキ、クワ)などの植物繊維だった。縄文時代の福井県・鳥浜貝塚からは、すでにカラムシで作られた繊維の痕跡が出土している。弥生時代に入ると機織り技術が飛躍的に発達し、佐賀県・吉野ヶ里遺跡からは弥生中期の機織具が多数検出されている。特に傷の手当てに用いる"布"は、煮沸消毒と乾燥を繰り返した清潔な麻布が好まれた。──マグリの取り出した布は、この"野戦衛生材料"としての機能を十分に満たす、上質な手当用の布だった】


 マグリは、父の腕に、その布を、丁寧に、何重にも、巻き付けていった。


 ぴったりでなく、しかし緩みもなく。


 血と薬が吸える隙間を残しつつ、患部を保護する──そんな、経験に裏打ちされた、絶妙な巻き方だった。



 ユキヒコは、一歩離れた場所で、じっと、その処置を、見つめていた。


 三人の動きは、完全に、連携していた。


 少女が、全体を統率する。ドグリが、処置の細部を担う。マグリが、身体的な支持と布の扱いを担う。


 誰も、無駄な動きをしていなかった。


 ──医者と、看護師と、助手、みたいだ。


 ユキヒコの中で、そんな、二十一世紀の比喩ひゆが、自然に、浮かんだ。



 処置が終わると、少女は、父の枕元に腰を下ろし、そして──そのまま、動かなかった。


 男たちも、焚き火の周りに、それぞれの位置を取り、静かに、座った。


 ユキヒコは、少女の隣に、おずおずと、腰を下ろした。


 父の呼吸は、依然として、浅い。


 だが、先ほどまでの死にひんした息遣いとは違い、明らかに、"眠っている人間"の呼吸に、近づいていた。



 父N──。


 (その後、古代人たちは、一晩中、私の看病をしてくれたという)


 夜が、深く、更けていった。


 焚き火の火を、マグリとドグリが、交代で、絶やさずに、守り続けた。


 少女は、時おり、父の額に、濡れた布を当て直した。


 ユキヒコは、いつの間にか、少女の肩のあたりに、こてん、と頭を預けて、浅く、眠りに落ちていった。


 ──その時、少女は、少年の寝顔に、ほんの一瞬だけ、微笑みを浮かべた。


 だが、ユキヒコは、それを、見ていなかった。



 父は、時おり、うっすらと、目を覚ました。


 視界に、仮面の古代人が見えた。


 焚き火の炎が見えた。


 ──(私は時折、目を覚ますが……)


 少女が、土器の器を、再び、父の口元に、あてがった。


 苦い、あの薬草の煎じ汁が、また、喉を降りていった。


「──う……」


 (また、何か、苦いものを、飲まされ……)


 父のまぶたは、すぐ、また、落ちた。


 ──(意識を失うようなことを、繰り返していたらしい)



 夜が、ゆっくりと、明け始めた。


三 名前を、持つということ


 東の山際に、紫紺色の夜空が、徐々に、あかく、染まり始めた頃──。


 ユキヒコは、少女の肩から、ふと、頭を持ち上げた。


 父は、まだ、眠っていた。


 傷口には、黒いペーストの塗られた上から、清潔な布が、ぐるりと、巻かれていた。



 ユキヒコは、父の寝顔を、しばらく、見つめた。


 それから、少女の方へ、そっと、視線を、移した。


「また、寝ちゃった」


 ユキヒコが、小さな声で、言った。


 少女は、薄く微笑んだ。


「クスリバ、ヨーケ、キイチョルンヨ」


 ──薬が、よく、効いているのよ。


 ユキヒコは、頷いた。


 少女の言葉が、ちゃんと、理解できた。


 昨夜、少女の素顔を見て、膿を顔に浴びてでも父を助けようとする姿を見て──ユキヒコの中で、この古代人たちを"敵"と見なす氷が、完全に、溶けた。


 氷が溶けた途端、古代の言葉の"意味"が、少年の耳に、すっと、届くようになっていた。



 二人は、しばらく、黙っていた。


 焚き火が、ぱちり、と小さく、爆ぜた。


 ドグリとマグリは、焚き火の反対側で、うつらうつらと、仮眠を取っていた。


 少女だけが、起きていた。



「……」


 ユキヒコは、何か、言葉を、探した。


 少女は、黙って、父の呼吸を見守っていた。


 空の紫紺色が、徐々に、薄くなっていく。


 五月の朝が、そろそろ、始まる。



 ユキヒコは、思い切って、言った。


「ぼ、僕の名前は、ユキヒコ」


 少女が、ふと、顔を上げた。


「お父さんは、タカシ」


 ユキヒコは、少し、早口になった。


「君の、名は?」



 少女が──。


 一瞬、息を、んだ。


 仮眠を取っていたはずのドグリとマグリまでが、ぱっ、と顔を上げた。


「ナ……!?」


 少女の、声が、裏返った。


 三人の目が、驚愕で、見開かれていた。


 ユキヒコは、戸惑った。



 少女が、ゆっくり、確認するように、繰り返した。


「ワノナ……?」


 ──我の、名……?


「そうだよ」


 ユキヒコが、少女の方へ、少しだけ、身を乗り出した。


「僕の名前は、ユキヒコ。お父さんは、タカシ。──君は?」



【古代日本における"真名まな"と"忌名いみな"──古代日本、特に弥生から飛鳥時代にかけて、"名前"は単なる呼称ではなく、その人の"魂そのもの"と一体のものと考えられていた。真名(まな/本当の名前)を相手に教えることは、自分の魂を相手に預けることに等しく、のろいにかけられる危険性を孕んでいた。そのため日常では通名(とおりな/仮の名)を使い、真名は親・配偶者・主君など限られた人間にしか明かさなかった。この風習は『忌名(いみな/はばかる名)』と呼ばれ、平安時代の貴族社会にまで濃厚に残った。『古事記』において神々が互いに名を明かす場面が、そのまま"契約"や"帰順"を意味するのも、このためである。スサノオがヤマタノオロチを退治した後、クシナダヒメの親神に自分の名を告げる場面は、即ち婚姻の成立を意味した。──三世紀のヒムカの山の民において、少年が少女に"名前"を尋ねるという行為は、この世界観においては極めて重大な意味を持っていた。それはほとんど、"契約"の申し出に等しかった】



 少女は、ユキヒコの顔を、まじまじと、見つめた。


 朝焼けの光が、少しずつ、草原に、差し込み始めていた。


 少女の頬が、うっすらと、紅色に、染まった。


 ──朝焼けのせいか、あるいは。



「ヤッツラモ……ナ、アルンナ?」


 少女は、驚きのあまり、周囲の男たちに、確認するように、振り返った。


 ──あいつらも、名前が、あるのか?


 マグリが、呆然と、呟いた。


「アー、ユキヒコ、タカシ……」


 ──あー、ユキヒコ、タカシ……。


 ドグリが、興奮気味に、頭を振った。


「カミサンガ、ナバ、モラシタッ!!」


 ──神様が、名前を、漏らした!



 ユキヒコには、三人の反応が、最初、理解できなかった。


 ──名前を、"漏らした"?


 ──言っただけなのに?



 だが、少女は、何かを、決意したように、息を、ふうっ、と吐いた。


 そして、両脇の男たちに、小さく、頷いて、指示した。


「ナラバ、ワラモ、ナバ、アカソカイ」


 ──ならば、我らも、名を、明かそうか。



 その瞬間──。


 東の山際から。


 一筋の、朝日が、空を、切り裂いた。


 紫紺色の夜空の、最後のはしが、まばゆい黄金色に、塗り替えられた。


 焚き火の炎が、朝日の前で、すっ、と光を、失った。


 そして、少女の顔が──。


 朝日の光の、ちょうど正面に、据えられた。


四 カヤ、という名


 少女は、立ち上がった。


 背後から、真横から、朝日が、少女の全身を、真っ白に、照らし出した。


 焚き火のすすで汚れていたはずの頬も、昨夜の膿を拭い残した首筋も、すべてが、朝の光の中で、新しい、清浄な、別の何かに、生まれ変わったように見えた。


 その美しさは、現代の、十歳の少年の語彙ごいでは、到底、表現できない種類のものだった。


 神々しい、と言うには、人間すぎた。


 可憐かれんだ、と言うには、りんとしすぎていた。


 ただ、朝日に照らされた、一人の少女が、そこに立っている。


 ──それだけが、少年の視界の、すべてだった。



「ワノナハ──」


 少女が、ゆっくりと、口を、開いた。


「カヤ、ッタイ」


 ──我の名は、カヤ、と、いう。



 その一言が、ユキヒコの胸の中に、落ちた。


 石が、池に、落ちるように。


 波紋が、少年の、まだ幼い心臓の、底の底まで、ゆっくりと、広がった。


「──カヤ……」


 ユキヒコの口から、その名が、呆然と、漏れた。


 まるで、初めて覚えた外国語を、試しに発音してみるような、不器用な、響きだった。



 だが、その名を口にした瞬間、ユキヒコの体の中で、何かが、変わった。


 ──僕は、この子の、"真名"を、知っている。


 ──この子が、僕に、それを、明かしてくれた。


 ユキヒコは、その重みの意味を、十歳の少年の理解能力の範囲で、しかし確実に、感じ取っていた。


【古代日本の婚姻と名の関係──『万葉集』には、男性が女性に名前を尋ねる歌が多数収録されている。巻一の冒頭に置かれた雄略天皇の歌『もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね』は、その典型である。『家聞かな 名告らさね』──家を教えてくれ、名を告げてくれ──この問いかけは、そのまま"求婚"を意味していた。古代日本において、名を明かすことは、その人の心と身体を相手に委ねることと同義だった。雄略天皇の歌は、そうした真名信仰の底流を、五世紀の倭王が明確に踏まえていたことを示す】



 ユキヒコの顔が、朝日の中で、みるみる、あかく、染まっていった。


 十歳の少年は、自分の心臓が、なぜだか、胸の奥で、ばくばくと、速く打ち始めたのを、感じていた。


 ──なんで、こんなに、どきどきしてるんだ、僕。


 ──お父さんが、まだ、危ないのに。


 でも、カヤという少女の名を、自分の口で、一度、発音した瞬間──


 その名は、もう、少年の胸の中に、消えることのない、一つの、ちいさな、ともしびとして、刻まれてしまっていた。



 マグリが、くすりと、笑って、ユキヒコの肩を、ぽんと、叩いた。


「カヤヒメト、ヨビナッセ」


 ──"カヤ姫"と、呼びな。


 ──姫、と?


 ユキヒコは、少女の顔を、もう一度、見上げた。


 ──この子は、ただの、同年代の少女じゃないのか?


 ──"姫"……?


 ユキヒコの頭の中で、何かが、音を立てて、噛み合った。


 頬に刺青がないこと。


 男たちに命令を出せる立場であること。


 薬の調合を、完全に、統率していたこと。


 ──そうか。


 ──この子は、この部族の中で、"特別な"少女なんだ。



 ユキヒコは、気恥ずかしそうに、視線を、少し、下に、落とした。


 そして、もう一度、小さく、唇を動かした。


「……カヤ姫」


 ──今度は、ちゃんと、"姫"を、つけて。


 少女は、その呼び方に、微笑んだ。


 朝日の中で、白い歯が、ちらりと、見えた。



 ユキヒコは、慌てて、話題を、らそうとした。


「え、えと、君たちは──」


 と言いかけて、残りの二人の男たちに、視線を、移した。


 男たちは、互いに、顔を見合わせた。


 そして、二人とも、自分の顔を覆っていた仮面に、手を、かけた。



 マグリと、ドグリの、仮面が、ゆっくりと、外された。


 現れたのは──。


 頬に、黒い幾何学模様の刺青が刻まれた、二人の、しかし案外、素朴で、どこか愛嬌のある、顔だった。


【古代日本の刺青文様──『魏志倭人伝』は倭人の刺青について『男子は大小となく、皆黥面文身す。いにしえより以来、其の使中国にいたるや、皆自ら大夫と称す。夏后少康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身、以て蛟龍の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕らえ、文身するは亦以て大魚・水禽を厭う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異なり、或は左に或は右に、或は大きく或は小さく、尊卑差あり』と詳述している。つまり倭人の刺青は、水中作業の際の魚避けのまじないに始まり、後に装飾化し、さらには"身分と出身を示す識別符号"として発達した。文身ぶんしんの模様は、村ごと、氏族ごと、階級ごとに異なっていた。──ドグリとマグリの頬の刺青は、この部族──恐らく『ミタイ族』──の成人男性の固有模様だった】



 ドグリが、頭を、軽く下げるようにして、名乗った。


「ワシハ、ドグリッタイ」


 ──俺は、ドグリ、と、いう。


 続いて、マグリも、にっ、と歯を見せて、笑いながら、名乗った。


「ワノナハ、マグリ、ジャ」


 ──俺の名は、マグリ、じゃ。



 ユキヒコは、一人ずつ、視線を、向けた。


「ドグリ……マグリ……」


 二度、三度と、口の中で、転がした。


 宮崎弁に似た、濁音の多い、素朴な響きの名だった。


 そして、最後に、視線を、少女の方へ、戻した。


 少しだけ、照れくさそうに──。


「……カヤ姫」


 もう一度、その名を、呼んだ。


 少女は、朝日の中で、また、微笑んだ。


五 運命の、分かれ道


 焚き火の傍らで、父タカシは、まだ、深い眠りの中にいた。


 高熱は、明け方になって、ようやく、峠を越え始めていた。


 額に、ユキヒコが、時おり、濡れ布を当て直していた。



 父N──。


 (私が意識を失っている間、ユキヒコは、古代人たちと、交流を深めていた)



 幼い少年と、三人の山の民は、焚き火の脇で、それぞれの名を、交換し合った。


 朝日は、徐々に、高度を上げていった。


 森のこずえが、黄金色に、一つ、また一つ、順に、照らされていった。


 鳥たちが、新しい一日の、さえずりを、始めていた。



 マグリが、荷物の中から、昨日の残り物らしい、どんぐりクッキーを、取り出した。


 そして、ユキヒコに、一つ、差し出した。


 ユキヒコは、礼を言って、受け取った。


 カヤ姫が、湧水の入った瓢箪を、差し出した。


 ユキヒコは、それも、ありがたく、受け取った。


 朝焼けの光の中で、古代人三人と、現代から来た十歳の少年が、焚き火の傍らで、小さな朝食を、分け合っていた。



 父N──。


 (思えば、この事が……)


 父は、まだ、眠っていた。


 その、頬に、朝の光が、差し込んだ。


 閉じられたまぶたの下で、眼球が、わずかに、動いた。


 夢を、見ているのだろうか。


 あるいは、もう、夢の中から、戻ろうとしているのだろうか。



 父N──。


 (……私と、ユキヒコの、運命の、分かれ道、だったのかもしれない)



 焚き火の煙が、朝の風に、ゆらりと、揺れた。


 煙は、朝日に、溶けるように、上空へと、昇っていった。


 二千年前の、ヒムカの、五月の、朝だった。


 少年と、少女の名前が、今、互いの中で、小さな、しかし消えない、灯として、灯り始めていた。


 ──その灯が、やがて、この時代の、何を照らすことになるのか。


 それは、この時の父にも、ユキヒコにも、カヤ姫にも、ドグリにも、マグリにも──。


 誰にも、まだ、分かっていなかった。


(第十一話 了)



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