第11話 猿に噛まれた男
最初にはっきり分かったのは、腹が減ったということだった。
目を開ける。車の窓の向こうで、木の葉が揺れていた。
腕を動かすと、まだ痛む。だが、あの、骨の奥まで冷えるような寒さは薄れていた。
「お父さん」
ユキヒコが、ドアの外から顔を出した。
その目の下に、影があった。
「水、飲む?」
「……ああ。それと、何か食べたい」
息子は一瞬、固まった。
次には、車の向こうへ走っていた。
「食べたいって! お父さんが!」
自分が飯を求めただけで、あれほど喜ばれるとは思わなかった。
私は背もたれから体を起こした。腕には布が巻かれている。誰かの手で、何度も取り替えられたらしかった。
ここまでの記憶は、ところどころ抜けていた。
苦いものを飲んだ。火を見た。ユキヒコの声を聞いた。
それから、アカリの夢を見た。
車の脇へ、見覚えのある男が来た。
「起きたか。食えるなら、よか」
私は顔を上げた。
聞き取れた。
音の一部を拾って推測したのではなく、何を言ったのか、そのまま分かったのだ。
「……君は」
「マグリじゃ。ユキヒコから聞いちょらんか」
マグリ。
息子が何度か、そう呼んでいた気がする。
私は頷こうとして、それより先に言わなければならないことを思い出した。
「助けてくれたんだな」
マグリは一瞬、目を逸らした。
「ワシらは、カヤ姫の言う通りにしただけっちゃ」
そこへユキヒコが戻ってきた。
私の手に器を持たせ、まだ熱いから、と念を押す。
私は少しずつ口へ運んだ。
息子もマグリも、何も言わずに見ていた。
「……うまい」
マグリの顔が緩んだ。
私は器を下ろし、頭を下げた。
「ありがとう。本当に、助かった」
あのとき追い返した相手に、命を拾ってもらった。
それだけは、熱に浮かされていた私にも分かった。
*
熱が落ち着いてからも、すぐ元通りとはいかなかった。
少し歩くと疲れ、弓を持ち上げると傷が引きつれた。私は車のそばで過ごし、ユキヒコはそこへ来るドグリやマグリについて回った。
水や食べ物を持ってきてくれる二人は、用が済んでも、しばらく息子の相手をした。
驚いたことに、彼らの言葉は、その後も分かった。
訛りは強い。聞き返すこともある。だが、沢で槍を向けられたときのように、言葉そのものが壁になることはなかった。
熱が下がった拍子に耳までよくなった、などという説明は、どう考えてもおかしい。
おかしかったが、その理由を確かめる相手はいなかった。
私は、今は分かることを喜ぶことにした。
ある日、マグリがユキヒコへ弓を渡した。
息子が試しに引く。
私が持つ弓では、びくともしなかった腕が、今度は動いた。
「……引ける」
「それなら、お前に合うじゃろ」
マグリが笑った。
ユキヒコは何度も持ち直し、自分の手と弓を見比べた。
「僕が使っていいの?」
「使わんで、何のために渡したとや」
息子が、こちらを振り返った。
見ているか、と言いたそうな顔だった。
「ああ。よかったな」
私は手を上げた。
マグリが、ユキヒコの立つ向きを直した。肘を少し下げ、肩に触れる。
それだけで、弓を持つ姿が変わった。
私が昨日まで教えようとしていたことの半分は、言わなくてよかったらしい。
ユキヒコが弦を戻す。
また引く。
もう一度、マグリを見る。
教わった動きを自分の体で確かめる息子を、私は車のそばから見ていた。
*
私も山へ同行できるようになったころ、四人で狩りに出た。
ドグリが先を歩き、マグリとユキヒコが続く。
私は最後尾だった。
遅れないようについていくつもりだったが、いつの間にか、ユキヒコがときどき振り向いていた。
「お父さん、ここ、根っこ」
「ああ。見えてる」
言った直後に、その根へつまずきかけた。
息子は何も言わなかった。それがかえって堪えた。
ドグリが手を上げた。
全員が止まる。
鳥がいた。
枝の上を少しずつ動いている。私は弓へ手を伸ばしかけたが、マグリがユキヒコの肩を押した。
「やってみい」
息子が進み出た。
足元を確かめる。弓を持つ。矢をつがえる。
急がない。
鳥の方が、待っている息子へ近づいてきたように見えた。
弦が鳴った。
枝が揺れた。
鳥が落ちた。
「……当たった」
ユキヒコはしばらく、弓を持ったまま立っていた。
マグリが背中を叩く。
「何しちょる。拾わんか」
そこでようやく駆け出した。
落ち葉の間から鳥を持ち上げ、こちらへ向ける。
「お父さん!」
「見てた。ちゃんと見てたぞ」
私は近づき、鳥を覗き込んだ。
矢が刺さっている。偶然落ちていたものを拾ったわけではない。息子が自分で狙い、射たのだ。
「ユキヒコは、よか腕しちょるなあ」
「もらった弓のおかげだよ」
「弓だけで獲れるなら、そこらに立てとけばよか」
マグリが笑った。
私も笑った。
誇らしかった。胸を張って、これは私の息子だと言いたいくらいだった。
同時に、私も何か一つ獲って帰りたかった。
少し先で、鹿を見つけた。
草を食べている。こちらには気づいていないように見えた。
私は弓を持ち上げた。
落ち着け。
急がなければいい。ユキヒコだって、今、やったばかりだ。
肩から力を抜こうとした。
かえって、どこに力が入っているか分からなくなった。
鹿が顔を上げた。
目が合った。
次には、もう背中しか見えなかった。
「……またか」
私は弓を下ろした。
後ろで、マグリが息を漏らした。
「タカシは、心の音がうるさか」
「心の音?」
「獲るぞ獲るぞって、体が全部言うちょる」
私は自分の肩を見た。
そんなものが見えるのか、と言いかけてやめた。見えなかったのは、私だけなのだろう。
「だかい、猿にも噛まれたっちゃが」
ドグリが笑った。
「猿に噛まれた彦っち、呼ばれるぞ」
「もう呼んでるじゃないか」
二人が声を上げて笑う。
ユキヒコまで笑った。
私は傷のある腕を見た。痛かったことを思い出して腹は立ったが、二人が私を置いて帰らず、こうして連れて歩いていることも分かっていた。
「せめて、鳥を獲った男にしてくれないか」
「獲ってから言いなっせ」
返す言葉がなかった。
そのあとも、手ぶらなのは私だけだった。
ドグリとマグリは獲物を持ち、ユキヒコは自分の鳥を大事そうに運んでいた。
私は木々の間を見た。
もう少しだけ。何かいれば。
「お父さん、帰ろうよ」
ユキヒコが呼んだ。
「今日は、いっぱい獲れたんだから」
私は息子の手を見た。
私が獲らなくても、食べ物はあった。
それがありがたくて、少しだけ悔しかった。
「……ああ。帰ろう」
ユキヒコが、嬉しそうに鳥を持ち上げた。
「お父さんにも、食べてほしいんだ」
私は弓を背負い直した。
誰が獲ったかを、いつまでも気にしていたのは私だけだった。




