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第十二話 猿に噛まれた彦


一 森の、四人


 タカシが青銅の刃による切開排膿から起き上がれるようになったのは、三日後のことだった。


 カヤ姫と、ドグリと、マグリ──三人の山の民は、あの夜以来、毎日、焚き火の傍にやって来た。朝、薬を煎じる。昼、獲物の分け前を持ってくる。夕方、湧水を新しい瓢箪に替えに来る。


 そして数日経った、ある朝。


 タカシは、自分の腕を、包帯の下で動かしてみた。


 腫れはほぼ引き、傷口は、既に黒い瘡蓋かさぶたを作り始めていた。


 熱も、完全に、下がっていた。


 ──生きている。


 タカシは、自分の指を、ゆっくりと、握って、開いた。


 五本の指が、全部、自分の意思で、動いた。


 当たり前のようで、数日前までは、決して当たり前ではなかったことだった。



「タカシ、ヨカッタナ!」


 マグリが、焚き火の向こうから、にっ、と白い歯を見せて、笑った。


 マグリの年は、恐らく二十歳前後だろう。頬の刺青の模様はまだ新しく、線が若々しかった。"成人の印"を刻まれて、そう遠くない時期の男の顔だった。


「アルカレルッチャ?」


 ──歩けるか?


 タカシは、ゆっくりと、立ち上がった。


 膝が、わずかに、震えた。だが、倒れはしなかった。


「……ああ。歩ける」


 タカシは、呟いた。



 ドグリが、立ち上がったタカシの肩を、ぽんぽん、と叩いた。


 ドグリもまた、二十歳をわずかに超えたくらいの青年だった。マグリより少しだけ顎の線がしっかりしているのと、目元に生まれつきの鋭さがあるのとで、年上に見えるが──頬の刺青のまだ瑞々(みずみず)しい様子を見れば、成人儀礼からまだ数年しか経っていないことが分かる。


 ユキヒコは、カヤ姫に薬草の名を教わりながら、焚き火の脇で、笑い声を上げていた。



「タカシ、キョウハ、カリバ、イコウカ」


 ドグリが、そう、言った。


 ──今日は、狩りに、行こうか。


 タカシは、頷いた。


 森の中に、四人の男──タカシ、ユキヒコ、ドグリ、マグリ──が、歩き始めた。


 カヤ姫だけは、焚き火の傍に残った。姫は、男たちの狩りには、同行しない決まりのようだった。


【古代日本の性別役割分業──縄文・弥生時代の性別役割は、現代の感覚とは大きく異なっていた。狩猟は成人男性の役割、採集(木の実・山菜・貝類)は女性と子供の役割、祭祀は女性が担い、戦闘は男性──という緩やかな分業があった。だが、これは"男性優位"を意味しなかった。むしろ祭祀権を握る巫女みこは集落の最高権威者であり、狩猟に出る男たちは彼女の神託によって動いた。九州の伊都国いとこくにおける"女王"の記述や、邪馬台国の卑弥呼の統治形態は、この古代日本の"女性祭司優位"の社会構造の典型例である。──カヤ姫が焚き火の傍に残り、男たちが狩りに出る構図は、決して姫が"留守番"をしているのではなく、姫こそが"場を守る中心"であり、男たちはその周縁で狩りに出ているのだった】



 森の中の、木漏れ日の下で。


 ユキヒコが、ぴたりと、足を止めた。


 マグリが、少年の肩に手を置き、低い枝の上を、顎で、指した。


 ──鳥がいた。


 中型のヤマドリ。警戒して、じっ、とこちらを見下ろしていた。



 ユキヒコは、マグリから借りた、小振りの弓を、構えた。


 ユキヒコの体格に合わせた、短い竹弓だった。マグリが少年のために、前日に、手ずから削ってくれたものだった。


 ユキヒコは、呼吸を、整えた。


 視線を、的の一点ではなく、周囲の葉の揺れと、風の向きと、自分の呼吸と、全てを同時に、霧のように広げた。


 ──マグリが、昨日、教えてくれた呼吸法だった。


【古代弓術における"当てあてかん"──現代の弓道が的の中心を凝視する"一点集中"の射法であるのに対し、古代の狩猟弓術は獲物と周囲の環境を総合的に把握する"俯瞰ふかん射法"を基本とした。獲物の動きを予測し、風を読み、地形を味方にする。これを体得するには子供のうちから数千時間の反復が必要で、東北のマタギ文化では『弓は腕ではなく、はらで引く』と伝わる。──マグリが少年に手渡したのは、単なる弓ではなく、数千年来の山の民の狩猟技術そのものだった】


 ユキヒコは、弦を、ゆっくりと、引き絞った。


 そして──。


 ピュッ。


 矢が、放たれた。



 矢は、真っ直ぐに、飛んだ。


 ヤマドリの胸に、深々と、刺さった。


 鳥は、枝から、地面に、静かに、落ちた。


 ユキヒコは、駆け寄って、獲物を、拾い上げた。


「──やった!」


 少年の声が、森に、響いた。


 頬が、朝日の中で、紅潮していた。



「ユキヒコハ、ヨカ、ウデバ、シチョルナア」


 マグリが、感嘆したように、少年の頭を、ぐしゃぐしゃ、と撫でた。


 ──ユキヒコは、いい腕を、持ってるなあ。


 ユキヒコは、照れくさそうに、振り返った。


「ありがとう、マグリの弓のおかげだよ」



 その光景を、少し離れた場所から、タカシは、じっ、と見ていた。


 ──息子が、古代の狩人に、褒められている。


 ──俺の息子が。


 タカシの胸の中に、不思議な感情が、渦巻いた。


 嬉しい。


 誇らしい。


 ──そして、少しだけ、悔しい。



(わ、私も、負けずに──)


 タカシは、遠くの、薮の向こうに、目を凝らした。


 ──いた。


 二頭の鹿。


 母鹿と、まだ角の柔らかい子鹿。


 清流の傍で、水を、飲んでいる。


 距離、およそ二十五メートル。


二 猿に噛まれた彦


 タカシは、慎重に、身を屈めた。


 弓を、矢筒から取り出した、新しい矢を番えた。


 ──今度は、外さない。


 数日前、この近くの沢で、同じような距離の鹿を逃した。あの時は、呼吸の読みが甘かった。矢を番える動作の布ずれの音を、獲物に気づかれた。


 今度は──。


 タカシは、マグリに教わった呼吸法を、思い出した。


 肩の力を、抜く。


 視線を、広げる。


 はらで、引く。



 ギギッ──。


 弓の弦が、ゆっくりと、絞られた。


 弦のきしみが、小さく、森の静寂に、響いた。


 ──その、瞬間。


 母鹿の耳が、ぴくり、と動いた。


 首が、こちらを、向いた。


 子鹿が、母鹿の胸元に、身を寄せた。


 ──!


 タカシが、矢を放つよりも、早く。


 二頭の鹿は、音もなく、走り始めていた。


 薮が、揺れた。


 白い尾の先が、一瞬、視界を、横切った。


 そして──。


 鹿は、消えた。



 タカシの弓は、引いたまま、宙を指して、止まっていた。


 矢は、放たれなかった。


 的が、消えた後では、放つ意味がなかった。


 タカシは、ゆっくりと、弦を、緩めた。


 矢を、矢筒に、戻した。


 そして、ため息を、吐いた。



 背後から、マグリの、底抜けに明るい声が、飛んできた。


「タカシハ、ココロノ、オトガ、ウルサカケン」


 ──タカシは、心の音が、うるさいから。


「ダカイ、サルニ、カマレタッチャガ!」


 ──だから、猿に、噛まれたっちゃが!



 ドグリが、腹を抱えて、笑った。


「ハハッ! タカシハ、サルニ、カマレタ、ヒコ、ッテ、イワレルッチャガ!」


 ──ハハッ! タカシは、"猿に噛まれた彦"って、呼ばれるぞ!


【"ひこ"という呼称──古代日本において『ひこ(彦)』は成人男性一般を指す称号であり、特に『ヒ=日(霊)を宿した男』の意とされる。対応する女性称号は『ヒメ(姫/日女)』。古事記・日本書紀には「○○彦」「○○姫」という名の神・人物が無数に登場する。興味深いのは、地域や氏族の"あだ名"としての"彦"の用法だ。例えば、高千穂神社の祭神に「三毛入野命みけいりののみこと」の別名として『高千穂の神彦たかちほのかみひこ』が伝わる。また、伊勢の猿田彦神さるたひこのかみ──天孫降臨の際にニニギ一行を道案内した神──の名は、『猿田』という地名または氏族名に『彦』を付けたものとされる。もし山の民の青年たちが、タカシのことを半ば冗談で『猿に噛まれたさるにかまれたひこ』と呼び始めたとしたら──それは、後世に『猿田彦』という神名が生まれる、ほんの小さな、一つのたねになり得たかもしれない。だが、それを知るのは、二千年後の、歴史家たちだけである】



 タカシは、苦笑いを、浮かべた。


 "猿に噛まれた彦"──。


 なかなか、ひどい呼び名だった。


 だが──。


 頭のどこかで、考古学徒としての、小さな、直感が、ささやいた。


("猿"に、"田"──? ──いや、まさか、な)



「お父さん、鳥、結構獲れたから、もう帰ろうよ」


 ユキヒコが、振り返って、言った。


 少年の手には、自分で仕留めたヤマドリの他に、マグリが獲ったウサギが一羽。


 ドグリの背中には、野鳥が三羽、ぶら下がっていた。


 タカシの手には──何もなかった。



 (トホホ……坊主は、私だけじゃ、ないか……)


 タカシは、情けない気持ちで、肩を落とした。


 そして、四人は、野営地への帰り道を、歩き始めた。


 ユキヒコとマグリが、前を、楽しそうに、話しながら歩く。


 ドグリが、タカシの肩を、ぽん、と叩いて、並んだ。


 ──笑われた。


 だが、嫌な笑いでは、なかった。


 それは、どこかで、仲間の失敗を、温かく、迎え入れる、そういう種類の、笑いだった。


三 火を、生む


 野営地に戻ると、カヤ姫は、湧水で、鳥の羽根を、丁寧に抜いていた。


 マグリが、獲物を、姫の傍に、並べた。


 ドグリは、車の脇の、平らな場所に、石を並べて、焚き火の場所を、作り始めた。


 ユキヒコが、興味津々で、ドグリの作業を、覗き込んだ。


「何してるの?」


「ヒバ、オコスッタイ」


 ──火を、起こすっちゃ。



 ドグリは、腰の荷物から、細長い、真っ直ぐな、棒を取り出した。


 それから、平たい、一枚の、板。


 板には、真ん中に、小さなくぼみと、そこから縁まで切れ込みが入っていた。


 そして、棒の先端を、板の窪みに、差し込んだ。



 ドグリは、両手の掌で、棒を、挟んだ。


 そして──。


 ギリギリギリギリ──。


 両掌を、前後に、こするように、動かし始めた。


 棒が、窪みの中で、高速に、回転した。


 ドグリの両手が、上から下へ、下から上へ、激しく動いた。


 やがて──。


 窪みの中から、微かに、煙が、立ち昇り始めた。


【摩擦発火法──人類最古の発火技術。木と木を摩擦させることで発生する熱を使って火種を得る。日本列島では、縄文時代から既にこの技術が使われていた。石川県・真脇まわき遺跡や青森県・三内丸山遺跡の発掘では、発火板と思われる木製具や炭化した火種材が検出されている。発火板に使われる木材はヒノキ・スギ・ヤマハンノキなど、柔らかく乾燥した木が好まれた。棒材にはもう少し硬い木──サクラ・カシ・ケヤキなど──が使われた。現代でも山岳サバイバル訓練や神事(伊勢神宮の忌火屋殿での神饌用の火起こし)で継承されている。──弥生時代には既に火打石も使われていたが、山の民の間では、この"舞錐まいきり式"の原始的な発火法が、むしろ"神聖な火"を生む技として、長く守られ続けた】



 煙が、少しずつ、濃くなった。


 ドグリの額に、汗が、滲んだ。


 両手の動きは、さらに速くなった。


 ユキヒコは、瞬きも忘れて、見入った。



 マグリが、ドグリの手元に、そっ、と、小さな、乾いた木屑の束を、近づけた。


 窪みの縁の切れ込みから、熱を持った木屑が、ぽろり、と木屑の束に、落ちた。


 ドグリは、掌で棒を挟むのをやめて、顔を、木屑の束に、近づけた。


 そして──。


 ふーっ。


 息を、吹きかけた。



 ぽっ。


 木屑の束の中で、小さな、橙色の、炎が、生まれた。


 ドグリは、もう一度、ふーっ、と息を吹きかけた。


 炎が、大きくなった。


 火種は、マグリが用意した枯れ葉の巣の上に、そっ、と移された。


 さらに、細い枝。


 もう少し太い枝。


 ──やがて、焚き火の石組みの中で、本格的な炎が、ぱちぱち、とぜ始めた。



「わあっ!」


 ユキヒコが、目を輝かせた。


「すごいね、道具を使わなくても、こんなに簡単に火が起こせるんだ!」


 タカシも、傍らで、感嘆の息を吐いた。


「ああ……鮮やかなものだな」


 現代人にとって、火を起こす、という行為は、ライター一つで完結する、数秒の動作だ。


 だが、道具のない世界で、ゼロから火を生む、ということ──それは、ほとんど、神の領域の技術だった。


 タカシは、ドグリの手元を、尊敬の念を込めて、見つめた。


四 年寄りと呼ばれて


 時間が経ち、焚き火の周りで、鳥の肉とウサギの肉が、串焼きにされていた。


 香ばしい匂いが、ヒムカの森の夕方の空気に、広がった。


 五人──タカシ、ユキヒコ、カヤ姫、ドグリ、マグリ──は、焚き火を囲んで、獲物を、食べた。



 タカシは、鳥の腿肉を、ほぐしながら、申し訳なさそうに、言った。


「なんだか、ご馳走になってばかりで、悪いな」



 ドグリが、大きな骨をかじりながら、笑って、答えた。


「タカシハ、トシヨリ、サカイ、シカタナカヨ」


 ──タカシは、年寄り、だから、仕方ないよ。


「トシヨリハ、ワカイモンガ、クワセルノガ」


「ヒムカノ、オキテ、ヤッチャ」


 ──年寄りは、若い者が、食わせるのが、ヒムカの掟、じゃ。



 タカシの手が、止まった。


「……年寄り?」


 隣のユキヒコが、きょとん、とした顔で、父を、見上げた。


「お父さんは、年寄り、じゃ、ないよね?」



 タカシは、苦笑いを、浮かべた。


 そして、しばらく考えてから、答えた。


「……まあ、当時は、平均寿命が、三十代中盤、だったらしいから……俺も、十分、年寄り、か」


【弥生時代の平均寿命──古代日本人の平均寿命は、出土人骨の年齢推定から、およそ三十〜三十五歳前後と推定される。これは乳幼児死亡率の高さが平均を大きく引き下げているためで、成人まで生き延びた個体の平均寿命はもう少し長い(五十歳前後に達した例も記録される)。しかし、三十歳を超えた者は"長老"として扱われ、四十歳で"おきな"と呼ばれた。──タカシは三十八歳。二一世紀の感覚では"中年の入り口"だが、三世紀のヒムカでは、明確に"長老"の年代だった。ドグリとマグリ(共に二十歳前後)にとって、タカシは既に親世代に近い年齢であり、彼らが食事の世話をするのは、古代の社会規範に完全に則った行為だった】



 タカシN──。


 (──不思議なことに、目が覚めた日から、彼らの言葉が、分かるようになっていた)


 (方言は強いが、現代日本語と、何ら変わらない)


 (そして、数日の対話の中で、徐々に、この世界のことが、分かるようになってきた)



 タカシは、焚き火の炎を見ながら、この数日で蓄積した情報を、頭の中で、整理していた。


 ──この三人は、自分たちのことを、"ヒムカの民"と呼んでいる。


【"ヒムカ"という地名──『日向(ひゅうが/ひむか)』は、『日に向かう』の意であり、宮崎県一帯の古い地名である。『古事記』では、邇邇芸命の降臨地として『筑紫の日向の高千穂のくじふる嶽』と記される。注目すべきは、古代において"日向"は現在の宮崎県だけでなく、鹿児島県北部・熊本県南東部をも含むより広い範囲を指していた可能性があることだ。七世紀末の律令制下で"日向国"が公式に成立する以前、"ヒムカ"は地域名であると同時に、この地域に住む人々の自称でもあった。──ドグリとマグリが『ヒムカの民』を自称したのは、この古代自称の、最古層の記録に、限りなく近い可能性があった】



 そして、タカシは、さらに、気づいていた。


「ヒムカには、山の民と、川の民、そして海の民が、いる、と」


「そうだっちゃ」


 ドグリが、頷いた。


「ワシラハ、ヤマノ、タミ、ジャ」


 ──俺たちは、山の民、じゃ。



 タカシN──。


 (山の民である彼らは、基本的には、狩猟採集生活を、営んでいるらしい)


 (取れた獲物を、川の民と呼ばれる平野部の人々や、海の民と呼ばれる漁民と、物々交換しているらしい)



 ユキヒコが、木の椀に入った、湯気の立つ雑炊を、頬張ほおばった。


 雑炊の中には──米が、混じっていた。


 芋粥いもがゆの中に、ぽつり、ぽつり、と白い粒が、見えた。


「おいしい! お米、久しぶりだよ!」


 ユキヒコが、歓声を上げた。


 マグリが、にっ、と笑って、少年の頭を、撫でた。


「ワッゼ、クウチ、オオキク、ナレナ!」


 ──いっぱい食って、大きくなれよ!



 タカシN──。


 (彼らが、獲物と交換して得ているものの中には──米が、あった)


【稲作の伝播と山の民──弥生時代の水稲農耕は、紀元前十世紀頃に朝鮮半島経由で北九州に伝わった後、列島全体に広がった。だが、山間部の狩猟採集民は、自ら稲作を行うことはなかった。地形が稲作に向かず、また、彼らの文化的アイデンティティが農耕ではなく狩猟にあったからだ。しかし、交易を通じて米を入手することは、早い段階から行われていた。九州の山間遺跡からも、平野部産と推定される弥生土器や米の炭化粒が少量出土している。──ミタイ族のような山の民が、交易によって米を入手し、雑炊や祭事用の供物に用いる習慣は、考古学的にも十分に裏付けられる】



 タカシは、雑炊の椀を、両手で、持ち上げた。


 温かい湯気が、頬に、当たった。


 口に運ぶと──白米の、あの、懐かしい、甘みが、舌に、広がった。


(……という事は、平野部では、既に稲作が、行われている事は、間違いないだろう)


 タカシの、考古学徒の頭が、勢いよく、回転し始めた。


(稲作が、ある。米が、交易されている。ということは──流通網が、ある。ということは──人口が、集積する、大きな集落が、既に、存在する)


(そして、大きな集落には──王がいる)


(つまり──大きな、国が……)



 タカシは、雑炊の椀を、握りしめたまま、考え込んだ。


 頭の中で、魏志倭人伝の、あの、書き出しの一節が、蘇った。


 ──『倭人は、帯方の東南、大海の中に在り。山島に依りて国邑をなす』


 ──『女王国より以北には特に一大率を置き、諸国を検察せしむ』


 ──『……女王国より以北は、其の戸数・道里を略載するを得べきも、その余の旁国は遠絶にしてつまびらかにするを得ず』


 邪馬台国の、時代。


 卑弥呼の、時代。


 そして、この雑炊の米は、恐らく、その大きな国のどこかから、この山の民の集落まで、運ばれてきたものだ。


 ──では、その"大きな国"とは、どこなのか。


 そして、邪馬台国と、このヒムカの山の民は、どう繋がっているのか。


 タカシの胸の中に、久しく忘れていた、学徒の好奇心が、ふつふつと、湧き上がっていた。



 焚き火の炎が、ぱちり、と爆ぜた。


 タカシは、我に返った。


 ユキヒコが、雑炊の椀から顔を上げて、父を、見ていた。


「お父さん、食べないの?」


「……食べるよ」


 タカシは、苦笑して、雑炊を、口に運んだ。


 米粒が、舌の上で、ほろり、と溶けた。


 ──二千年前の米の味は、現代のそれと、そう変わらなかった。


五 村の祭りへの招待


 食事の後、ユキヒコは、マグリとドグリに、弓の持ち方の微調整を、習っていた。


 カヤ姫は、焚き火の傍で、明日持ち帰る薬草を、束ねていた。


 タカシは、少し離れた場所から、その光景を、眺めていた。



 タカシN──。


 (ユキヒコは、どんどん、古代人と、心を、通じ合わせている)


 (子供の、順応性の高さに、驚かされる)



 やがて、日が、傾き始めた。


 ドグリとマグリが、立ち上がった。


 今日は、そろそろ、村に戻る時間のようだった。


「タカシ、ユキヒコ」


 ドグリが、真面目な顔で、言った。


「チカク、ムラノ、マツリガ、アルッチャ」


 ──近いうちに、村の、祭りが、あるんだ。


「ヨカッタラ、キテクレンカ」


 ──よかったら、来てくれないか。



「お父さん!」


 ユキヒコが、興奮して、父を振り返った。


「ドグリたちが、村の祭りに、招待してくれるって!」


 タカシは、微笑んで、頷いた。


「ああ。──私の体も、もう治った。ぜひ、伺おう」


「やったー! 楽しみ!」


 ユキヒコは、無邪気に、跳ねた。



 (……とは、言っても)


 タカシは、ユキヒコの喜ぶ姿を見ながら、内心、不安を、抱えていた。


 (こんな私が、現地の人間に、受け入れられるだろうか……?)


 数人の青年と、一人の少女には、既に、顔を覚えてもらった。


 しかし、村全体となれば、話は別だ。


 集落の長がいる。村の長老たちがいる。若い男たちがいる。女たちがいる。子供たちがいる。


 ──そして、彼らの中には、外の世界に対して、強い警戒心を持つ者も、必ず、いる。


 それは、古代であろうと、現代であろうと、どんな共同体にも、存在する、避けがたい原理だ。


 タカシは、胸の中で、ゆっくりと、息を吐いた。


六 眠れない父


 夜が更け、ドグリとマグリとカヤ姫は、山道を、村に帰って行った。


 タカシとユキヒコは、また、二人きりで、車の中に、戻った。


 ユキヒコは、疲れていたのだろう。後部座席で、すぐ、寝息を立て始めた。


 タカシは──眠れなかった。



 タカシN──。


 (なんとか、九死に一生を得たが……)


 (俺は、この時代じゃ、役立たずだ)



 焚き火は消えていた。


 車の窓の外では、夜風が、草原を、吹き抜けていた。


 星々が、頭上で、静かに、瞬いていた。



 タカシは、自分の、右腕の包帯を、そっと、撫でた。


 数日前まで、この腕は、自分を、殺しかけた。


 それを、山の民が、助けてくれた。


 薬草を、煎じてくれた。


 膿を、顔に浴びてまで、切開してくれた。


 一晩中、看病してくれた。


 そして、今日は、自分を、狩りに連れて行って、笑って、"猿に噛まれた彦"と呼んでくれた。


 ──完全に、助けられてばかりだ。


 タカシは、助手席で、体を起こした。


 (俺は、この時代で、一体、何の役に立てるというのか……?)


 (いや、そもそも──俺は、この時代で、生きていくだけの、価値のある男、なのか?)



 タカシは、車のドアを、静かに、開けた。


 夜風が、顔に、当たった。


 星々が、頭上で、冷たく、輝いていた。


 ──立小便でも、するか。


 タカシは、草むらの方へ、歩いていった。



 草むらの端で、ごそごそと、用を足し始めた。


 タカシは、空を、見上げた。


「……ためらいなく、立ち小便ができるのは、古代の良いところだな」


 独り言だった。


 二一世紀の東京では、路上で用を足すのは、軽犯罪だ。だが、この、二四〇年のヒムカでは、そんな法律はない。草原が、全人類の、共有のトイレだった。


 タカシは、自嘲するように、苦笑いを、浮かべた。



 その、瞬間──。


 背後から、声が、聞こえた。


「猿に噛まれるなんて、情けないことだな!」


 ユキヒコの、声だった。



「うわああああああああっ!」


 タカシは、飛び上がった。


 用を足している最中だった。


 ずぼん、が、危うく、濡れかけた。


 タカシは、慌てて、始末をしながら、振り返った。


「な、なんだよ、ユキヒコ!」


 タカシは、恥ずかしさと動揺で、思わず、怒鳴った。


「手にかかったじゃないか!」



 月明かりの中で、ユキヒコが、ぽつんと、立っていた。


 少年の目は、タカシの方を、まっすぐに、見ていた。


 だが、何か、様子が、おかしかった。



 タカシは、眉を、寄せた。


「お前までドグリマグリと一緒に、お父さんを、笑い物にする気か?」


 タカシは、八つ当たり気味に、言った。


 昼間、"猿に噛まれた彦"と呼ばれて、笑われたのが、まだ、心の底に、くすぶっていた。


 それを、息子にまで、からかわれるのは、──父親としての、小さな、プライドに、さわった。



 ユキヒコは──。


 何も、答えなかった。


 急に、口を、つぐんだ。


 月明かりに照らされた少年の顔が、急速に、変わっていった。


 先ほどまでの、十歳の少年の、いたずらっ子の表情は、消えた。


 代わりに──何か、別のものが、そこに、現れた。



「ユ、ユキヒコ……?」


 タカシは、違和感に、気づいた。


 ユキヒコの小さな肩が、ブルブルと、震えていた。


 怒っているのか?


 いや、違う。


 恐怖でもない。


 何か、もっと、別のものだった。



 少年の口が、ゆっくりと、開いた。


 そして、低い、しかし、凛とした、声が、響いた。


「笑って話で、済むわけ──」


 タカシは、息を、呑んだ。


 ──その声は、ユキヒコの、声では、なかった。


 いや、声帯はユキヒコのものだ。だが、発声の、抑揚の、重心の、すべてが、十歳の少年のものでは、なかった。


 もっと、古く、もっと、深く、もっと、遠いものが、少年の口を借りて、話していた。



「──なかろうもん!」


 次の瞬間。


 ユキヒコの全身から、白い光が、噴き出した。


 光は、少年の足元から、枝分かれするように、全身に、広がっていった。


 鹿の角を思わせる、紋様の形をした、白い光。


 ユキヒコの両足が、地面から、ふわり、と浮き上がった。



 タカシは、愕然として、その光景を、見た。


 ──!


「し、鹿光──!」


 タカシの、絶叫が、夜の草原に、響いた。


 月光と、鹿光の放つ白い光が、少年の姿を、くっきりと、浮かび上がらせていた。


 鹿光は、ユキヒコの口を借りて、タカシを、まっすぐに、見下ろしていた。


 何かを、言おうと、している。


 立ち小便の格好のまま固まっていたタカシの背筋を、ぞくり、と、冷たい、風が、流れた。


(第十二話 了)


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