第12話 火を分ける人たち
車のそばへ戻ると、マグリが地面に膝をついた。
木片を置き、手にした棒を回し始める。
私は荷物の中から、いつもの着火具を探していた。
「火なら、これが――」
言いかけて、止めた。
木の粉が、暗く色を変えていた。その上から、細い煙が上がる。
ドグリが寄り、用意していた木の皮へ小さな火種を移した。二人は短い言葉を交わし、息を送った。
煙が濃くなる。
やがて、細い炎が立った。
「わあっ」
ユキヒコが顔を近づけた。
ドグリが笑って、少し下がらせる。炎を枝の間へ置くと、乾いた葉に火が移った。
私は着火具を持ったまま、その一連の動きを見ていた。
「……鮮やかなもんだな」
「火ぐらい、自分で起こせんでどうすっと」
ドグリは当然のように言った。
説明図で見たことはあった。博物館の体験でも、似たことをやった気がする。
だが、私の頭にある手順と、目の前の二人の手は、同じものではなかった。
どこを見て、いつ相手に渡し、どれほど息をかけるのか。考え込んでいる様子が、一つもない。
ユキヒコは、火より先に二人の手を見ていた。
「マグリが作って、ドグリが大きくするんだね」
「どっちでも、できるっちゃ」
「僕にもできる?」
「やってみればよか」
息子が木片の前へ座る。
真似をして棒を回すが、すぐに横へずれた。
「あれ」
マグリが木片を押さえ、持つ手を直した。
今度は続いた。だが煙は出ない。
ユキヒコが息を切らし、棒を止めた。
「……全然だ」
「鳥は獲れたんじゃ。火まで今日、覚えんでもよか」
マグリはそう言って、薪を運ぶように顎で示した。
ユキヒコが立つ。
できなかったことを恥ずかしがるより、次に何をするかが先らしかった。
私は着火具を荷物へ戻した。
今日は、二人が起こした火を使わせてもらうことにした。
*
食事の用意が始まると、私はまた、手の置き場に困った。
肉を扱うのも、火加減を見るのも、二人の方が早かった。ユキヒコは細かい用を頼まれて、嬉しそうに動いている。
私は鍋を運び、水を入れた。
それくらいなら、私にもできた。
マグリが袋を開けた。
中から白っぽい粒が見えた。
「……米か」
思わず声が出た。
ユキヒコも寄ってくる。
「お米!」
「そんなに珍しかか」
「こっちへ来てから、初めてなんだよ」
息子の声が弾んだ。
私は袋の中を覗いた。
車にはないものだった。持ってくる道具も食品も、私の知っている店では買えない。その代わり、彼らは別の場所から、私の知っている食べ物を持ってくる。
「君たちが作ってるのか?」
「川の人と、取り替えるっちゃ」
マグリが獲物を指した。
「山のものを持っていけば、向こうは米を出す。海の人は、海のものを持ってくる」
私は鍋を火へかけながら、もう一度聞いた。
「山の人と、川の人と、海の人がいるんだな」
「ああ。このヒムカにはな」
ヒムカ。
先日から、何度も聞いていた言葉だった。
日向という字が、頭の中に浮かぶ。私が知っている宮崎の古い呼び名と、目の前の人間が口にする音がつながりかける。
私は顔を上げた。
「その川の人は、どこに住んでる? 海へは、どのくらいかかるんだ」
「飯ができてからにしなっせ」
ドグリが鍋を指した。
私は慌てて中を見る。考え事をしているあいだに、水面が動き始めていた。
ユキヒコが笑う。
「お父さん、また始まった」
「何がだ」
「歴史の話」
今度は、息子だけが質問する側ではなかった。
私も、この人たちに教えてもらわなければ、何一つ分からない。
私は火のそばへ座り直した。
「……じゃあ、飯のあとで頼む」
*
雑炊は熱かった。
吹いて冷まし、一口食べる。米を噛む感触があった。
ユキヒコが自分の器を見下ろし、嬉しそうに息を吐いた。
「おいしい。お米、久しぶりだよ」
「ようけ食うて、大きくなれな」
マグリが、さらに肉を勧めた。
息子が今日獲った鳥も、皆の食事になっていた。ユキヒコは私が口へ運ぶのを、少し緊張した顔で見ていた。
「うまいぞ」
私が言うと、やっと自分でも食べ始めた。
私は器を膝に置き、二人へ向き直った。
「世話になってばかりで、悪いな」
「タカシは年寄りじゃ。仕方なか」
ドグリが、あまりにも簡単に言った。
私は口を開けた。
「……年寄り」
「お父さん、年寄りじゃないよ」
ユキヒコがすぐに言ってくれた。
ありがたい。だが、その言い方が、年寄りを庇っているようにも聞こえた。
「まだ三十六だぞ」
ドグリは私の肩と腕を見た。
「じゃっどん、よう疲れる」
「病み上がりだからだ」
「その前も、よう疲れちょった」
マグリが吹き出した。
反論しようとしたが、山を走って逃げたときのことを思い出した。二人は私たちへ、あっという間に追いついたのだった。
私は雑炊を食べた。
「年寄りは若いもんが食わせる。それがヒムカの掟っちゃ」
ドグリの声は、からかっているだけではなかった。
私が自分の分を獲れないことを、彼はそれほど大きな問題だと思っていないらしい。
では私は、この先もここに座って、飯を分けてもらえばいいのか。
目の前の器は温かかった。
それを断って格好をつけるほど、腹は満ちていなかった。
「……ありがとう」
私は食べた。
生き返ってきた体が、まだ欲しいと言った。
*
帰り支度をした二人を、ユキヒコが森の手前まで見送った。
何か話し、笑い合っている。
私が寝ているあいだに、息子と彼らだけが知っていることが、ずいぶん増えた。
ユキヒコが戻ってきた。
「お父さん。村のお祭りに、呼んでくれるって」
「村へ?」
「うん。迎えに来てくれる」
私は森の奥を見た。
この道の先に、人が暮らしている。
ここへ来てから何週間か、その当たり前のことが、私たちには届かなかった。
「行こう。体も、もう大丈夫だ」
「やった」
ユキヒコが笑った。
私も笑いかけたが、途中で顔が重くなった。
村の人たちも、ドグリやマグリのように受け入れてくれるだろうか。
猿に噛まれた、役に立たない年寄りとしてではなく。
その夜、私はなかなか眠れなかった。
後ろの席で、ユキヒコが寝息を立てている。
明日は人のいる場所へ行く。それを喜ぶより先に、何をして食っていくかを考えていた。
会社の外へ出た自分が、こんなに空っぽだったとは知らなかった。
用を足そうと、車の外へ出た。
空気が冷たい。
草むらで息を吐き、情けないが、こういうときは便利だなと思った。
「猿に噛まれるとは、情けないことよ」
背後から声がした。
「うわっ!」
私は慌てて身なりを整え、振り返った。
ユキヒコが立っていた。
「何だよ。びっくりさせるな」
息子は黙っている。
私は少しむっとした。
「お前まで、ドグリたちと一緒になって、お父さんを笑う気か?」
肩が震えた。
ユキヒコの口が、ゆっくり開いた。
「笑って済むわけ……」
足元の草が、金色に染まった。
「なかろうもん」
私は一歩、退いた。
息子の目から、見覚えのある光が漏れていた。




