第十三話 予言者と、鍵
一 役立たずの男
「し、鹿光……!」
タカシは立ち小便の姿勢のまま、完全に固まっていた。
月明かりに照らされた夜の草原で、十歳の息子の身体から白い光が噴き出していた。鹿の角を思わせる紋様が少年の全身に浮かび上がり、両足は地面からふわりと浮いていた。ユキヒコの口を借りて、しかしユキヒコの声ではない、低く重い声がタカシを見下ろしていた。
「しばらく見ていたが、随分情けないことだな」
鹿光は言った。タカシは慌ててずぼんの前を閉じた。立ち小便の姿のまま神の訓戒を受けるのは、いくらなんでも格好悪すぎた。
「し、しかたないだろう……油断してたんだ……」
タカシはぼそぼそと言い訳をした。
*
「しかも貴様、何度も我が同族の鹿を殺そうと狙ったな?」
タカシの脳裏に、この数日の狩りの光景がぶわっと蘇った。沢の向こう岸の四頭の鹿、矢を番えた瞬間に音もなく散った群れ、今日の母鹿と子鹿──確かに何度も鹿を狙い、そしてすべて外していた。
【鹿を"神の使い"と見なす信仰は古代日本に深く根ざしていた。奈良の春日大社、安芸の宮島、茨城の鹿島神宮──いずれも現代に至るまで鹿は神使として保護される。狩猟民であっても特定の時期・特定の場所での鹿猟は厳しく制限された。東北のマタギ文化には『山の神の贔屓』『山の神の種雄』などの言葉があり、特定個体の鹿は"神の所有物"として決して殺してはならぬとされた。鹿光が怒っているのは、このタカシの無知そのものだった】
タカシは意外にも強気で言い返した。
「生きるために必死なんだ。鹿もクソもあるか!」
「ぬぅ……」
鹿光の声に、一瞬たじろいだ響きが混じった。
*
「それより、分かっただろう。俺がこの世界でできることなんか何も無いよ」
「なんだと?」
鹿光の声に困惑が混じった。タカシの脳裏には、昼間ドグリとマグリと一緒に楽しそうに弓を教わっていた息子の姿が浮かんでいた。
「まだ若いユキヒコはなんとかなるだろうけど……俺みたいなおっさんが一体何の役に立つと言うんだ?」
矢を外しては首を傾げ、鹿に逃げられては肩を落とし、猿に腕を噛まれて高熱に倒れ、山の民から"年寄り"と呼ばれた──この数日の情けなさが、タカシの胸の中で一気に渦を巻いていた。
*
鹿光はしばらく沈黙していた。
それから静かに言った。
「役に立つぞ。むしろお主にしかできぬことばかりじゃ」
「──は?」
タカシは意外な返答に一瞬毒気を抜かれた。
「……なんだよそれ」
夜風が草原を渡り、森の梢がざわりと揺れた。月明かりの中で鹿光のシルエットはユキヒコの小さな身体の上に静かに浮かび、その両目がタカシをまっすぐに見下ろしていた。
「お主は未来を知る"予言者"だ。ならばお前はこの地で神のように振る舞えるだろう」
*
タカシは呆気に取られた。
「……何言ってんだ。この時代の日本のことなど、現代でもまだ分かっていないんだぞ。せいぜい参考になるのは『魏志倭人伝』の断片的な記述くらいだ!」
【魏志倭人伝は正式には『三国志』魏書・東夷伝・倭人条。三世紀の中国の史家・陳寿が編纂した正史の一部で、倭国に関する記述を含む唯一の同時代中国史料である。全文わずか約二〇〇〇字。帯方郡から倭国への行程、倭人の風俗、邪馬台国と卑弥呼の治世、狗奴国との抗争、卑弥呼の死と後継の壹與(台与)などが記される。この文書こそ日本列島三世紀を語る最重要の文字史料であり、裏を返せばこの二〇〇〇字しか一次史料は存在しない】
「もしくは日本書紀や古事記の神話にその時代のことが書かれているとはいうけれど、どこまでが創作なのか、誰にも分からないんだ!」
【『古事記』と『日本書紀』はいずれも八世紀初頭に編纂された日本最古の歴史書である。『古事記』は和銅五年(七一二年)、太安万侶が稗田阿礼の誦する内容を筆録して完成。『日本書紀』は養老四年(七二〇年)、舎人親王らが編纂。両書は天皇家の神話的系譜を中核に据え、神代の物語と歴代天皇の事績を記す。問題は──三世紀の出来事を記録する際、編纂時点で既に四〇〇年以上経過しており、口伝の間に神話的変形を受けていることだ。たとえば天孫降臨神話が実際の農耕文明伝来の記憶を神話化したものか、完全な創作か、別の史実の象徴化か──これらの判別は今なお歴史学の最大の論争点の一つである】
*
鹿光はタカシの長広舌を最後まで黙って聞いていた。そして静かに言った。
「だが今、お主はその"時代"にいるのだ」
──!
タカシの息が止まった。
「ならばそれが創作か事実を元にしたものか、分かるではないか? しかもお主は既にこの地の言葉を解しておる。ならば真実をこの地の民から聞けば良かろう?」
*
タカシは圧倒された。
──そうだ。俺は今、その時代にいる。神話として遠い昔に書き記された、その時代の、その場所に。しかも彼らの言葉は通じる。彼らに聞けばいい。天孫降臨は本当にあったのか、邪馬台国はどこにあるのか、卑弥呼とは誰なのか、アマテラスとは何なのか。二千年来の歴史家たちが誰一人として解き明かせなかったすべての謎を、俺は当事者に直接聞くことができる。
タカシの胸の奥で、何かがゆっくりと火を灯した。
(私が、予言者に──?)
二 鍵と、命
タカシはハッと我に返り、気づいた。
「ちょっと待て。急に言葉が分かるようになったのは、お前が原因か」
「いかにも」
鹿光はあっさり認めた。
【言語理解と神話的媒介──古事記・日本書紀には異界の言葉を理解する能力が神の加護として描かれる場面がいくつかある。倭建命が国々を平定する際、各地の方言を即座に聞き分けられたのも神の加護とされた。古代人にとって言語理解は"血と地の力"ではなく"神の恵み"として与えられる能力であり、神と繋がる者だけが持ち得る超常能力と見なされた。タカシが突然古代日向弁を理解し始めたのは、鹿光の"神力"の最初の、そして最も実用的な発露だった】
鹿光は静かに手を前に差し出した。その手の平の上にふわりと何かが浮かび上がる。タカシのスマートフォンだった。車のコンソールボックスに置いてあったはずの、あれ。
「そしてさらなる神力をお主に授けよう」
鹿光は低く言った。
手の平の上でスマートフォンがゆっくりと回転し、画面がまばゆい白光を放った。その光は鹿光のユキヒコの身体から放たれる白光と呼応するようにちろちろと絡み合った。タカシは息を呑んでその光景を見ていた。
やがて光がゆっくりと収まった。
「これでよし!」
鹿光はスマートフォンをタカシに差し出した。
*
タカシは震える手で受け取った。
「これに我が神力を込めた。未来の知を思い出す"鍵"となるはずだ」
「──鍵?」
【古代日本における呪具は単なる道具ではなく、神の力を宿す依代だった。鏡・剣・勾玉の三種の神器はその代表例である。鏡は太陽の光を反射する神の力、剣は断ち切る力、勾玉は結び留める力──それぞれに特定の霊的機能が対応した。そしてこれらの神器は"扉を開く"機能も持った。天岩戸神話においてアマテラスを岩戸の外へ誘い出したのは、八咫鏡の反射光である。鏡は文字通り、閉ざされた場所への"鍵"だった。鹿光がスマートフォンを"鍵"と呼んだのは比喩ではなかった】
次の瞬間、鹿光の身体からさらに強い光が噴き出した。タカシは眩しさに目を覆った。
「うわっ! 目が──!」
指の隙間から、なんとか見た。
*
逆光の中で鹿光のシルエットだけが浮かび上がり、両目だけが漆黒の眼窩の奥で金色に光っていた。その声は先ほどまでの訓戒の口調から、厳かな宣告の口調に変わっていた。
「これからお前は予言者としてこの地の人々と接するだろう。お主は予言の力で味方を作り──我が命を果たせ」
*
タカシの手が止まった。
「──命? 何のことだ」
鹿光はしばらく答えなかった。逆光のシルエットの中で、印象的な金色の両目だけがタカシをじっと見ていた。
「もう忘れたのか。お前の使命は──」
「──はっ!」
タカシは突然目を覚ました。
三 夢の、続き
朝の光が車の窓から差し込んでいた。
タカシは助手席に倒れ込むように寝ていた。右手にはスマートフォンが握られていた。
隣の後部座席でユキヒコが寝息を立てていた。穏やかな寝顔だった。昨夜のあの、鹿の紋様に包まれた姿の気配は微塵もなかった。
「……夢、か?」
タカシは掠れた声で呟いた。額に夏のような汗が滲んでいた。夢にしてはあまりにリアルだった。鹿光の声の重み、鹿の紋様の白光の残像、スマートフォンの上で光が回転していたあの光景──全部が夢なのか?
*
タカシはふと手の中のスマートフォンに視線を落とした。
そして気づいた。これは車のコンソールボックスに置いてあったはずだ。なぜ自分の手に握られている?
タカシは震える指で電源ボタンを押した。画面が静かに点灯する。そこに表示されていたバッテリー残量の数字が、タカシの息を止めた。
100%。完全充電の状態だった。
*
タカシはしばらく画面を凝視した。
先週から一度も充電などしていない。否、そもそもこの二四〇年のヒムカに充電ケーブルを差し込めるコンセントなど存在しない。なのにバッテリーは完全充電、一ミリも減っていなかった。
「……は?」
タカシの口から間抜けな声が漏れた。
【現代のリチウムイオン電池搭載スマートフォンは一般的な使用で一日から二日程度の連続稼働が限界である。待機状態でも通信機能やGPS、バックグラウンドアプリが断続的に稼働し電力を消費し続ける。完全に何もしない状態でも数週間で電池は底をつくのが物理法則だ。タカシのスマートフォンがタイムスリップから既に二週間以上経ってもバッテリー残量100%を維持しているのは、現代科学の常識を完全に逸脱している。これが夢でない証拠は、この"無尽蔵の電源"という物理法則を超越した事実の中に、確かに存在していた】
タカシはしばらく画面を見つめ、そっとスマートフォンを胸元の内ポケットに仕舞った。窓の外で朝の光がゆっくりと強さを増していく。鳥たちが新しい一日のさえずりを始めていた。
四 疎外感
朝食の支度をしている最中、ユキヒコは車の近くで弓の素振りをしていた。マグリから借りた子供用の小振りな弓を、何度も何度も引き絞っては戻していた。
タカシは焚き火の脇でスマートフォンの画面を何度も触っていた。画面のバッテリー表示を確認する。100%。もう一度確認する。100%。アプリを開く。100%。動画を少し再生してみる──99%。しばらく放置する。100%に戻っている。
「お父さん、ずっとスマホいじってるね」
ユキヒコが弓を肩にかけて振り返った。
「だって驚きじゃないか。もうこっちに来て数週間経つのに電池が減ってないんだぞ」
「でも電波も使えないしGPSも使えないんでしょ?」
「だ、だが昔ダウンロードした電子書籍や日本地図が……」
*
ユキヒコは父の手元を覗き込んだが、すぐ興味が失せたように視線を外した。そしてまた弓を構え直した。
ユキヒコの関心は既にスマートフォンの中にはなかった。今、彼の世界はこの古代の森の中にある。画面の中の二一世紀の情報には、もう戻るべき必然性が感じられないのだ。
森の方から明るい声が聞こえてきた。
「おーい、迎えに来たっちゃが!」
ドグリの声だった。
*
ユキヒコが弓を握ったまま、ぱっと顔を輝かせた。
「あっ、ドグリとマグリだ!」
少年は焚き火の脇を駆け抜け、森の方へ走っていった。
森の縁でドグリとマグリが笑顔で手を振っていた。ユキヒコは二人に駆け寄ってごく自然にドグリの腕にぶら下がった。ドグリがぐるぐると少年の頭を撫で、マグリが肩をぽんと叩く。三人はまるで血の繋がった兄弟のようにじゃれ合っていた。
*
タカシN──。
ユキヒコは夢の事を覚えていなかった。それにスマホにも興味を示さない。
タカシは焚き火の傍で少し離れて、その光景を眺めていた。胸の奥に何か寂しいものが広がっていた。息子が自分とは違う世界に足を踏み入れ始めている──そんな感覚があった。
私だけが現代に取り残されたような寂しさを感じる。
スマートフォンの画面をもう一度見た。100%。鹿光はこれを"未来の知を思い出す鍵"と言った。だが鍵があっても、開けるべき扉がまだ見えなかった。
五 村への道
マグリがタカシの方に歩み寄ってきた。
「タカシ、備えは出来ちょっか? 結構、険しい道のりやけね」
「大丈夫だよ、ね?」
ユキヒコが父の方を振り返った。少年の顔は期待で輝いていた。
「ああ」
タカシは頷いた。焚き火の始末をし、車の戸締まりをする。スマートフォンは胸元の内ポケットに仕舞い込んだ。"未来の知を思い出す鍵"──持っていく意味があるのかないのか、まだ分からなかった。だが夢が夢でなかったとしたら、そしてこれが本当に"鍵"だとしたら、置いていくわけにはいかなかった。
*
四人──タカシ、ユキヒコ、ドグリ、マグリ──は、森へと歩き出した。
カヤ姫は一足先に村に戻って迎える準備をしているとのことだった。
タカシN──。
今日、ついに我々は古代の"村"へと迎えられることになった。
*
森の中を歩きながら、タカシの頭の中はぐるぐると回転していた。
ヒムカの民と呼ばれる彼らは何者なのだろうか。
【九州山間部の狩猟採集集団の考古学的位置付けは未だ多くが謎に包まれている。縄文から弥生への移行期において、平野部の農耕民と山間部の狩猟採集民がどのように共存し、交易し、時に対立していたかは、最新の遺跡発掘とDNA解析によって徐々に明らかになりつつある。『魏志倭人伝』では倭国の構成を『其の国、邑・落をなし』と記し、大小様々な共同体が併存していた様子を伝えるが、個別の共同体の詳細は記されない。ミタイ族のような山の民は、記録されざる"もう一つの倭国"だった可能性がある】
数ある邪馬台国の所在地説には宮崎県説もある。
【邪馬台国・宮崎説の系譜は江戸時代の本居宣長以来続く。畿内説・北九州説を中心に論争が展開される中でも、宮崎県を邪馬台国の所在地とする"宮崎説"は根強く存在する。宮崎県高千穂町周辺は古事記・日本書紀において天孫降臨の舞台とされ、またこの地が邪馬台国の都であったとする説は、高千穂神社・天岩戸神社の伝承、西都原古墳群の存在などから議論されてきた。西都市の男狭穂塚・女狭穂塚はニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの墓所との伝承も残る。宮崎説は学界の主流ではないが、古代神話と地理を直接結びつける独特の魅力を持つ仮説である】
ということは、これから向かう場所が邪馬台国、もしくはその影響下にある地かもしれない。
*
森の中を歩きながら、タカシは振り返った。後ろに二〇二五年のナビゲーションシステムを搭載した自動車が一台、木漏れ日の中に静かに佇んでいた。その先に──。
記憶の中から、突然、鹿光の声が蘇った。
『お主はこの息子を王へと導き、育てるがよい』
*
タカシは足を止めた。ユキヒコは前を歩いていた。ドグリの背中を楽しそうに追いかけ、マグリが少年の肩をぽんと叩いて笑っていた。
タカシは車の方をもう一度振り返った。昨夜立ち小便をしていたあの草原。鹿光がユキヒコに乗り移っていたあの場所。
タカシN──。
その時、ふいに鹿光の言っていた"命"を思い出した。
"我が命を果たせ"。
"お前の使命は──"。
使命。それは自分だけが知らされていない、何か重大なものだった。鹿光はそれを昨夜言いかけて、言わずに消えた。タカシの目を覚まさせた。
胸の内ポケットでスマートフォンが微かに温もりを帯びていた。鍵。命。予言者。王の器。いくつもの言葉がタカシの頭の中でぐるぐると回った。
「お父さん、早く!」
ユキヒコの声が森の奥から聞こえた。タカシは視線を前に戻した。五月の森は朝の光に満ちていて、木漏れ日が緑の葉の一枚一枚を透かしていた。
行かなければ。
タカシは息子の元へ歩き出した。胸の内ポケットのスマートフォンが歩調に合わせて、トン、トン、と胸板を叩いた。
(第十三話 了)




