第13話 予言者
第13話 予言者
「……鹿光」
私が名前を呼ぶと、ユキヒコの顔が笑った。
眠っているときの息子の顔とは、まるで違う。光る紋様が首筋を走り、肩の向こうに角のような影が伸びていた。
「しばらく見ておったが、随分と情けないことになったな」
「見てたのか」
私は一歩、近づいた。
「猿に噛まれて、死にかけてたのも?」
「そうだ」
あっさり言った。
私が歯を食いしばるより先に、鹿光が続けた。
「しかも、何度も我が同族の鹿を狙いおって」
「生きるためだ!」
思っていたより大きな声が出た。
「鹿も何もあるか。こっちは食わなきゃ死ぬんだぞ!」
鹿光の口が少し閉じた。
私は傷のある腕を押さえた。もう、そこに痛みはほとんどない。それでも、体が勝手にその場所を庇った。
「お前に何か頼んでも、どうにもならんのは分かったよ」
「何だと」
「ユキヒコは、あの人たちとうまくやってる。弓も上手くなってきた。だけど私はどうだ。魚を捕まえたぐらいで得意になって、その魚を守ろうとして噛まれた」
言葉が止まらなかった。
ドグリたちには、言えないことだった。助けてもらったあとに、そんな愚痴を聞かせたくはなかった。
「私みたいなおっさんが、この時代で何の役に立つ」
「立つぞ」
返事が、早かった。
「むしろ、そなたにしかできぬことばかりではないか」
私は少し黙った。
「……何だよ。それ」
「未来を知っておる」
鹿光が、当然のことのように言った。
「それだけで、この地の者には神のごとく見えよう」
「未来なんか、そう都合よく分かるもんか」
私は空いている手を振った。
「この時代の日本は、私たちのいた時代でも分からないことだらけなんだ。邪馬台国がどこにあったか、それすら決着してない」
相手は黙っている。
「中国の歴史書に残った記述とか、掘り出された物とか、そういう手掛かりを集めて、どうだったんだろうって考えてるだけだ」
「ならば、確かめればよい」
私は口を閉じた。
「そなたは今、その地に立っておるのだから」
夜の森で、虫が鳴いていた。
神と話しているというのに、音はいつもと変わらなかった。
「……そう簡単には」
「古事を伝える書も、持っておるのだろう」
「『古事記』や『日本書紀』のことか。神話の中に、昔の出来事が残っているかもしれないとは思う。だが、どこまでを本当にあったことと考えるかは――」
「この地の者に聞けばよい」
言いかけた言葉が、行き場をなくした。
私は今日、米の袋を見た。
マグリが川の人々と取り替えるのだと言った。
本には載っていなかった。少なくとも、私の知っている本には、マグリという男がどこから米を手に入れるかなど書いていなかった。
「そなたは、何を知りたかったのだ」
鹿光が言った。
「すべて分かっておることを、もう一度眺めに来たのか?」
私は返事ができなかった。
分からないから、知りたかった。
息子にも、そう話したばかりだった。
「……聞けば、いいのか」
「耳も口もあろう」
「そうじゃない。いや……そうなんだけど」
腹立たしいほど、単純な答えだった。
私はこの数日、ドグリやマグリの話を聞きながら、何度も面白いと思っていた。それなのに、自分が彼らのように狩れないことばかり数えていた。
そこで、ふと気づいた。
「待て。言葉が急に分かるようになったのも、お前か?」
「いかにも」
私は相手を見た。
問いただしたいことが一度に増えた。いつ。どうやって。何を変えた。
鹿光は、私の問いを待たずに手を出した。
「そして、さらなる神力を授けよう」
その手に、私のスマホがあった。
「それ……」
口にしたときには、黒い板が宙へ浮いていた。
光が、掌から端末へ流れ込む。
私は手を伸ばしかけ、止めた。壊されては困ると思ったが、何をしているのかも分からなかった。
「これでよい」
鹿光が、スマホを差し出した。
私は両手で受け取った。重さも形も、変わったようには感じなかった。
「未来の知を思い出す、鍵となる」
「鍵?」
画面を見ようとした。
そのとき、目の前の光が強くなった。
「そなたは予言者として、この地の者と接することになる。知をもって味方を作り、我が命を果たせ」
「命って……」
「忘れたか。そなたの役目は――」
私は目を閉じた。
*
車の中だった。
窓から朝日が入っていた。後部座席ではユキヒコが横になり、口を少し開けて眠っていた。
私はしばらく、何もせずに座っていた。
夢か。
また、夢だったのか。
腕の布へ触れた。それから、コンソールへ手を伸ばした。
スマホがあった。
画面をつける。
バッテリーは、百パーセントだった。
「……は?」
私は数字を見直した。
こっちへ来てから、何週間も経っている。連絡がつかないので使う時間は減ったが、一度も充電した覚えはない。
それでも、百だった。
画面を消す。
つける。
数字は変わらない。
私は端末を裏返した。つながっている線はなかった。
「お父さん?」
後ろでユキヒコが目を開けた。
「何してるの」
「……いや。ちょっと」
私は画面から目を離し、息子の顔を見た。
首にも頬にも、光る紋様はなかった。
「昨日の夜、起きたか?」
「起きてないと思うけど」
ユキヒコは目を擦り、欠伸をした。
本当に知らなさそうだった。
私はそれ以上聞かず、端末を見下ろした。
*
朝の支度をしながらも、私はスマホを手放せなかった。
電波は入らない。地図に現在地が戻るわけでもない。
だが、以前ダウンロードしたものは開けた。
読んだ覚えのある文章が表示された。地図を動かせば、見知った日本列島の形が現れる。
この地図は今の土地をそのまま写したものではない。それでも、記憶だけを頼るよりはずっといい。
「ずっと、それ見てるね」
ユキヒコが弓を手に、こちらを見ていた。
「電池が減ってないんだぞ。すごいと思わないか」
「でも、電話はできないんでしょう?」
「そうだけど、本も地図も見られる」
「ふうん」
息子は自分の弓へ目を戻した。
前だったら、私が話しているときもスマホを見ていた。
今は逆だ。
息子の方が画面の外に、たくさん用を持っている。
私はようやく端末をしまった。
昨日、何を教わったのだったか。
この土地のことは、この土地の人間に聞け。
画面の中だけを覗いていたら、ここへ来た意味がない。
「おーい。迎えに来たっちゃが!」
声がした。
ユキヒコがすぐ立ち上がった。
「ドグリ! マグリ!」
二人へ駆け寄り、弓を見せながら何か話している。
私はその背中を見た。
羨ましいと思った。
だが今日は、私も行く。
「備えはできちょるか。結構、険しい道やぞ」
「ああ。大丈夫だ」
荷物を背負い、車の鍵をかけた。
森へ入る手前で、一度だけ振り返る。
草地に車が残っていた。
私たちが眠り、食べ、命をつないだ場所だった。
息子を王へ導き、育てよ。
鹿光の言葉が、頭の中で続いた。
王にする方法など、分からない。
自分の居場所を作る方法も、まだ分からない。
しかし、知らないことを尋ねるくらいなら、できる。
「タカシ。置いていくぞ」
ドグリが呼んだ。
私は森へ向き直った。
「今、行く」




