第7話 お父さんを離せ
第7話 お父さんを離せ
八匹目の魚が、籠の中で跳ねた。
「よし。だいぶ勘が戻ってきた」
沢から上がってきたお父さんが、濡れた手を振った。
ズボンの膝まで濡れていたけれど、顔は嬉しそうだった。
昨日と同じ場所に、僕たちは戻ってきていた。
最初は三人がまた来るかもしれないと、何度も木の陰を見た。でも今のところ、人の声も、足音もしなかった。
「今日は、ちゃんと食べられるかな」
「食べるさ。今度こそ」
お父さんが籠を持ち上げた。
魚が逃げないように口を確かめ、ほっと息をつく。
「あのさ、僕、不思議なところ見つけたんだけど」
「何だ?」
お父さんが魚を獲っているあいだ、沢のそばの斜面を見ていた。落ち葉の間が一か所だけ濡れていて、細い流れが石を伝っていたのだ。
指を差すと、お父さんが近づいてしゃがんだ。
「……湧き水か」
土と石の隙間から、水が出ていた。
上に川はない。それなのに、出てくる。
僕は顔を近づけ、音を聞いた。
「よく見つけたな。ここでも水が汲める」
「飲んでいい?」
「これも、沸かしてからにしよう。見ただけじゃ分からないからな」
僕は少しだけがっかりしたけれど、昨日の病院の話を覚えていた。
空のペットボトルを差し出す。
透明なものが、空だったところへ溜まっていく。蓋をすると、今度は持って帰れる水になった。
火を起こして湯を用意し、冷ましながら二人で飲んだ。
口の中にあった、クッキーの粉っぽさがなくなった。
そのとき、お父さんの手が止まった。
「……鹿だ」
沢の少し先に、四頭いた。
首を下げ、水を飲んでいる。ときどき耳だけが、別の方を向いた。
お父さんが弓を持つ。
僕はコップを置き、矢を渡した。
「ねえ。鹿光、怒らないかな」
「知るもんか」
お父さんは、鹿から目を離さなかった。
「こんな場所へ置いていったのは、あいつだ」
それは、そうかもしれない。
神様がご飯をくれるわけじゃない。
僕は槍を地面につけないように持って、お父さんの後ろへしゃがんだ。
弓が、ゆっくり曲がる。
お父さんの肩が上がった。
鹿の一頭が、顔を上げた。
耳がこちらを向く。
次の瞬間、四頭とも、跳ねた。
「あっ」
草が大きく揺れた。
もう、いなかった。
お父さんは弓を引いたまま、止まっていた。
それから、ゆっくり弦を戻した。
「……弓を知ってたのか、あいつら」
「行っちゃったね」
昨日の木は、逃げなかった。
鹿は、お父さんが狙うより先に、逃げてしまった。
*
鳥にも、当たらなかった。
一羽目は、矢を放ったときにはもう枝を離れていた。
二羽目は、鳥がいるよりずっと下を飛んでいった。
お父さんは落ちた矢を拾い、しばらく先を見つめていた。
「動かない的とは、全然違うな……」
僕は頷いた。
立っている場所も、昨日の草原とは違う。足元には石があるし、弓を動かそうとすると枝が邪魔だった。
「帰って、魚を食べようよ」
お父さんは、まだ森を見ていた。
きっと、肉を持って帰りたかったのだ。
僕も、少し楽しみにしていた。
でも、足が疲れたし、お腹もすいた。
「……そうするか」
お父さんが弓を下ろした。
ほっとした。
僕は槍を持ち直し、来た方へ歩き出す。
空腹でいると、落ち葉の上を歩くのも大変だった。足を上げたつもりなのに上がっていなくて、何度も枝に引っかかる。
帰り道、お父さんが立ち止まった。
「お。タラの芽だ」
枝の先を見上げ、手を伸ばす。
「これも、食べられるぞ」
「お父さん、いろんなこと知ってるね」
「田舎育ちだからな。こういうのは、まだ多少――」
お父さんの上半身が、後ろへ引かれた。
籠が揺れる。
「ユキヒコ。引っ張るなって」
「僕、こっちだよ」
僕は、お父さんの斜め前にいた。
お父さんが、ゆっくり振り返った。
赤い顔があった。
猿だ。
魚の入った籠にしがみつき、口を開けていた。歯が見えた。僕が知っている、かわいい猿の顔ではなかった。
「うわあっ!」
お父さんが籠を振った。
猿の体が横へ揺れたが、離れない。
「放せ! こいつっ……!」
お父さんが籠を引き戻す。
猿が地面へ跳び下りた。
すぐに、別の声がした。
右の木の上。
左の草むら。
来た道の方にも、一匹いた。
何匹いるのか、分からなかった。
僕が一匹を見ると、見ていない方で枝が動いた。
乾いた音が何度もした。猿が枝を叩いていた。
「ユキヒコ。槍、構えろ」
お父さんの声が低くなった。
僕は両手を離して持ち、穂先を前に向けた。
黒い刃が、少し揺れた。
「ゆっくり、離れるぞ」
「うん」
一歩、下がる。
踵が根に触れた。
転んだら駄目だと思って、膝を曲げる。
猿が近づいた。
槍を向けると止まった。でも、その横から、別の猿が回ってくる。
お父さんが弓を持ち直した。
籠が邪魔そうだった。
魚なんか、置けばよかったのかもしれない。
でも、そのときの僕には、朝から獲った魚を捨てるという考えが、うまく出てこなかった。
帰って焼くはずだった。
今度は、食べられるはずだった。
お父さんが足元を見た。
猿が跳んだ。
茶色のかたまりが、お父さんの腕にぶつかった。
お父さんが叫んだ。
声が、さっきと違った。
「お父さん!」
腕に、猿がぶら下がっていた。
振っても、離れない。
シャツが引きつり、その下から赤いものが出た。
僕は槍を握った。
どうやって突くのか、考える余裕はなかった。
お父さんが倒れそうだった。
顔が歪んでいた。
「お父さんを離せ!」
踏み出した。
黒い穂先が、猿の背中に入った。
柄の向こうから、硬い手ごたえが返ってきた。押した腕が跳ね返されそうになり、僕は両手に力を入れた。
猿の声が変わった。
お父さんの腕から、体が落ちた。
僕は槍を引いた。
息が、一気に喉を通った。
地面の猿が動き、それから動かなくなった。
やった。
離れた。
そう思っただけだった。
まわりでは、まだ猿が騒いでいた。
僕はお父さんの前へ出た。穂先を上げる。刃には血がついていた。
「来るなら……みんな、こうなるぞ」
声が掠れた。
言葉が通じるかなんて、分からなかった。
ただ、近づかせたくなかった。
一匹が、歯を見せた。
僕は、その顔を見た。
槍を持つ手が震えたので、もっと強く握った。
お父さんの息が、背中のすぐ後ろで聞こえた。
枝が動いた。
猿が身を翻した。
一匹が去ると、ほかの猿も、木へ、草へと消えていった。
声が遠くなる。
僕は槍を下ろさずに待った。
また来るかもしれない。
いつまでも来るかもしれない気がした。
「……ユキヒコ」
お父さんが呼んだ。
振り向くと、地面に座り込んでいた。
腕を押さえている。
僕は駆け寄った。
「お父さん。腕、見せて」
「……お前、すごいな」
お父さんが笑おうとした。
「あの猿を……」
「腕」
もう一度言うと、お父さんは頷いた。
指を離す。
破れた袖の下が、濡れていた。
湧き水を入れたペットボトルが籠の脇で光っている。僕はそれを見て、持ってきたコップを見て、何からすればいいのか分からなくなった。
「……水を、くれ」
お父さんが言った。
僕は頷き、荷物に手を伸ばした。
獲物を倒したのだと、少し遅れて思った。
でも、お父さんは痛そうだった。
僕たちは、少しも勝ったようには見えなかった。




