第七話 森は、人を食う
一 湧き出づる水の在処
昨日の渓流に向けて、ふたりは沢沿いに歩いていた。
「お父さん、あの沢って安全なのかな。飲んでも平気?」
ユキヒコがふと真面目な顔で聞いた。
──良い質問だった。
タカシは歩きながら考えを整理した。
「うーん、あの沢でも、煮沸すれば一応大丈夫だろう。でも本当なら"湧水"を見つけたいんだよな」
「湧水?」
「地面から直接湧いてくる水のことだ。長い長い時間をかけて地層の中を濾されているから、雑菌がほとんどいない」
【『湧水』──地下水が地表に自噴する現象。帯水層の地下水が地形的な低部や断層を経路として湧き出す。日本列島は火山列島であり、特に阿蘇・九重・霧島山系の麓一帯は世界的に見ても湧水の密集地帯として知られる。宮崎県・熊本県にまたがる阿蘇外輪山南麓の湧水群は、現代でも『日本名水百選』に複数選ばれている。火山灰の堆積層と溶岩流の下層を通過する過程で地下水はほぼ完全な無菌状態となり、ミネラル分を豊富に溶かし込む。──古代の定住集落の立地はほとんど例外なく湧水の傍らに置かれた。福岡県・板付遺跡、佐賀県・吉野ヶ里遺跡、宮崎県・西都原周辺の弥生集落跡、いずれも湧水地もしくは小河川のすぐ側である。"良い水の在処"こそが古代集落の立地条件の筆頭であった】
「その湧水って、どうやって見つけるの?」
「地形を読むんだ。──崖の根元、岩盤が露出している断層、あとは……植生を見るのがコツだな」
「植生?」
「水を好む植物が密集して生えている場所は、ほぼ間違いなく地下水脈が浅い」
タカシは歩きながら、足元の斜面の植生を視線で拾っていった。──シダ。オニヤブソテツ。ハナイカダの低木。それから、ミズゴケ。
どれも"水気の多い土壌"を好む植物ばかりだった。
タカシの考古学徒としての地形分析の訓練が、三十年前の祖父の実家の川遊びの記憶と、四十年近く生きてきたフィールドの経験と、全部ひとつに束ねられて、この二四〇年の日向の山の一点へと収束していく気がした。
「──ユキヒコ、こっちだ」
タカシは沢から逸れて、斜面の上手へユキヒコを誘導した。
*
十分も登っただろうか。
巨大な岩盤が斜面から突き出した真下に、その一角はあった。
シダの群落に覆われて、一見ただの湿地に見える小さな窪地。
だがタカシがシダを掻き分けると──その下には。
こんこん、と。
水が湧いていた。
直径二十センチほどの自然の石組みの中から、透明を通り越してどこか青みすら帯びた水が、地の底から絶え間なく湧き続けていた。水面にはまるで銀粉を撒いたように小さな砂粒がひらひらと舞い踊り、すぐにそれがまた沈み込んでいく。
「──湧水だ」
タカシは声を漏らした。
「おお、本物の湧水だ!」
「わあ……きれい」
ユキヒコが息を呑んだ。
タカシは両手で水を掬い取った。
──冷たい。
いや、冷たいという言葉では足りない。"透けて冷たい"のだ。手の中の水そのものに輪郭がある。舌の上に乗せると、水は舌の温度を一気に奪って、その奪った熱ごと口の奥へふっと消えていった。
──甘い。
水の味が、甘い。
タカシの喉の奥で小さな感嘆の呻きが漏れた。
「お父さん、どう?」
「……ユキヒコ、飲んでみろ」
ユキヒコが両手を差し入れて、恐る恐る一口飲んだ。そして目をまんまるに見開いた。
「あま、甘い!」
「だろ?」
「水って、こんなに味がするものなの?」
「──古代の水はこういう味だったんだ。本当は」
タカシは空のペットボトルに泉の水を注ぎ入れながら、ひとり静かに頷いた。
現代の私たちがミネラルウォーターと呼ぶものは、このほんの真似事にすぎないのだ。
本物の"命の水"は、地球の奥そのものから来る。
*
ユキヒコがぐいぐいぐいと立て続けに三杯、湧水を飲み干した。
その横顔を見下ろしながら、タカシはふと微笑んだ。
亡き妻のアカリも、こういう顔をする子だった。
美味いものを食べたとき、心が喜んだとき、ほんの数秒だけ目が潤む。十歳の息子の目元の光り方が、一瞬だけ二十三歳の頃のアカリの目元と重なって見えた。
──似てきたな、お前に。
タカシは心の中でだけ、そう呟いた。
*
ペットボトル二本を満タンにして、ふたりは湧水を離れた。
「お父さん、あの湧水にまた戻ってくる?」
「ああ、戻ってくる。何度でも」
「目印をつけておく?」
「頭のいい息子だな」
タカシはキッチンナイフで小枝を三本切り、湧水から斜面をまっすぐに降る途中の幹の同じ高さに、三本とも軽く切り込みを入れていった。──獣が好まないクスノキの枝を意図的に選んだのは、切り傷の樟脳の匂いで小型の獣を遠ざけるためだ。
これも、亡き祖父が宮崎の山で孫のタカシに仕込んでくれた古い古い知恵だった。
二 獲物は人を知っている
水を確保した安心感が、タカシに一瞬の欲を吹き込んだ。
「ユキヒコ、今日のうちにもう一つ、片付けておきたいことがあるんだ」
「なあに?」
「──肉だ」
タカシは肩の弓をぎゅっと握り直した。
「人間は植物と魚だけじゃ、すぐに力が落ちる。特にお前みたいな育ち盛りは、どうしても脂と蛋白が必要だ。──昨日から狙っていた、あの大きな野兎。あれを今日こそ獲らないとな」
【ヒトはエネルギー源としての炭水化物と、体組織の材料としての蛋白質・脂質のいずれもを必要とする雑食性の霊長類である。旧石器時代後期から縄文時代にかけての日本列島人の食性分析(骨コラーゲンの炭素・窒素同位体比測定)によれば、内陸山地の集団は哺乳類肉の摂取比率が特に高く、鹿・猪・兎・狸・狐といった中型哺乳類が栄養学的に主要な蛋白源であった。──五月の端境期においては特に、狩猟の成否が集団の生死を分けた。縄文人にとって"肉を取る"ことは即ち"生存そのもの"であった】
タカシの頭の中では、学生時代の講義の断片がぱらぱらと断片的に蘇っていた。
──しかし知識は、弓の腕を貸してはくれない。
*
シダと広葉樹の混交林の中を、親子はしゃがむように歩を進めた。
昨日の野兎がとまっていた巨木の近くに戻ったときには、もう昼近くになっていた。
タカシは藪の陰に身を低くしてじっと目を凝らした。
──いた。
いや、そっくりの体格、そっくりの白い腹毛の模様。昨日と同じ個体だろう、例の大きな野兎が、今日も別のクスノキの枝の分かれ目に悠然と身を置いている。
距離、およそ十五メートル。
──届くか?
タカシはそっと矢を番えた。指が震えた。弦を引く腕が、すでに情けないほど揺れている。
【日本列島の在来種である『ニホンノウサギ(Lepus brachyurus)』は、体重一・五〜二・五キログラム、体長四十五〜五十五センチに達する。一方、タカシが目撃していた"異様に大きな野兎"は、体長七十センチを優に超える。これは恐らく現代では絶滅したか、あるいは地域個体群として局所的に残存した大型亜種の系統と考えられる。縄文時代・弥生時代の遺跡出土獣骨には、現代のニホンノウサギの計測値を超える例が散見されており、古代日本の中〜大型野兎は現代よりも個体サイズが大きかった可能性が指摘されている。食性が豊かで捕食圧が低かった古代の森林生態系では、草食獣はより大きく育ち、より長く生きた】
「……行くぞ」
タカシはごく小さく息子に囁いた。
ユキヒコはこくりと頷き、槍を両手で構えたまま、そっと数歩下がった。
タカシは呼吸を整えた。
──肩の力を抜く。
──手首を返す。
──視線は、的の一点ではなく、的を含む視界全体に、まるで霧のように柔らかく広げる。
祖父の川遊びの手ほどきには、弓の初歩も少しだけ含まれていた。三十年以上昔のたった数回の手ほどきが、身体のどこかに微かな輪郭だけ残っている。
タカシは、ひゅう、と細く息を吐いた。
──弦を、放った。
ピン──。
矢がまっすぐに飛んだ。
*
だが。
兎は、矢が放たれる"一瞬前"にすでに跳んでいた。
ざざっ、と枝が揺れたかと思ったら、次の瞬間にはその巨大な白い腹は隣の巨木の枝の上に着地していた。こちらに軽蔑の視線すら向けていた。
タカシの矢は、誰もいなくなった枝にこつんと当たって、そのまま虚空を落ちていった。
「……!」
タカシは息を呑んだ。
「あ、あれ──?」
ユキヒコも目を丸くした。
タカシは茫然と弓を下ろした。
──何が起きたんだ、今のは。
矢の弾道には問題がなかった。風もなかった。距離の読みも合っていた。
なのに獲物は、当たるはずだった位置に"もういなかった"のだ。
*
──気づいたのは、そのすぐ後だった。
野兎はタカシが矢を番えるその音を、いや、あるいはもっと早く、弓を肩から下ろすあの布ずれの音を、確実に聞き取っていたのだ。
そして即座に跳躍の準備をしていた。
あとはタカシの呼吸の合間、弦を引き絞る細い軋みの頂点、その最も"解放"に近い一瞬を待って──自分のほうから"矢が来るはずの位置"を外していた。
──こいつは人間を知っている。
タカシの背筋が冷たく粟立った。
──こいつは、狩られることに慣れている。
【現生のニホンノウサギの行動生態学研究によれば、野兎は聴覚と視覚の両方で極めて高い警戒能力を持ち、特に『捕食者の一呼吸』を正確に読み取ることで跳躍のタイミングを決めるとされる。これは数十万年にわたる狩猟圧の中で自然選択により獲得された"反応時間の最適化"である。──三世紀の日向山地の野兎たちは、縄文時代以来ここに暮らす山の民によって延々と狩られ続けてきた。タカシが対峙したのはつまり、一万年以上の世代交代の末に研ぎ澄まされた"逃げる達人"そのものであった】
「お父さん……」
ユキヒコが気遣うように父を見た。
「大丈夫だ。──いや、大丈夫じゃない」
タカシは率直に首を振った。
「俺はあいつを甘く見ていた。──あの兎の方が、俺よりよっぽど頭がいい」
ユキヒコはくすっと笑った。
「お父さんでも負けるんだね」
「ああ、負けるんだよ。人間が森の中で一番賢い生き物だっていうのは、現代の都市生活者の傲慢な錯覚だったんだ」
タカシは矢を拾い上げて矢筒に戻しながら、自分の声が思った以上に苦く響いたのに自分で驚いた。
*
それから二時間、親子は森の中を歩き回った。
鹿の群れを二度見かけた。
一度目は距離が詰められずに終わり、二度目はタカシが矢を番えようとした瞬間にすでに気配を察した雌鹿が子鹿を連れて走り去っていた。
野鳥も何度か狙った。
──ヤマドリ。キジバト。メジロ。
全てが外れた。
ヤマドリの矢は、標的の頭上三十センチを通過してから遠くの枝に当たって虚しく跳ね返った。
「くそう……」
タカシは木の根に腰を下ろして、額の汗を拭った。
「正面の動かない的と、動く獲物がこんなに違うとは……。しかも足場も斜面だ。──俺はただ、矢を射つ練習をしたことがあるだけの男なんだ。狩人じゃない」
【古代狩猟民の弓術は、単なる射撃技術ではなく『移動する獲物に対する予測射法』である。これには獲物の速度、方向、地形、風、自分の呼吸のタイミング、全身筋肉の連動、そして"獲物が次にどう動くか"を読む長年の観察眼が必要とされる。縄文・弥生の狩人は幼少期から数千時間かけてこれを習得した。東北のマタギの伝承に『弓より先に心眼を鍛えよ』という口伝が残るのはそのためである。"弓が当たる"ことは弓の問題ではなく"獲物を読む"ことの問題であった】
「ねえ、お父さん」
ユキヒコがそっと父の隣にしゃがみ込んだ。
「もう、今日は帰ろうよ。昨日のあの岩魚、まだ三匹残ってる。今日はお腹すいたら、あれを食べればいい」
タカシは息子の顔をじっと見た。
──この子は、ちゃんとわかっているな、と思った。
どこで諦めるか、どこで粘るか、それが狩りの──いや、生き残ることの──核心だ。
「……そうだな」
タカシは頷いた。
「今日はここまでだ。──ユキヒコ、お父さんの完敗だよ」
「ううん、明日があるから」
ユキヒコはそう言って、父に向かって小さくにっと笑ってみせた。
その笑顔は、亡き妻が生前、タカシに"もう少し頑張ろうよ"と声をかけてきた時の、あの控えめで、しかし絶対的に前向きな微笑みと、驚くほどよく似ていた。
三 タラの芽と、聞こえない足音
帰路に就きながら、タカシは空手で帰ることを諦めなかった。
──動物は駄目でも、植物ならまだ勝負ができる。
雑食性の霊長類として、人間は植物食の比重も大きい。まして五月のこの時期、柔らかい新芽はまさに旬の宝の山だった。
斜面の下の方に、緑の群生が一角あった。
「──お、あった」
タカシはユキヒコを手招きした。
「タラの芽だ。これは食える。相当うまいぞ」
【タラノキ(Aralia elata)──ウコギ科の落葉低木。四月から五月にかけて枝先に出る新芽を『タラの芽』と呼び、古来より日本人に春の山菜の王とされてきた。独特の青い芳香と微かな苦味は、冬の間に沈んでいた身体の代謝を一気に目覚めさせるとされ、縄文人・弥生人の山菜採取カレンダーの中心に位置していたと考えられる。アイヌ語名は『アユシ(棘のある木)』。枝には鋭い棘が密生するため、採取の際は熟練の技術を要した。栄養学的にはカリウム、カルシウム、鉄、ビタミンB群を豊富に含み、端境期の滋養として極めて優秀な野生食材である】
タカシはタラノキの棘に刺されないよう、キッチンナイフの刃先で新芽の柄の根元を慎重に切り落としていった。籠の中にぽとん、ぽとんと緑色の宝物が溜まっていく。
「お父さんって、本当に何でも知ってるね」
「こう見えて田舎育ちだからな。──祖父からいろいろ仕込まれた」
「お祖父ちゃん?」
「お父さんが小さい頃、宮崎の山に毎年連れて行ってくれた人だ。もう死んだけどな」
「……」
「お前のひいおじいちゃんだ。会ったことはないと思う。──お前が生まれる前年の冬に、癌で逝った」
タカシが屈み込んで籠にタラの芽を積み重ねていると。
──ふいに。
籠が、ぐい、と後ろから引かれた。
タカシは斜面を登るのに気を取られていた。
「ユキヒコ、引っ張るなって。──タラの芽がこぼれるだろ」
返事がなかった。
「ユキヒコ?」
代わりにタカシの前の方、斜め三メートルほど先から、息子の困惑した声が飛んできた。
「え、お父さん? 僕、引っ張ってないよ?」
──。
タカシの背筋が、ぞくり、と粟立った。
ユキヒコは、タカシの"前"にいる。
ということは、今、籠を後ろから引いているのは──。
*
タカシは、ゆっくりと振り返った。
籠の縁に、毛むくじゃらの小さな手が、しっかりとかかっていた。
──人間の手ではない。
指が五本あり、親指が対向している。だが指先は黒く短く、爪は鋭く湾曲している。手首から腕にかけて、茶褐色の毛がびっしりと覆っている。
そして、その毛むくじゃらの腕の持ち主が。
タカシの背中の籠の縁から、ぬうっとその顔を覗かせた。
──赤い顔。
──剥き出された白い牙。
──そして、瞬きもせずにタカシを見据える、燃えるような二つの黒い瞳。
「キシャアアアアアアアッ!」
至近距離、耳元、いや、耳そのものの中に叩き込まれるような威嚇の咆哮だった。
タカシの全身の毛穴が一斉に立ち上がった。
「──うわああああああああああっ!」
タカシの悲鳴が森に響いた。
「うわっ、猿だ──!」
ユキヒコが叫んだ。
四 群れの知能
【ニホンザル(Macaca fuscata)──日本列島固有の霊長類。旧世界ザル科のマカカ属に属し、現生では地球上最も高緯度に生息するサル類としてギネスブックにも記載されている。体重、雄の成獣で十〜十八キログラム、体長五十〜六十センチ。犬歯は雄で二センチを超える鋭利な刃を持ち、群れ単位で行動し、優位個体を頂点とする厳格な順位社会を形成する。知能はチンパンジー・ボノボに次ぐ霊長類トップクラスであり、『道具使用』『食物洗浄』『温泉入浴』『文化伝達』など高度な行動が確認されている。──日本神話では猿は山王神の使いとされ、滋賀県の日吉大社、伊勢神宮の猿田彦神社では神聖視される一方、古代農耕民にとっては田畑を荒らす最大の害獣であり、時には幼児を攫うとさえ恐れられた。"猿"は畏敬と嫌悪の双子の感情を同時に宿した存在だった】
タカシの背中にしがみついた個体は、タカシが身を捻って抵抗すると──籠の中のタラの芽をわし掴みに引っ掴んで、一気に横の低い枝の上へと飛び移った。
──泥棒だ、こいつら。
タカシは反射的にその枝を睨みつけた。
すると、枝の上の猿は、タカシの視線をまっすぐに受け止めたまま──にやり、と牙を剥いた。
「くっ、こいつ離せ! タラの芽、俺たちの夕飯だぞ!」
タカシが叫ぶと、さらに周囲の枝が、ざざざっ、と一斉に揺れた。
タカシとユキヒコは同時に見上げた。
──いた。
あちらの枝に一匹。
こちらの藪の上に一匹。
真上を見上げればさらに二匹。
斜面の下方からはまた別の一匹が、枝を尾で引っ掴みながら器用に近づいてくる。
四方、上、下、斜め前、斜め後ろ──。
全方向に、猿が、いた。
ざっと数えて六、七匹。
──群れだ。
*
「ギャア! ギャア!」
「ギャーーッ! ギャアアッ!」
先頭格の一匹が、乾いた枝を拾って地面にバシッバシッと叩きつけ始めた。
他の個体も次々に真似をした。
バシバシ、バシバシと、音だけの攻撃が森中に広がる。
──これが、威嚇だ。
タカシの理性の一部は、まだかろうじて冷静に作動していた。
【霊長類学における『猿の威嚇行動』──枝を折る、地面を叩く、飛び跳ねる、牙を剥く、体毛を逆立てる──これらは"いきなり攻撃する"のではなく、まず敵の反応を見るための試験的攻撃である。相手が怯えて逃走するか、こちらに屈服の姿勢を示すか、それとも反撃の意思を示すか。猿の知能はこの数秒の観察によって次の行動を決定する。──つまりこの瞬間、タカシとユキヒコの"態度"が、彼らの次の瞬間の生死を決めていた】
「くそっ、こんな猿どもぐらい……」
タカシは肩の弓を構えようとした。
しかし両手が激しく震え、矢を番える動作すらままならなかった。弦に矢の尾がうまく載らない。指が言うことを聞かない。
「──ユキヒコ、槍だ。槍で威嚇しろ。絶対に背中を見せるな」
「う、うん!」
ユキヒコが黒曜石の穂先を前に向けて、父の斜め後ろに身を寄せた。
その構え方は、昨日タカシが教えたままのフォームで、十歳の少年としては上出来だった。
「ゆっくりだ。──ゆっくり下がるぞ」
タカシはユキヒコの肘にそっと触れた。
動物の捕食行動は、獲物が"背中を見せた瞬間"に発動する。彼らはこちらを"獲物"と見るか、"敵"と見るか、あるいは"別の何か"と見るか、まだ決めかねている。こちらが正対し続ける限り、彼らも"決断"を下せない。
これは野生動物対峙の絶対的な鉄則だ。
タカシはアフリカのサファリ特集のテレビ番組で何度か見た知識を、今、必死に絞り出していた。
*
一歩。
もう一歩。
親子はじりじりと、ほんの数センチずつ後退していった。
猿たちは威嚇の音を止めない。
だが──追っては来ない。
──いけるか?
タカシの中に、一瞬の希望が芽生えかけた。
その、瞬間だった。
*
タカシが一瞬、視線を右の茂みに逸らした。
斜め右後方の藪の中で、枝が不自然に揺れた気がしたのだ。もしかしたら新手の個体がいるのかと、視線を"確認"のために、ほんの〇・五秒だけ動かした。
──猿の群れは、その〇・五秒を見逃さなかった。
目の前の、最初にタカシの籠を襲った個体が、タカシの視線が外れた瞬間を正確に読んで、枝からタカシの首筋目がけて跳躍した。
【動物行動学の観察記録によれば、猿類の捕食的跳躍は"獲物の視線が逸れた〇・三〜〇・七秒"の瞬間に最も集中する。これは捕食者として"獲物に認識されていない"最適攻撃タイミングである。──彼らは単なる本能で動いているのではない。視線、呼吸、微細な筋肉の動きすべてを同時に処理する情報戦の名手である】
──空中に躍り出た赤い顔。
──剥き出された白い犬歯。
──タカシの視界のど真ん中に、あっという間にそれは迫ってきた。
タカシはとっさに右腕を顔の前に翳した。
赤ん坊を守る母親のような、本能そのものの動作だった。
次の瞬間。
ガブッ──!
鋭い犬歯がタカシの右前腕の肉に、深く、深く、食い込んだ。
骨まで届いたと錯覚するほどの激痛が、一瞬遅れて意識に追いついてきた。
「──ぎゃあああああああああっ!」
タカシは絶叫した。
右腕にぶら下がった十キロ近い体重の猿が、さらに牙を食い込ませる方向へぐいぐいと頭を捻り始めた。肉が裂ける音が、自分の耳の内側でごりごりと鳴る。
──痛みより先に、別の恐怖が走った。
──感染症だ。
【野生霊長類の咬傷は、現代医学においても最も危険な動物咬傷の一つに数えられる。ニホンザルを含むマカカ属の唾液・口腔内常在菌からは、破傷風菌(Clostridium tetani)、偏性嫌気性菌(Porphyromonas属など)、および霊長類特有のヘルペスBウイルス(Cercopithecine herpesvirus 1)などが検出される。特にBウイルスは人間が感染すると致死率七〇パーセント以上の急性脳脊髄炎を引き起こし、現代でも抗ウイルス薬での予後が厳しい。──三世紀の日向山地で、野生のニホンザルに噛まれるということ。それは、抗生物質も血清もない時代において、事実上の"時間差での死刑判決"に他ならなかった】
タカシの頭の中で、この知識が稲妻のように閃いた。
──まずい。
──これは、まずい。
五 十歳の狩人
その時だった。
父の絶叫を聞いた十歳の少年の中で、何かが変わった。
タカシはその変化を、血と痛みと恐怖のただ中で、確かに見た。
ユキヒコの目の色が、一瞬で変わった。
十歳の少年のものではない、もっと冷たく、もっと鋭く、もっと深いところまで見据えた、──"覚悟"の目だった。
その目は、一年前、病院のベッドの上で死にかけた母アカリに「お母さん、大丈夫だよ、絶対治るよ」と告げた時の、あの小さな嘘を自分に信じ込ませようとした目の、裏返しだった。
あの時守れなかったものを、今度こそ守る、という目だった。
「──お父さんを、離せぇっ!」
ユキヒコが槍を両手で握り、踏み込んだ。
黒曜石の穂先が空中に細く鋭い弧を描き──猿の背中の中央へと、一直線に突き込まれた。
ズブッ──。
鈍く、しかし深く、何かが肉に入り込む音がした。
黒曜石の刃は、現代のどのセラミックナイフをも凌ぐ鋭利さを持つ。刃先は肉の繊維を"切る"のではなく"分け"て進み、抵抗らしい抵抗もなく猿の背中の肩胛骨のすぐ横を貫いた。
【古代遺跡から出土した黒曜石製尖頭器の切断力は、現代の冷間圧延ステンレス鋼のメスを実験的に上回るとされる。理由は結晶構造にある。黒曜石は急冷されたシリカ質ガラスであるため、刃先を打ち欠くと原子数個分の厚みの刃が形成されることがある。これはどのような金属加工でも再現不可能な鋭利さである。──縄文・弥生の狩人が鉄器時代に入ってなお黒曜石を手放さなかった理由の一つは、肉を切る純粋な切れ味においては黒曜石が鉄を凌駕していたからである】
「ギィィィィィィーーーー!」
猿の絶叫が森の梢をつんざいた。
犬歯がタカシの腕から弾けるように抜けた。猿は背中から槍を生やしたまま、木の幹にぶつかり、ずるずると地面に滑り落ちていった。
ユキヒコが槍を押さえつけたまま体重を乗せて、最後にぐいと引き抜いた。
黒曜石の穂先から、濃い血がぼたぼたと地面に落ちた。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
ユキヒコの肩が、息を吐くたびに大きく揺れた。
小さな両手は、震えていた。
タカシは噛まれた右腕を押さえて地面に膝をついたまま、ただ茫然と我が子を見上げていた。
──この子は、人を殺したんじゃない。
──猿を殺したんだ。
──でも。
──でも、この顔は。
十歳の子供の顔ではなかった。
既に何かを"殺めた者"の顔だった。
取り返しのつかない何かの境界を、今、我が子がひとつ越えた。
*
だが、安堵している暇はなかった。
周囲の枝では、他の猿たちがまだ威嚇を続けていた。
仲間が一匹、地面に斃された。──通常の動物の群れならば、これで退散する。
だが猿の群れは違った。
仲間が殺されたことへの明確な"怒り"が、彼らの目の中にあった。
キィィッ、キィィッ、キィィィィーーッ!
鋭い叫びは威嚇から悲嘆へ、悲嘆から殺意へと移り変わっていく。
ユキヒコはふうふうと肩で息をしながら、父を背中に庇って槍を構え直した。
濡れた穂先の血が、タラの芽の緑色の上にぽたぽたと落ちた。
「──もし来るなら」
ユキヒコが掠れた声で、しかし真っ直ぐに、群れに告げた。
「全員、こうなるぞ!?」
──十歳の、宣戦布告だった。
タカシは噛まれた右腕の激痛の中で、それでも息子のその声を、はっきりと、耳の底に刻んだ。
──この声を俺は、一生忘れない。
タカシはそう思った。
森の上空、西に傾きかけた五月の太陽が、雲の切れ目からひと筋、ユキヒコの小さな背中に差し込んだ。
黒曜石の穂先が、その光を受けて──。
短い、しかし確かな閃きを、返した。
(第七話 了)




