第六話 どんぐりと、神の落とし物
第6話 どんぐりクッキー
焚き火の向こうで、ユキヒコが膝を抱えていた。
車のすぐ脇だ。背中に車体があるだけで、昼間の沢よりずいぶん安心できた。
私は拾ってきた枝を一本、火に足した。
「もう少し、こっちへ来い。寒いだろ」
ユキヒコが椅子をずらした。
膝の土は乾いて白くなっている。私は手を伸ばし、払ってやった。
「痛むところはないか?」
「大丈夫」
しばらく、火の音を聞いた。
ユキヒコが、ぽつりと言った。
「あれで、よかったのかな」
「何が?」
「あの人たち、追い返しちゃって」
私は息子の顔を見た。
怯えていたのに。あれほど必死で逃げていたのに。
「本当は、仲良くしなきゃ生きていけないでしょう。僕たちだけじゃ、ご飯も、なかなか手に入らないし」
目の前で、細い枝が焼け落ちた。
十歳の子供に言われるまでもない。
だが私には、あのとき、追い払うことしか考えられなかった。
「……あのままじゃ、殺されてたかもしれない」
「うん」
「だから、まず助かってよかったんだ。次に会ったとき、話せばいい」
「次、怒ってたら?」
返事に詰まった。
現代なら、何かの勘違いでしたと謝り、こちらの事情を説明できる。だが相手の言葉さえ、半分も分からない。
「……そのときは、一緒に考えよう」
ユキヒコは少し黙ってから、頷いた。
「そうだね」
私は息子の頭を撫でた。
答えを出してやれたわけではない。それでも、今はこれ以上のものがなかった。
腹が鳴る。
「しっかし、腹が減ったな」
「魚、食べられなかったもんね」
「あんなに苦労したのになあ」
「今から、獲りに行く?」
「夜の森は駄目だ」
私はすぐに答えた。
昼間でさえ、あの有様だったのだ。
それより、と、私は足元の袋を持ち上げた。
「あの人たち、これを置いていっただろ」
車で追い返したあと、残された荷物を拾っておいた。
籠と、弓矢と、槍。それから、この袋。
口を開き、火の近くへ寄せる。
黒ずんだ塊が、いくつも入っていた。
平たく、不揃いで、ところどころに焦げ目のようなものがある。
「……何、それ」
「たぶん、食べ物だ」
「たぶん?」
「ああ」
私は一つ取り出した。
軽い。石ではない。割ろうとすると少し力が要ったが、乾いた音を立てて二つになった。
断面には、何かを挽いたような細かな粒があった。
鼻へ近づける。
煙と、炒った木の実に似た匂いがした。
携帯している形からしても、保存食ではないか。
そう思ったところで、中身まで分かるわけではなかった。
「……お父さんが、食べてみる」
ユキヒコが黙って見ていた。
私は口元まで運び、一瞬止まった。
昼間、湧いてきたように現れた三人。喉へ向けられた槍。あの男が、自分のために持っていた食べ物かもしれない。
手が少し震えた。
かじる。
硬い。
歯で砕くと、舌の上でぱらぱらと崩れた。噛むうちに香ばしさが広がり、あとから少し苦みが残った。
飲み込む。
「……どう?」
ユキヒコが身を乗り出した。
「食べられそうだ」
「おいしい?」
私は残りを見る。
「今の私には、かなりうまい」
半分を渡す。
ユキヒコは両手で受け取り、端を小さくかじった。
よく噛んでから、目を開く。
「……うん。香ばしい。ちょっと苦いけど」
「どんぐりクッキーかもしれんな」
「どんぐり?」
息子が、丸い形を指で作った。
「公園に落ちてる、あれ?」
「そう。木の実を粉にして、固めて焼いたものじゃないかと思う」
「クッキーなのに、甘くないね」
「勝手にお父さんが呼んでるだけだからな」
ユキヒコが笑った。
私はもう一口食べる。
噛みごたえがある。簡単には飲み込めないので、自然と一口を長く味わうことになった。
「どんぐりって、昔の人も食べてたの?」
「ああ。ただ拾って口に入れるだけじゃないぞ。種類によっては、苦みを抜いたり、いろいろと手をかけるんだ」
「じゃあ、これも、誰かが作ったんだね」
ユキヒコは、食べかけの塊を見ていた。
私は頷いた。
拾う。運ぶ。食べられるようにする。
誰かがそれをやったあとが、目の前にあった。
狩猟採集。今朝までなら四文字で読み飛ばしていた暮らしが、口の中で、なかなかなくならずに残っている。
「……作り方を聞けたら、よかったな」
私が言うと、息子は少し考えた。
「でも、まず『返せ』って言われるんじゃない?」
「そりゃ、そうか」
笑ってから、私は袋の中を数えた。
分けて食べれば、何日かはしのげそうだった。ひと月にはまるで足りないが、今夜、空腹のまま眠らずに済む。
「神の恵みだな」
「違うよ。あの人たちが、僕らのこと神様だと思ったんだよ」
「じゃあ、お供え物か」
ユキヒコが、クッキーを口に入れかけたまま吹き出した。
「神様、すっごくお腹すいてるね」
私も笑った。
腹は、まだ足りないと言っていた。だが胸のあたりは、さっきよりずっと楽だった。
*
翌朝、私は弓を手に取った。
あの男が持っていたときは軽そうに見えたが、弦を引くには力が要った。腕を伸ばしたまま支えていると、肩の奥が震える。
矢は、最初から当たったわけではない。
木の手前へ落ちたり、横へ飛んだりした。そのたび、ユキヒコが一緒に探してくれた。
何度か試すうち、弦を放したときの手ごたえが変わった。
乾いた音がした。
矢が、木に刺さっていた。
「当たった!」
ユキヒコが駆け寄った。
「お父さん、すごいよ。まだ一時間くらいなのに」
「自分でも驚きだな。弓がいいのかもしれん」
私は、なるべく当然の顔をした。
実際には、もう一度同じところへ当てられる気は、あまりしなかった。
「僕もやっていい?」
「ああ。矢はつけずに、まず引いてみろ」
ユキヒコに渡す。
息子は弓を立て、弦に手をかけた。
「……固い」
顔を赤くしても、なかなか引けない。
「無理するな。今の体じゃ、きついよ」
「じゃあ、僕はこっちを持つ」
槍を取る。
両手で持ち、前へ出してみた。長さに振り回されかけたが、持つ場所を変えると落ち着いた。
「これ、意外と軽いね」
私は穂先を見た。
黒い石が、朝日を受けて鋭く光っていた。
「黒曜石だな。自然にできたガラスみたいな石だ。割れたところが、よく切れる刃になる」
「石なのに?」
「ああ。刃のところは、触るなよ」
息子が、そっと柄を持ち直した。
あの男たちには、この刃を作る手があった。袋の中の食べ物を用意し、山の中をあの速さで走る足もある。
車で追い払えたからといって、私たちの方が暮らしに優れているわけではなかった。
私は弓を取り、籠を背負った。
「沢へ行こう。水を汲んで、魚を獲る。獣を見つけたら、狩りも試す」
「うん」
「昨日みたいになったら、すぐ逃げるぞ」
「分かってるよ」
ユキヒコが槍を肩に担ごうとして、枝に引っかけた。
私はその枝を持ち上げてやる。
息子が下をくぐり、振り返って笑った。
私たちは、少しばかり得意になっていた。
弓があり、槍があり、食べ物も少しある。
今朝、初めて矢が刺さった木を、私はもう一度見た。
木は、じっとそこに立っていた。




