第六話 どんぐりと、神の落とし物
# 第六話(清書版)
## 一 草原の朝、置き去られた弓
タカシが浅い眠りから目を覚ましたのは、フロントガラスの向こうの山稜の輪郭がようやく薄墨色に浮かび上がり始めた、夜明け前のことだった。
身体中の関節がきしんでいた。運転席の倒しきれないシートの上で、一晩こわばった姿勢のまま、ほんの短くまどろんだだけだったのだ。昨夜、"鉄の神獣"を操って刺青の民たちを追い払った興奮の反動が、重い疲労となって全身に沈んでいた。
こめかみを押さえる。鈍い頭痛がその奥で疼いていた。
ユキヒコの寝息は、リアシートの毛布の中から今も規則正しく聞こえていた。
*
タカシは静かに運転席のドアを押し開けた。冷えた五月の夜明けの空気が、音もなく車内に流れ込んできた。
草原は濃い青みがかった靄に覆われていた。昨夜、ヘッドライトの中で尻もちをついて転がったあの石槍の男の痕跡――その人形の凹みが、朝露に濡れた草の中にくっきりと残っていた。
【湿性草原──川辺や谷底のような地表水の豊富な低湿地に成立する草原生態系。弥生時代の九州山地の谷部では、こうした湿性草原にカサスゲ、ヌマガヤ、ジュンサイ、そしてヨシが密生していたと推定される。これらは人間にとっては歩行の困難な湿地帯だったが、鳥類や大型哺乳類には絶好の水飲み場であり、格好の狩場でもあった。古代の集落はこうした湿地の縁辺の微高地──やや高い乾燥した場所──に成立することが多く、高千穂周辺の遺跡分布もこの原則に従う】
タカシは靴底でその凹みをしばらくぼんやりと見下ろしていた。
(──夢では、ないんだな)
(本当に昨夜、刺青の人間がここにいたんだな)
明け方の冷えた空気が、胸の中の昨夜の興奮の最後の火をすっかり冷ましていた。
*
タカシの視線が、草原の少し離れた場所へと流れた。
そこに、置き去られた二つの物があった。一本の巨大な木の弓。そして一本、黒曜石の穂先を持った石槍。
タカシはゆっくりとそこへ歩み寄り、膝を折って弓を両手でそっと持ち上げた。
──重かった。思った以上に、ずっしりと重かった。
【弥生時代の木弓の平均的な形状──丸木弓と呼ばれる、一本の木材から削り出された単純弓。長さはおよそ一二〇センチから一六〇センチ、弓幹の最太部の直径は三センチに達する。素材にはイヌガヤ、ヤマグワ、あるいはイチイが好まれた。弓の下側が短く上側が長いという世界的にも類例の稀な非対称形(「和弓」の原型)は、「魏志倭人伝」の「木弓は下短く上長し」の記述により、三世紀倭国においてすでに完成していたことが文献的に裏付けられている】
タカシは弦を指で、ゆっくりと引いた。
──ぎ、ぎ、ぎ……。
予想外の硬さだった。肩まで引き絞るには全く足りない。だが、腰を落として踏ん張り、全身の体重を腕に乗せると──弦は、胸のあたりまで、なんとか、動いた。
(……引けないことはない)
歯を食いしばりながら、ゆっくりと弦を戻す。右腕が震えていた。
(ちゃんとした射撃姿勢には程遠い。でも、近距離なら、当てられるかもしれない)
(弓は本来、その使い手の筋肉と骨と一緒に育ってきた道具だ。俺には、まだ、この弓は大きすぎる)
*
隣の石槍を手に取った。こちらは弓ほど特殊な技術を要しない。ただ突くだけのシンプルな武器だった。柄は丹念に樹皮を削り、表面を焦がして固めてあった。穂先の黒曜石には、両面から丁寧に剥離加工が施されていた。
【黒曜石剥離加工──原石を、より硬い石や鹿角の槌で丁寧に叩き、目的の形状を「剥ぎ取る」ように成形する、旧石器時代以来の古い技術。一点の槍先を仕上げるのに、熟練した職人でも数時間から半日を要したと推定される。──つまりこの石槍は、持ち主にとって財産そのものだった。昨夜、それを置き去ってでも刺青の民たちが逃げ帰ったという事実は、彼らがタカシとユキヒコをどれほど「本物の神」として恐れたか、の雄弁な証拠である】
タカシは石槍の穂先の鋭い刃を朝の陽光に透かしてみた。薄く半透明な層が光を通し、虹のような干渉色にきらめいていた。
息を呑むほど、美しかった。
*
"これを、置いていった"。
タカシは改めてその重みを噛み締めていた。
(この弓とこの石槍は──俺たちが"本物の神使"であるという、彼らの認定証そのものだ)
(これが、彼らが村に戻って語る噂の物証になる)
(そして、もしかしたら──)
タカシは風に目を細めた。
(──鹿光が言った"神力に頼らず、一月生き延びよ"という試練を、この神の"落とし物"は少しは楽にしてくれるかもしれない)
## 二 "三人分"の、最後の食糧
ユキヒコがぼんやりと目を覚ました時、タカシはすでに拾った弓と石槍を車の脇に立てかけ、焚き火の準備を始めていた。
「お父さん……?」
眠そうに目をこすりながらユキヒコが車から降りてきた。
「昨日のお兄さんたち、どうなった?」
「逃げてった」
タカシは静かに答えた。
「これを置いて」
ユキヒコは運転席の傍に立てかけられた黒曜石の槍と巨大な丸木弓を見た。
「……すごい」
ユキヒコの目が朝の光にきらめいた。
「でも、これ、使っていいのかな?」
「貰ったも同然だよ。あの人たちは、これを"神"に献上するつもりで置いていったんだ」
タカシは腰に手を当てて息を吐いた。
「それより、ユキヒコ──朝飯だ」
「あ」
ユキヒコの顔がぱっと輝いた。
「おまんじゅう、まだあるよ」
*
タカシは車の助手席の足元に転がったままのビニール袋をユキヒコに手渡した。中には、母親が宮崎の実家で持たせてくれた高千穂土産の温泉まんじゅうが──あと、たった三つ。そしてペットボトルのお茶が半分。
それが、タカシとユキヒコの"現代の食糧"の全てだった。
「……これを全部食べ終わったら」
タカシは小さく呟いた。
「俺たちは、この二四〇〇年前の食い物だけで生きていかなきゃならない」
ユキヒコは真剣な顔で頷いた。そして三つのうちの二つを、父の前に置いた。
「ユキヒコ、お前も──」
「僕、一つでいいよ。お父さん、昨日一番走ったもん」
タカシは息子のその真っ直ぐな気遣いに、胸がきゅうっと詰まった。
「──じゃあ、一つ半ずつだ」
「……うん」
二人は一つ半ずつの温泉まんじゅうを、ゆっくりと大切に、朝の光の中で食べた。
生地が、こんなに甘かっただろうか。小豆の餡が、こんなに深い味だっただろうか。
──食糧が希少になったその時、始めて人は食べ物の本来の味を知るのだとタカシは思った。
## 三 黒い、謎の団子
「お父さん!」
食後、車の荷室を整理していたユキヒコがふと声を上げた。
「これ、何?」
その手に持っていたのは、茶色い目の粗い麻布で作られた小ぶりの袋だった。
タカシは首を傾げた。
「……それ、どこにあった?」
「運転席の後ろの足元。多分、昨日、弓と槍を転がしていった時に一緒に車にひっかかったみたい」
タカシはユキヒコからその袋を受け取った。布地は独特のごわごわとした手触りで、植物の繊維をただ手で編んだだけの粗い織りだった。
【麻──日本列島における植物繊維布の最も古い原料。青森県・三内丸山遺跡からは縄文時代の麻縄や編布の炭化物が出土している。「魏志倭人伝」倭人の条にも「種禾稲紵麻」──稲、麻を植える、という記述がある。弥生時代にはすでに、麻は日常的な衣料・袋物の素材として列島各地で栽培・利用されていた。綿はまだ日本列島には伝来していない。絹は支配階層の特権的な素材である】
タカシは袋の口を開けて中を覗き込んだ。
入っていたのは──親指の第一関節ほどの大きさの、黒ずんだごつごつとした"何か"の塊が、ぎっしりと数十個。
*
「……なんだ、これ」
ユキヒコが眉をひそめた。
「石じゃないよね」
「いや、石じゃない」
タカシは一つ摘み上げた。指先で軽く押してみると、ぽろりと表面のひとかけらが割れた。断面からうっすらと黄金色の中身が覗いた。
その断面をタカシは鼻先に近づけた。
──かすかに、香ばしい匂いがした。炒った穀物のような、微かにほろ苦いような匂い。
「──!」
タカシの目が見開かれた。
「ユキヒコ、これ食べ物だ」
「え!?」
「間違いない。──どんぐりクッキーだ」
*
【どんぐり(団栗)──ブナ科の樹木(コナラ、ミズナラ、クヌギ、マテバシイ、スダジイなど)の果実の総称。日本列島では縄文時代を通じて主要な植物性食料として大規模に利用された。特にシイ類やマテバシイはアク(タンニン)が少なく、生食に近い形で食べられる。一方、コナラ・ミズナラ・クヌギ系のどんぐりは強いタンニンを含み、食用化するには数日間水に浸してアクを抜く工程が必須だった。福井県・鳥浜貝塚、長野県・曽利遺跡、滋賀県・粟津湖底遺跡など縄文時代の低湿地遺跡からは、どんぐりの水晒しに使われた木製の容器やスノコが完全な形で多数発見されている】
【"どんぐりクッキー"──アク抜きをしたどんぐりを石皿の上で磨り潰して粉状にし、水で練って丸め、焚き火の灰の中でじっくりと焼いたもの。鹿の肉や鳥の卵、木の実油と混ぜられることもあった。縄文時代を通じて日本列島の北から南まで発見される、極めて普遍的な保存食である。実際にはビスケット、乾パン、あるいはチャパティに近い食物であり、縄文人の事実上の"主食"の一つだった】
タカシはその黒い団子を手の中でもう一度ひっくり返した。表面にぽつぽつと焚き火の灰のこびりつきが残っていた。
(これは──鹿光が言った"神力に頼らず生き延びよ"という試練に対する、俺たちの最初の解答の半分だ)
(そして昨日逃げた刺青の民たちは、俺たちが生き延びるための保存食を置いていった)
(まるで──神に"お供物"を献上していくかのように)
## 四 試食と、味の記憶
タカシはどんぐりクッキーの一個を思い切って口の中に入れた。
歯を立てる。──カリッ。
硬い。だが口の中の唾液で少しずつほぐれていく。舌の上に広がる味は──
(苦い──タンニンの苦味がかすかに残っている)
(だが、想像していたよりずっと食べられる)
(そして、この奥底にあるのは──"甘み"だ)
どんぐりのでんぷんがゆっくりと分解して糖に変わっていくその始まりの、かすかな甘み。噛めば噛むほど、穀物の香ばしさと甘みがゆっくりと立ち上ってきた。
「──思ったより、うまい」
タカシは目を丸くした。
「ユキヒコ、食べてみろ」
ユキヒコもおずおずと一つ口に入れ、ゆっくりゆっくりと噛んだ。
「……うん、なんか香ばしくておいしいよ! ちょっと苦みがあるけど──食べられる!」
「だろう?」
タカシは笑い、袋の中の数を素早く目測した。
──およそ五十個。
(一日一人三個とすれば、二人で一日六個。八日分くらいはこれで持つ)
(それまでに、新しい食糧を必ず獲る)
「お父さん、これすっごい、縄文時代って感じがするね」
ユキヒコが目をきらきらさせて言った。
「正解だ。──これは縄文時代の主食そのものだ」
タカシは自然と教師の口調に戻っていた。
「日本列島のブナやシイやカシからどんぐりが降ってくる。それを拾って、アク抜きをして、磨り潰して、焼く。こうした食物の加工技術は一万年以上前から日本の人たちがずっと守り伝えてきた"列島の味"だ」
「へえ……」
「お前が今食べているのは、縄文人が食べていたのとまったく同じ食べ物だよ」
ユキヒコの小さな口が、また一つ、どんぐりクッキーをゆっくりと味わっていた。
──日本列島に生きる全ての人間の胃袋の、原点の味。
タカシはその息子の横顔をじっと見つめていた。
## 五 弓を握り、槍を渡す
「さて──」
食後、タカシは立ち上がり、昨日拾った弓と石槍を改めて見据えた。
「ユキヒコ。食糧は八日分できた。だけど、水は?」
「……水は昨日の沢だよね」
「そうだ。水場まで往復できれば生活は回る。だけど、その前に──」
タカシは弓を手に取り、今朝試した時のように腰を落として構えた。
「狩りの力を身に付ける。これが今日の最大の課題だ」
「……お父さん、弓、引けるの?」
ユキヒコが心配そうに聞いた。
「引けないことはない。肩まで絞るのは無理だが、近距離なら当てられる」
タカシは歯を食いしばって弦を胸まで引き絞り、ゆっくりと戻した。右腕が小刻みに震えていた。
「……とまあ、こんな感じだ」
「痛そう」
「まあな」
タカシは苦笑いをして、今度は石槍をユキヒコに差し出した。
「これはお前が使え」
「え、僕が?」
「弓は遠くから獣を狙う。槍は近くで仕留める。二人で役割を分ければいい」
ユキヒコは石槍を両手で受け取り、その重さを確かめるように少し持ち上げた。
「……重いけど、持てる」
「柄の後ろ三分の一あたりを握れ。そこが一番バランスが取れる」
ユキヒコが言われた通りに握り直すと、槍は自然に前方へ傾いた。
「あ、本当だ」
*
ユキヒコは両足を肩幅に開いて、槍を正面に構えてみた。
タカシは、その姿を黙って見た。
(──不思議なくらい、様になっている)
小学生の細い腕には不釣り合いなほど長い槍なのに、ユキヒコの重心は妙に低く、安定していた。
「お父さん、こう?」
「……ああ。そうだ」
タカシの頭の中で、昨日鹿光が宣言したあの言葉が、静かに甦った。
『我が依代よ。そなたの息子は──王の器である』
(弓は俺が持つ。槍はユキヒコが持つ)
(それが──今の俺たちの、正しい形だ)
*
タカシは弓をぐっと握り直した。
「よし、ユキヒコ。沢へ行くぞ」
「うん!」
「水を汲みつつ、何か獲物がいないか探そう」
父と子は丸木弓と黒曜石の石槍をそれぞれ手に持って、朝霧の薄く残る草原を、昨日とは違う狩人としての一歩で踏み出した。
## 六 五月の日本列島、食物連鎖
道すがら、タカシは頭の中に積み上がった古代日本の食の年表を整理していた。
(五月──)
(弥生時代の端境期。最も食糧が枯渇する時期だ)
(秋のどんぐりの備蓄はほぼ底を突き、初夏の野草もまだ最盛期を迎えきれていない)
【弥生時代の食糧サイクル──年間を通じた食糧の変動は極めて激しかった。最も安定するのは秋で、稲の収穫と栗・どんぐり・椎の実の豊かな実り、晩秋の肥えた鹿や猪の季節である。逆に最も厳しいのは冬の終わりから初夏にかけて。晩冬の蓄えが底をつき、新しい作物はまだ実らない。吉野ヶ里遺跡や西日本の弥生期人骨からは、この時期の栄養不足を示す骨成長線(ハリス線)が高頻度で検出される。五月──それは古代日本の食の、最も細い綱渡りの季節である】
タカシの胸の奥で焦燥が渦を巻いていた。
(この五月を乗り切れば──六月の鮎の遡上、七月の梅、八月の山桃、そして秋の豊穣に繋がっていく)
(だが今ここを乗り切れるかどうかが、全ての分水嶺だ)
*
「お父さん、あれ何?」
ユキヒコがふと沢へ下る斜面の途中で足を止めた。指を差した先には、地面からまっすぐに立ち上がった太い軸の先に、まだ巻きつくように緑の葉がきゅっとまとまった、野菜のような物があった。
タカシの目が輝いた。
「タラの芽だッ!」
「タラの芽?」
「山菜の王様だ。──旨いぞ、これは」
【タラの芽(学名 Aralia elata)──ウコギ科タラノキ属の落葉低木の新芽。四月下旬から五月上旬が収穫期。独特のほろ苦さと香りを持ち、天ぷら、胡麻和え、炊き込みご飯、いずれにも合う山菜の中で最も珍重される一つ。アイヌ民族の伝統食にも使用される。九州山地では五月中旬まで新芽の収穫が可能である。──端境期の山の民にとって、タラの芽の一叢は文字通り"命の糧"だった】
タカシは躊躇なくキッチンナイフでタラの芽を二つ切り取った。
「贅沢は言わない。一番上の新芽だけ貰おう。根株は残せば、また新芽が出てくる」
「──お父さん、すごい詳しいね」
「だから考古学やってたんだよ」
タカシは苦笑いをした。
「古代の暮らしを復元するって、山菜の知識も一応頭に入れとかないと先生に怒られた」
「ふうん」
*
タラの芽を布で包み腰に下げた。その途端、草むらの奥から──
──がさっ。
何かが動く音がした。タカシは咄嗟に石槍を構えた。
「──っ、ユキヒコ、下がれ」
ユキヒコも弓を反射的に握り直した。
風に揺れる草の隙間から、"それ"は姿を現した。
*
体長一メートル近い大きな兎だった。それも一匹ではなかった。二匹、三匹──いや、違う。兎の向こう側に、さらに大きな影がある。しっかりと角の生えた──シカだった。それも幾頭もの群れ。そして群れの最奥で、ひときわ巨大な牡鹿がじっとこちらを見据えていた。
*
タカシの背筋が凍った。その群れの瞳の全てが──昨日の朝、高千穂峡の崖の上から自分たちを見下ろしていたあの群れと同じ、神秘的な金の燐光を内側から放っていた。
(──鹿光の使いか?)
(それとも──)
ユキヒコの小さな手がタカシのシャツの裾をぎゅっと握った。
「お父さん」
息子の声は恐怖ではなく、ただ静かな予感だけを含んでいた。
「また──何か、来るよ」
*
そして。鹿の群れの背後の森の奥から──
──ギャッ。
獣の金切り声がした。タカシが聞いたことのない、だが確かに霊長類の類人猿系の声だった。
鹿の群れがいっせいに頭を上げ、耳をぴくぴくと動かした。そして群れはタカシとユキヒコの横を風のように駆け抜け、別の斜面へと散っていった。
後に残されたのは、森の奥から近づいてくる"何か"の群れの気配だけだった。
(……猿だ)
タカシの頭の中で、ある日本神話の一柱の神の名前が浮かんだ。
(猿──『古事記』『日本書紀』において、天孫降臨の先導者として瓊瓊杵尊を導いた、あの異相の神。その名を──)
【猿田彦大神──『古事記』『日本書紀』両方に登場する国津神の一柱。身の丈七尺(およそ二・一メートル)、鼻の長さ七咫、眼は赤酸漿──ほおずきのように燃える赤色。天孫・瓊瓊杵尊が高天原から葦原中国へ天降りする際、その道案内役を勤めた。後世、「導きの神」「道祖神」「芸能の神」として、三重県・椿大神社および伊勢神宮内宮近くの猿田彦神社などに祀られる。天孫降臨神話は、まさにこのヒムカ(日向)の高千穂の地が舞台である】
タカシは息を呑んだ。
(天孫降臨の先導の猿──)
(この時代、この場所に──それはいるはずだ)
草むらの奥の気配が、明らかに近づいてくる。
(お前は──この時代のただの"猿"なのか?)
(それとも──俺がついに出会った、最初の日本神話の原型なのか?)
タカシは冷や汗をにじませながら石槍をしっかりと構え直した。傍らでユキヒコが弓に矢を番え始めた。
──"狩り"の初日。獲物はまだ何一つ獲れていない。
その代わりにタカシとユキヒコは、"この時代の食物連鎖のどこに自分たちがいるのか"を、全身で知ることになろうとしていた。
(第六話 了)




