第5話 神の使いの逆襲)
第5話 神の使いの逆襲
槍を持つ男が、顔を背けた。
「ヒッ……なんな、そい!」
ユキヒコはスマホを高く掲げていた。白い光が仮面を照らし、乾いたシャッター音が鳴る。
「僕らは、神の使いだ!」
男たちが半歩、退いた。
私の喉に向けられていた槍先が、横へ逸れる。
今だ。
「ユキヒコ! 走れ!」
立ち上がり、息子の腕を引いた。足元の荷物を掴む。何が入っているか確かめる余裕はなかった。
火を迂回し、沢から斜面へ駆け上がる。
背中に何かが刺さる気がして、肩を縮めた。
「車まで戻るぞ!」
「うん!」
ユキヒコがスマホをしまい、両手を使って坂を登る。
私も根を掴み、膝を土につけて這い上がった。
数歩、平らなところを走る。
それだけで息が切れた。
*
沢に残った三人の前で、魚が焼けていた。
弓の男が、二人の消えた斜面を見た。
「追っかけるか?」
「じゃっけん、さっきの光は……」
槍の男は、自分の仮面に触れた。
少女が顔を上げる。
「東の者らかもしれん。あちらは鏡を、ようけ持っちょるという」
弓の男が、少女を見た。
「鏡か。なら、あれも……」
槍の男が斜面へ向き直った。
三人は、二人を追った。
*
私は、こんなに走れない人間だったのか。
枝が顔を打つ。靴が土に滑る。胸の奥が焼けるように痛かった。
ユキヒコは少し後ろを走っていた。振り向くたび、その姿があることを確かめる。
「走れるか!」
「うん……っ」
短い返事だった。
私たちは、朝からまともな物を食べていない。水と、残りの饅頭だけだ。あれほど苦労して獲った魚を、一口も食べられなかった。
思い出しただけで腹が立ったが、怒るための息すら足りない。
もう一つ斜面があった。
先に上がって、手を伸ばす。
「ユキヒコ、手!」
息子が掴んだ。
引っ張る。腕だけでは足りず、尻を地面について体ごと後ろへ倒した。
ユキヒコが、ようやく隣へ上がる。
昨日のボートで抱き寄せたときより、重く感じた。
「ごめん、お父さん」
「何がだ。走るぞ」
後ろで声がした。
近い。
私は息子の背を押した。
先へ。とにかく先へ。
来たときに見た倒木を越え、幹が分かれた木の脇を通る。道だと思っていた場所は、走るとまるで違って見えた。
やがて、前が明るくなった。
草地だ。
その向こうに、車があった。
「あった……!」
銀色の車体が、傾いた日を受けて光っている。
私は思わず足を緩めた。
「待てえ!」
背後の声に、体が跳ねた。
三人が森から出てくる。
私たちとは、息の上がり方が違った。槍も弓も持ったまま、地面の凹凸を迷わず踏んでくる。
この山を歩くというだけのことが、私とはまるで違う技術なのだ。
私はユキヒコを背中へ回した。
車までは、まだ少しある。
その距離を走っている間に、射られるかもしれない。
弓の男が、ゆっくり仮面を外した。
顔には、刺青があった。
人間の顔が現れたことに、妙な安心を覚えた。だが、その目は少しも笑っていなかった。
「おめえら、どっから来たとか」
その問いは、何となく分かった。
聞き返そうとすると、槍の男が口を挟んだ。
また「ニエ」という音がした。
それから、ユキヒコを見た。
「わらしは、ヌヒにして……」
「やめ!」
少女の声が、鋭く割り込んだ。
二人の男が口を閉じる。
「殺すな。二人とも、村さ連れて帰れ」
「……わかいもした、姫」
姫。
その言葉だけ、妙にはっきり聞こえた。
小柄な少女の方が、二人より立場が上なのか。
分からない。
何を決めたのか、全部は分からないが、このまま捕まっていいとは思えなかった。
私は片手をポケットへ入れた。
指先に、車の鍵が触れた。
押す。
車が短く鳴り、ランプが点滅した。
三人が一斉に振り向く。
「乗れ、ユキヒコ!」
私たちは走った。
息子が後部座席のドアを開ける。私は運転席へ滑り込み、荷物を助手席へ投げた。
「閉めろ!」
後ろで、ドアが閉まる音がした。
ロックする。
窓の向こうに槍の男が見えたが、こちらへ来るより先に、エンジンがかかった。
足裏へ、振動が伝わってきた。
何百回も聞いた音だ。
東京の朝、出先の駐車場、実家から戻る日。
そのありふれた音を聞いた途端、背中に力が戻った。
「つかまってろ」
車を前へ出す。
弓の男と少女が、左右へ逃げた。
私はすぐに速度を落とし、ハンドルを切った。草地の先には崖がある。広く見えても、走り回れる場所ではない。
横から、短い音がした。
矢だった。
槍を地面に置いた男が、仲間から受け取った弓を構えていた。車体の横へ当たった矢が、跳ね返って草に落ちる。
「……効くかよ」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
私は男へ車の鼻先を向けた。
アクセルを踏む。
「ひいっ!」
男が、腰を落とした。
私は手前で強くブレーキを踏んだ。車が揺れる。息子の息を呑む音がした。
轢くつもりはなかった。
だが、もう近づかせるつもりもなかった。
クラクションを鳴らした。
山に音がぶつかり、返ってくる。
男が両手で耳を塞いだ。少女も、仮面の脇に手を当てている。
もう一度、鳴らす。
三人の体が縮んだ。
私は窓を少しだけ開けた。
「いいか!」
声が震えないよう、腹に力を入れた。
言葉が全部通じなくてもいい。
この音と、光と、鉄のかたまりを見れば、近づいてはいけないと分かるはずだ。
「俺たちは、神の使いだ!」
ユキヒコが、後ろから私を見ていた。
私は相手から目を離さず、続けた。
「分かったら、帰れ!」
ヘッドライトに照らされた少女が、口を動かした。
「……神様」
三人が荷物を置いた。
弓、槍、籠。それから袋。
両手を上げ、ゆっくり後ろへ下がる。
私は、最後にクラクションを鳴らした。
「帰れ!」
三人は身を翻した。
さっきまで私たちを追っていた脚で、森の中へ走っていく。草が揺れ、枝が跳ね、それもすぐに静かになった。
私は窓を閉めた。
エンジンを止めた。
しんとした車内で、息の音だけが続いた。
「……お父さん」
ハンドルから手を離そうとしたが、指が固まっていた。
一本ずつ動かし、どうにか振り返った。
「大丈夫か」
「うん」
ユキヒコの顔に、土がついていた。
鼻の横に、葉の切れ端が一つ貼りついている。私は手を伸ばして、それを取った。
「お前が、先にスマホを出してくれたからだ」
息子は目を丸くした。
「あれがなかったら、車まで戻れなかった」
「でも、お父さんも、すごかったよ」
私は笑おうとして、うまく笑えなかった。
もう一度、三人の消えた場所を見る。
森は静かだった。
ユキヒコが生きている。私も生きている。とにかく、今日はそれで十分だ。
ようやく背もたれに体を預けたとき、腹が鳴った。
すぐ後ろで、息子の腹も鳴った。
「……神の使いなのにな」
私が言うと、ユキヒコが小さく吹き出した。
釣られて、私も笑った。
体はまだ震えていた。




