↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/29

第4話 最初の獲物

 斜面の上で、一人の男が槍を持ち上げた。

 狙いの先には、小さな刃物を握る、見慣れない服の男がいた。その隣には子供がいる。

 槍が引かれる。

 だが、そばにいた少女が腕を伸ばし、それを止めた。

 男が振り向く。少女は黙って首を振った。

 もう一人、弓を持った男も、少女の顔を見て頷く。

 三人は音を立てず、木々の奥へ姿を消した。


     *


 兎は、逃げた。

 私が片足を出した途端に跳ね、草の向こうへ消えた。追いかけるかどうか迷う暇もなかった。


「あーあ」


 ユキヒコが肩を落とす。

 私はナイフを見下ろし、そっとしまった。


「……まあ、そうだよな」


 包丁より小さな刃物を持って、どうやって野生の兎を捕まえるつもりだったのか。

 自分でも分からない。ただ、空腹のときに目の前を肉が通ると、頭が普段とは違う働き方をするらしい。


 歩き始める。

 見上げる木々には若い葉が多かった。木の実を拾うには、季節が違う。秋なら多少は、と考えて、秋だったら獲れるものを自分は本当に知っているのか、とも思った。


 歴史の本には、狩猟採集と一言で書いてある。

 私はその四文字を、ずいぶん簡単なものだと思っていた。


「お父さん」


 息子が足を止めた。


「水の音、しない?」


 私も黙った。

 葉の擦れる音と、鳥の声。その奥に、細い、途切れない音があった。


「……するな」

「こっち!」

「待て。ゆっくりだ」


 私たちは木の幹につかまりながら、斜面を下りた。足元の石を落とすと、下で別の石にぶつかる音がした。

 やがて、木々の間に白い光が見えた。


 沢だった。

 岩の間を流れる水が、日に照らされてきらめいている。

 ユキヒコがしゃがみ込み、水面のすぐ上で顔を止めた。


「すごい。底まで見えるよ。飲んでいい?」

「……先に沸かそう」


 私も飲みたかった。

 冷たい水を、顔ごと突っ込みたいくらいだった。だが、上流に何があるか分からない。


「綺麗でも、お腹を壊すようなものが混じってるかもしれないからな」

「冷たい方がおいしそうなのに」

「病院へ行けないだろ。今は」


 息子が顔を上げた。

 その目を見て、私は言い足した。


「用心するってことだよ」


 持ってきた鍋を出し、火を用意する。

 着火具が小さく音を立て、燃料に火がついた。たったそれだけのことが、ありがたかった。これまでの私は、火をつける道具があることを、幸運と数えたことがない。

 やがて湯気が上がり、水がぐつぐつと動き始めた。


 コップを石の上に並べる。

 ユキヒコは両手を膝に置いて、じっと待っていた。


「まだ熱いからな」

「分かってる」


 何度も息を吹きかけ、それから少し口に含む。

 息子の喉が動いた。

 私も飲んだ。ぬるくなりかけた、ただの湯だった。なのに、体の中が一段下まで落ち着くような気がした。


「……生き返るな」

「うん」


 ユキヒコが、空になったコップの底を見た。


「次は、ご飯だね」


 難しい方が残った。

 私は沢に目を向けた。水の流れが、大きな岩の手前で二つに分かれている。

 その影で、何かが走った。


「……いた」


 腰をかがめる。

 細長い影がもう一度動き、岩の下に潜った。


「魚だ」


 ユキヒコも覗き込もうとする。私は手で制した。


「そこにいてくれ。お父さんがやってみる」

「釣り竿、ないよ?」

「ああ」


 ズボンの裾を上げ、浅いところへ足を入れた。

 冷たい。思わず息を吸う。水底の石がぬめり、体を支えるために両足を開いた。

 記憶の中では、もっと簡単にできていた。

 学生だったころは、考古学の調査で山へ入ることがあった。合間に土地の人から教わった魚捕りで、何度か夕飯にありついた。

 あのときの感覚が、手のどこかに残っていないか。


 岩陰に手を入れる。

 水が袖口から入り、肘まで冷えた。

 何もいない。

 いや、指先の向こうで何かが動いた。


 掴む。

 逃げられる。


「あっ」

「いた?」

「いた。今、いた」


 私は別の岩へ回った。

 ユキヒコが、川岸で膝を抱えて見ている。

 もう少し、格好のつくところを見せたかった。だが今は、格好より魚だ。


 次は、すぐに手を閉じなかった。

 水の中でじっと待つ。指先に、滑るような感触が触れた。


「……よしっ!」


 手の中で、魚が跳ねた。

 岸へ放る。銀色の腹がひっくり返り、濡れた石の上で尾が鳴った。


「お父さん、獲れた!」

「逃がすな、ユキヒコ!」


 息子が慌てて両手をかぶせる。魚はするりと抜け、また跳ねた。ユキヒコが追いかけ、膝をついて止める。


「獲った!」


 二人して、息を切らしていた。

 魚は一匹だった。

 それなのに、私は立ち上がって拳を握りたいくらいだった。


「すごい! なんで、こんなことできるの?」

「大学で考古学をやってたからな」

「考古学って、魚を捕まえる勉強なの?」

「違う違う。遺跡の調査で山へ行って、そのときに覚えたんだ」

「へえ。知らなかった」


 ユキヒコは魚を見て、それから私を見た。


「お父さん、そういうこともできたんだ」


 私は照れくさくなって、水に手を戻した。


「もう何匹か、獲るぞ」


 張り切りすぎたのか、次はなかなか獲れなかった。

 指が冷え、腰が痛くなり、岸へ上がっては手をこすった。ユキヒコは逃がさない係になり、魚が来るたびに歓声を上げた。

 二時間ほどで、ようやく八匹。

 大きさはばらばらだったが、二人で食べるには十分な数に見えた。


     *


 湯を沸かした鍋と使い終えた道具を荷物へ戻し、魚が焼けるのを待った。

 焼ける匂いが、つらかった。

 皮が乾いて色を変え、脂が火に落ちるたび、腹の中がきゅっと縮む。

 内臓を取るところはユキヒコも見ていた。目を逸らすかと思ったが、黙って覗き込み、次に何をするのか聞いてきた。

 私は、知っている範囲で答えた。

 それから、十分に焼けるのを二人で待った。


「まだ?」

「もう少し」


 同じやり取りを何度かしたあと、私は一本を火から外した。


「よし。いいぞ」


 ユキヒコに渡す。

 自分も一本取った。表面は少し焦げていたが、そんなことはどうでもよかった。


「いただきます」


 口を開いた。


 指先が、急に軽くなった。


 何かが頬の近くを走り、地面で硬い音がした。

 私は口を開けたまま、手を見た。持っていたはずの魚がない。

 足元に、矢が突き立っていた。

 矢には、私の魚が刺さっていた。


「……え?」


 顔を上げる。

 沢の向こうに、三人が立っていた。

 弓を持つ男。槍を持つ男。その間に、小柄な少女。

 仮面の穴から、こちらを見ている。


「キサンら、何もんじゃっとか!」


 弓の男が怒鳴った。

 意味は取り切れない。だが、歓迎されていないことは分かった。

 槍の男も何か言った。「山の神」と「魚」という音だけが、耳に引っかかった。


 私はゆっくり両手を上げた。


「待ってくれ。私たちは……」


 三人が近づいてくる。

 毛皮。編んだものらしい衣。木と石で作られた武器。

 ああ、本当にいる。

 遺跡の復元画ではない。息をして、怒って、私を睨んでいる人間が。

 その一瞬、腹の底の恐怖と別の場所で、どうしようもなく心が動いた。


「……ニエにしたら?」


 男の一人が言った。

 もう一人が、面白がるように繰り返す。


「ニエ、ニエ」


 生贄《いけにえ》。

 そう聞こえた途端、動いていた心も凍った。


 槍の先が、喉元に来た。

 私は顎を上げた。唾を飲むだけで、刃に触れそうだった。


「やめてよ!」


 ユキヒコが立ち上がった。


「僕たちは、神様に連れてこられたんだよ!」


 息子の手が、胸元へ動く。

 私を指していた槍が、少しだけそちらへ向いた。


「これが、神の力だ!」


 ユキヒコのスマホが、白い光を放った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。