第4話 最初の獲物
斜面の上で、一人の男が槍を持ち上げた。
狙いの先には、小さな刃物を握る、見慣れない服の男がいた。その隣には子供がいる。
槍が引かれる。
だが、そばにいた少女が腕を伸ばし、それを止めた。
男が振り向く。少女は黙って首を振った。
もう一人、弓を持った男も、少女の顔を見て頷く。
三人は音を立てず、木々の奥へ姿を消した。
*
兎は、逃げた。
私が片足を出した途端に跳ね、草の向こうへ消えた。追いかけるかどうか迷う暇もなかった。
「あーあ」
ユキヒコが肩を落とす。
私はナイフを見下ろし、そっとしまった。
「……まあ、そうだよな」
包丁より小さな刃物を持って、どうやって野生の兎を捕まえるつもりだったのか。
自分でも分からない。ただ、空腹のときに目の前を肉が通ると、頭が普段とは違う働き方をするらしい。
歩き始める。
見上げる木々には若い葉が多かった。木の実を拾うには、季節が違う。秋なら多少は、と考えて、秋だったら獲れるものを自分は本当に知っているのか、とも思った。
歴史の本には、狩猟採集と一言で書いてある。
私はその四文字を、ずいぶん簡単なものだと思っていた。
「お父さん」
息子が足を止めた。
「水の音、しない?」
私も黙った。
葉の擦れる音と、鳥の声。その奥に、細い、途切れない音があった。
「……するな」
「こっち!」
「待て。ゆっくりだ」
私たちは木の幹につかまりながら、斜面を下りた。足元の石を落とすと、下で別の石にぶつかる音がした。
やがて、木々の間に白い光が見えた。
沢だった。
岩の間を流れる水が、日に照らされてきらめいている。
ユキヒコがしゃがみ込み、水面のすぐ上で顔を止めた。
「すごい。底まで見えるよ。飲んでいい?」
「……先に沸かそう」
私も飲みたかった。
冷たい水を、顔ごと突っ込みたいくらいだった。だが、上流に何があるか分からない。
「綺麗でも、お腹を壊すようなものが混じってるかもしれないからな」
「冷たい方がおいしそうなのに」
「病院へ行けないだろ。今は」
息子が顔を上げた。
その目を見て、私は言い足した。
「用心するってことだよ」
持ってきた鍋を出し、火を用意する。
着火具が小さく音を立て、燃料に火がついた。たったそれだけのことが、ありがたかった。これまでの私は、火をつける道具があることを、幸運と数えたことがない。
やがて湯気が上がり、水がぐつぐつと動き始めた。
コップを石の上に並べる。
ユキヒコは両手を膝に置いて、じっと待っていた。
「まだ熱いからな」
「分かってる」
何度も息を吹きかけ、それから少し口に含む。
息子の喉が動いた。
私も飲んだ。ぬるくなりかけた、ただの湯だった。なのに、体の中が一段下まで落ち着くような気がした。
「……生き返るな」
「うん」
ユキヒコが、空になったコップの底を見た。
「次は、ご飯だね」
難しい方が残った。
私は沢に目を向けた。水の流れが、大きな岩の手前で二つに分かれている。
その影で、何かが走った。
「……いた」
腰をかがめる。
細長い影がもう一度動き、岩の下に潜った。
「魚だ」
ユキヒコも覗き込もうとする。私は手で制した。
「そこにいてくれ。お父さんがやってみる」
「釣り竿、ないよ?」
「ああ」
ズボンの裾を上げ、浅いところへ足を入れた。
冷たい。思わず息を吸う。水底の石がぬめり、体を支えるために両足を開いた。
記憶の中では、もっと簡単にできていた。
学生だったころは、考古学の調査で山へ入ることがあった。合間に土地の人から教わった魚捕りで、何度か夕飯にありついた。
あのときの感覚が、手のどこかに残っていないか。
岩陰に手を入れる。
水が袖口から入り、肘まで冷えた。
何もいない。
いや、指先の向こうで何かが動いた。
掴む。
逃げられる。
「あっ」
「いた?」
「いた。今、いた」
私は別の岩へ回った。
ユキヒコが、川岸で膝を抱えて見ている。
もう少し、格好のつくところを見せたかった。だが今は、格好より魚だ。
次は、すぐに手を閉じなかった。
水の中でじっと待つ。指先に、滑るような感触が触れた。
「……よしっ!」
手の中で、魚が跳ねた。
岸へ放る。銀色の腹がひっくり返り、濡れた石の上で尾が鳴った。
「お父さん、獲れた!」
「逃がすな、ユキヒコ!」
息子が慌てて両手をかぶせる。魚はするりと抜け、また跳ねた。ユキヒコが追いかけ、膝をついて止める。
「獲った!」
二人して、息を切らしていた。
魚は一匹だった。
それなのに、私は立ち上がって拳を握りたいくらいだった。
「すごい! なんで、こんなことできるの?」
「大学で考古学をやってたからな」
「考古学って、魚を捕まえる勉強なの?」
「違う違う。遺跡の調査で山へ行って、そのときに覚えたんだ」
「へえ。知らなかった」
ユキヒコは魚を見て、それから私を見た。
「お父さん、そういうこともできたんだ」
私は照れくさくなって、水に手を戻した。
「もう何匹か、獲るぞ」
張り切りすぎたのか、次はなかなか獲れなかった。
指が冷え、腰が痛くなり、岸へ上がっては手をこすった。ユキヒコは逃がさない係になり、魚が来るたびに歓声を上げた。
二時間ほどで、ようやく八匹。
大きさはばらばらだったが、二人で食べるには十分な数に見えた。
*
湯を沸かした鍋と使い終えた道具を荷物へ戻し、魚が焼けるのを待った。
焼ける匂いが、つらかった。
皮が乾いて色を変え、脂が火に落ちるたび、腹の中がきゅっと縮む。
内臓を取るところはユキヒコも見ていた。目を逸らすかと思ったが、黙って覗き込み、次に何をするのか聞いてきた。
私は、知っている範囲で答えた。
それから、十分に焼けるのを二人で待った。
「まだ?」
「もう少し」
同じやり取りを何度かしたあと、私は一本を火から外した。
「よし。いいぞ」
ユキヒコに渡す。
自分も一本取った。表面は少し焦げていたが、そんなことはどうでもよかった。
「いただきます」
口を開いた。
指先が、急に軽くなった。
何かが頬の近くを走り、地面で硬い音がした。
私は口を開けたまま、手を見た。持っていたはずの魚がない。
足元に、矢が突き立っていた。
矢には、私の魚が刺さっていた。
「……え?」
顔を上げる。
沢の向こうに、三人が立っていた。
弓を持つ男。槍を持つ男。その間に、小柄な少女。
仮面の穴から、こちらを見ている。
「キサンら、何もんじゃっとか!」
弓の男が怒鳴った。
意味は取り切れない。だが、歓迎されていないことは分かった。
槍の男も何か言った。「山の神」と「魚」という音だけが、耳に引っかかった。
私はゆっくり両手を上げた。
「待ってくれ。私たちは……」
三人が近づいてくる。
毛皮。編んだものらしい衣。木と石で作られた武器。
ああ、本当にいる。
遺跡の復元画ではない。息をして、怒って、私を睨んでいる人間が。
その一瞬、腹の底の恐怖と別の場所で、どうしようもなく心が動いた。
「……ニエにしたら?」
男の一人が言った。
もう一人が、面白がるように繰り返す。
「ニエ、ニエ」
生贄。
そう聞こえた途端、動いていた心も凍った。
槍の先が、喉元に来た。
私は顎を上げた。唾を飲むだけで、刃に触れそうだった。
「やめてよ!」
ユキヒコが立ち上がった。
「僕たちは、神様に連れてこられたんだよ!」
息子の手が、胸元へ動く。
私を指していた槍が、少しだけそちらへ向いた。
「これが、神の力だ!」
ユキヒコのスマホが、白い光を放った。




