第3話 お父さんは、ワクワクしない?
目を開けると、お父さんの顔が、すぐそばにあった。
「ユキヒコ。分かるか?」
「……うん」
「どこか痛くないか。気持ち悪くは?」
僕は肘をつこうとして、腕に力が入りにくいことに気づいた。
お父さんが背中に手を入れて、起こしてくれる。地面の草が、シャツの背中から抜け落ちた。
朝の風は冷たかった。
「体、大丈夫か?」
「大丈夫。僕、全部、聞こえてたよ」
お父さんが黙った。
鹿光が話しているあいだも、僕はここにいた。口を動かしているのは僕じゃないのに、お父さんの顔は見えていた。手を伸ばそうとしても動かせなくて、変な感じがした。
「ひと月、生き残らなきゃだね」
僕が言うと、お父さんは長く息を吐いた。
「……お前は、怖くないのか」
「怖くないよ」
答えてから、自分の手を見る。
もう光っていない。爪に土が入った、いつもの手だった。
「冒険、楽しみだもん」
「冒険ってなあ」
お父さんが、遠くの山を見る。
「山の中に二人だけで置いていかれたんだぞ。食べ物も、寝る場所も、自分たちでどうにかしなきゃならないんだ」
「寝る場所は、車があるよ」
「そりゃ、そうだけど」
「お父さんもいるし」
お父さんは、僕を見た。
そんなに変なことを言ったつもりはなかった。
東京でお父さんが帰ってくる時間には、僕はもう寝ていた。宮崎に来てからは、会えない日の方が多かった。
でも、今日は目を開けたら、ここにいた。
たぶん明日も、ここにいる。
「一緒に冒険できるなら、僕はやっぱり、ワクワクするよ」
お父さんは困った顔をした。その顔に、笑いたいみたいなものが少し混ざった。
「お父さんは、ワクワクしないの?」
返事はすぐにはなかった。
「昔の日本のこと、知りたかったんでしょう?」
「……知りたかったさ」
お父さんが、小さく笑った。
「ずっとな」
それなら、よかった。
僕がそう思ったとき、お腹が鳴った。
ものすごく大きな音だった。
お父さんと顔を見合わせる。
「まずは、朝飯だな」
「でも、お饅頭、もう少ししかないよ」
「ああ」
「水と食べ物を探さなきゃ」
お父さんは頷いた。さっきみたいに、朝になれば大丈夫だとは言わなかった。
*
最後の饅頭は、車の後ろで食べた。
僕は包み紙についた皮まで、指で取った。お父さんも同じことをしていて、ちょっとおかしかった。
空になった箱を畳むと、本当に食べ物がなくなった気がした。
お父さんが荷台を開けた。
「そうだ。キャンプの道具がある」
積んである箱を引っ張り出し、草の上に置く。
着火用の道具。燃料。網。小さな鍋。コップ。キッチン用のナイフと鋏。折り畳んだ椅子と、ビニールシートも出てきた。
「こんなに持ってきてたの?」
「お前と、デイキャンプでもしようと思って」
「今日?」
「ああ。宿を出たあとにな」
お父さんは小さな椅子を開いた。片方の脚が草に引っかかって、うまく立たない。持ち上げ、場所を変えて、ようやく置いた。
「景色のいいところで、肉でも焼いてさ」
「お肉は?」
「……途中で買うつもりだった」
僕は声を出して笑った。
お父さんも、困ったように笑った。
「店がなくなるとは、思わなかったからな」
網も、鍋も、綺麗だった。
それを僕と使おうとしていたのだと思うと、触りたくなった。鍋の蓋を開けたり、取っ手を持ったりする。
お父さんはその隣で、持っていく物と残す物を分けていた。
「全部は無理だな。椅子は置いていく。鍋と、火をつける物は持とう」
「水を見つけたら、これに入れる?」
僕は空になったペットボトルを見せた。
「ああ。捨てるなよ。それ、大事だ」
いつもなら、飲み終わったらゴミ箱に入れるものだ。
僕は潰しかけたボトルを戻し、蓋をしっかり閉めた。
お父さんがナイフを取り上げる。
台所で見るような、小さなものだった。
「それで、動物を獲るの?」
「できればな」
「できる?」
お父さんがナイフを見る。それから、森を見た。
「……やったことはない」
正直な返事だった。
僕は頷いた。知らないのに大丈夫だと言われるより、その方が、何をすればいいか考えやすかった。
「じゃあ、最初は水だね」
「そうだな。水を探そう」
崖の方へ行って、二人で下を見た。
木のてっぺんが、ずっと下にある。登るための階段はないし、手すりもない。
「こっちを降りるのは無理だ。後ろの森から行こう」
「了解」
お父さんは車の鍵をかけた。
いつもの電子音が、草原に響いた。
その音が消えると、鳥の声がいくつも聞こえた。
*
森には、道がなかった。
木と木の間を通れば進めるけれど、そこにも根っこや草がある。平らだと思って足を置くと、落ち葉の下に穴があって、靴がぐらりと傾いた。
「大丈夫か?」
「うん」
お父さんが振り返った。
僕が立ち直るまで、待ってくれた。
木の枝が、服を引っ張る。顔の前を飛んだ虫を払う。坂を少し登るだけで、息が上がった。
ゲームなら、ずっと同じ速さで走れた。僕の足は、そうはいかない。
「暑い」
「少し休むか」
「まだ歩ける」
「休めるうちに休もう」
お父さんが木の根元に腰を下ろした。僕も隣に座る。
靴の中に入っていた小石を取り出すと、さっきまで痛かったところに風が当たった。
お父さんも膝を擦っている。
「お父さんも、疲れた?」
「お父さんの方が、荷物が重いからな」
「じゃあ、少し持つよ」
お父さんは僕を見て、荷物を見た。空のボトルとコップを渡してくれた。
それなら、持てた。
また歩き始めると、お父さんが木の葉を見上げた。
「植物は、見覚えのあるものも多いな」
「分かるの?」
「全部じゃない。分からないものは、触ったり食べたりするなよ」
「知ってるのだけ?」
「知ってると思っても、勝手には食べるな」
僕は、手を伸ばしかけていた葉っぱから指を引っ込めた。
お父さんは笑って、それから葉の裏を覗いた。何か考えているときの顔だった。
昨日、車の中で話していたときとも違う。
机の上の本ではなく、目の前のものを、面白がっていた。
僕も見上げる。
葉っぱの重なりの間に空がある。木の皮の溝に、小さな虫が隠れている。落ちている枝を踏むと、思っていたより大きな音がする。
知らないものが、近かった。
そのとき、斜面の上で、何かが動いた。
「お父さん」
僕は声を小さくした。
草の向こうに、長い耳が二本、突き出していた。
「あれ、鹿?」
「……兎だよ」
耳の下から、丸い体が現れた。
僕の知っている兎より、ずっと大きく見えた。こっちを見下ろして、鼻を動かしている。
撫でてみたい、と思った。
それから、お腹が鳴った。
お父さんが、ゆっくりナイフに手をかけた。
「あれを獲れたら……」
声が、本気だった。
僕はコップを持つ手に力を入れ、兎を見た。
今日のご飯が、こちらを見ていた。




