第2話 私は神である
第2話 私は神である
車から離れすぎないようにしながら、私は草地を歩き回った。
スマホのライトを向ける。照らされるのは、草、土、木の根。それから、私がつけたばかりの足跡だった。
事故を起こした。
まずは、そう考えるしかない。
だが、道から滑り落ちたにしては車が綺麗すぎた。窓は割れていないし、車体が何かにぶつかった跡も見当たらない。
「駄目だ。どこにも道がない」
スマホには圏外と表示されている。緊急通報もつながらなかった。
さっきまで案内していた地図を開いても、今いる位置が分からない。指を動かすほど、いつもの画面が役に立たないことばかり確かめさせられた。
「お父さん」
車のそばでユキヒコが呼んだ。
「僕たち、タイムスリップしたんだよ」
「……何だって?」
「西暦二百四十年。ほら」
息子が自分のスマホを差し出す。
カレンダーの年を示す場所に、二四〇という数字があった。
私は画面を見つめ、もう一度、年の表示を見た。
「……バグだろう」
「でも」
「何か、おかしくなったんだ。さっきの衝撃で」
言いながら、そんなことで年が変わるものかとも思った。だが、千年以上も前へ来たという説明よりは、よほどましだ。
「ハンドルを切り損ねて、道から外れたんだよ」
「ガードレールは?」
「飛び越えたんじゃないか」
「車、どこも壊れてないよ」
私は息子の顔を見た。
責めている顔ではない。ただ、不思議なことを不思議なまま差し出している。
それが今は、妙に腹立たしかった。
「とにかく、暗いうちは何も分からない。車の中で待とう」
ユキヒコの肩に手を置いて、後部座席へ促す。
私は助手席の足元から土産の饅頭を出した。宿で夕飯を食べるつもりだったから、手元にある食べ物はこれくらいだ。
「お茶もある。今日はこれで我慢しよう」
「少しずつ食べた方がよくない?」
「大丈夫だ。明るくなれば、道が見つかる」
「でも、本当に昔に来てたら」
「大丈夫だから!」
車内で、自分の声が大きく響いた。
ユキヒコの手が止まる。
「……食べたら、寝よう。疲れただろ」
「うん」
私は饅頭を一つ割り、半分を渡した。息子は受け取り、包み紙の上で食べ始めた。
少しずつ、口に運んでいた。
やがてユキヒコは後部座席で横になり、背を向けた。
私は運転席を倒したが、眠れなかった。
誰かが探しに来るはずだ。予約した宿には、まだ着いていないのだから。そう思ってから、宿の人が知っているのは私の名前と電話番号くらいだと気づいた。
会社はどうなる。
連絡もせずに、私が消えたら。
後ろで、ユキヒコが身じろぎした。
私は振り返る。息子は目を閉じたまま動かなかった。寝ているのか、寝たふりなのか、分からない。
まずは朝だ。
私はそれだけを、何度も頭の中で繰り返した。
*
朝になっても、道路は現れなかった。
草地の先は崖になっていた。朝日を浴びた山が、向こうにも、その向こうにも重なっている。谷には霧が溜まり、木々の隙間で川が光っていた。
屋根が一つもない。
電柱も、電線もない。
私は景色の端から端まで目を動かした。あれほど邪魔だと思っていた人工物を、こんなに必死で探したことはなかった。
「ここは、どこなんだ……」
「だから、二百四十年なんだよ」
ユキヒコが隣に来た。
私はまた否定しかけて、言葉を止めた。
昨日、息子はこのおかしな表示を見せようとしていた。私は、まともに見てやらなかった。
「……なんで、そう思うんだ。カレンダーだけじゃないのか?」
「鹿の神様が言ったんだよ」
「神様?」
「車が白くなったとき。時の扉を開いて、冒険に連れていくって。僕の願いを叶えたって」
私には、そんな声は聞こえていなかった。
「願いって、何だ」
「お父さんと、昔の日本を冒険したいって」
息子は、少しだけ目を伏せた。
「お父さん、邪馬台国のことが知りたいって、いつも言ってたでしょ」
返事ができなかった。
昨日のボートで、私は確かに言った。行けるものなら、行ってみたいと。
だが、そんな話は、誰だってする。
月へ行きたいとか、大金持ちになりたいとか。口にした途端、本当に家族ごと放り込まれてたまるか。
「昨日の、あの光っていた鹿なのか?」
ユキヒコの顔が、ゆっくりと上がった。
「いかにも」
声が違った。
息子の口から出たのに、息子の声ではなかった。
「ユキヒコ?」
瞳が上を向く。
肩を掴もうとした、その指先が金色に照らされた。袖口から光る紋様が走り、首筋へ、頬へと広がっていく。
靴の底が、草から離れた。
「おい……!」
私は手を伸ばした。ユキヒコの体はゆっくり浮き上がり、その背後で、二本の大きな角のような光が枝分かれした。
昨日見た鹿の目が、その光の奥から私を見た。
「我が名は、時を巡る鹿の神、鹿光なり」
私は尻もちをついた。
背中の下で草が潰れた。夢なら、どうしてこんなものまで痛いのだ。
「お願いだ……夢であってくれ」
「夢ではない。私は神である」
何の助けにもならない返事が返ってきた。
「神なら、息子から出ていけ!」
「騒ぐな。この子は我の依代だ」
「より……何だって?」
「我がこの世に姿を現すための器よ」
説明されても、少しも安心できなかった。
私は立ち上がり、手が届きそうなところまで近づいた。
「ユキヒコは、無事なんだな?」
「無事だ。そなたらの願いを叶えてやったというに、礼の一つもないとは」
「私が何を願った!」
鹿光は、息子の顔で笑った。
「邪馬台国の時代に行けるなら、行ってみたい。昨日、そう答えたではないか」
喉が鳴った。
誰にも見せるつもりのなかった、心の奥の小さな場所を、指で押されたようだった。
二百四十年。
卑弥呼がいた時代。
本に載っていた人間が、どこかで息をしているかもしれない。
心臓が強く打った。
やめろ、と私は自分に言った。今、喜ぶな。
「分かるぞ。そなたの胸が高鳴っておる」
「そんなことは、どうでもいい!」
「どうでもよいものか。親子よ。思うがままに生き、知りたかった謎を解き明かすがよい」
「困るんだよ! 会社もある。こいつには学校も、祖父母もいる!」
鹿光は、まるで聞き慣れない小石の名前でも並べられたような顔をした。
「そのような小さな営みに、この子を留める必要はない」
金色の光の中で、ユキヒコの足が揺れる。
「そなたの息子は、王の器なのだから」
私は声を失った。
王。
この、昨日までゲームをしていた子供が。
「ユキヒコはいずれ王となり、国を作る。そなたは、この子を導き、育てるがよい」
「普通の子供だぞ」
「そなたが、この子の何を知っておる?」
即座に言い返そうとした。
私の息子だ。十歳で、ゲームが好きで、それから――。
泳げないことを、昨日初めて知った。
口を開けたまま、何も出てこなかった。
鹿光が、ゆっくり首を傾ける。
「ほれ。答えられぬ」
「……知ってるかどうかと、こんな山で生きられるかは、別だろう」
私は息子の細い手首を見た。
「この体で、何ができるんだ」
「ふむ。それもそうだな」
神は、初めてそのことを思いついたように、自分の腕を見た。
「我の依代としても、まだ細く弱い。まずは我の力なしで、この地でひと月、生きてみよ」
「は?」
「話は、それからだ」
光がほどけた。
私は落ちてくるユキヒコを抱きとめ、膝をついた。その頭の上を、鹿の形をした光が浮かび上がっていく。
「待て! 帰してくれ! 私たちを、元の時代に!」
「それは叶わぬ」
鹿光は振り返らなかった。
「時を越えたとき、世界は分かれ、新たに生まれた。そなたらは、この世界で生きるほかない」
「ここに置いていかれたら、死ぬかもしれないんだぞ!」
「ならば、それもまた運命よ」
光が、朝の空に薄れていった。
「健闘を祈る」
私は返す言葉を探したが、相手はもういなかった。
腕の中で、ユキヒコの胸が小さく上下している。
ひと月。
荷物の中には、昨日の饅頭が、あと少し残っているだけだった。




