岩魚と古代人
第四話「岩魚と古代人」
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目の前に、ウサギがいた。
手にはキッチンナイフ。距離は三メートルほど。
(どうする!? なんとか狩れないか)
ウサギはこちらをじっと見ている。私もじっと見ている。
膠着状態だった。
ナイフを持つ手に、じわりと汗が滲んだ。
考えろ。弥生時代の狩猟技術。石鏃を使った弓矢。落とし穴。追い込み猟——
どれも今すぐ実践できるものではなかった。
ウサギが、ぴょんと跳ねた。
あっという間に草むらに消えていく。
「やっぱ無理か」
私は肩を落とした。
「やっぱり我々に狩りなんか無理だな」
その一部始終を、タカシは知らなかった。
彼が考え込んでいる真後ろで、槍を構えた大柄な男がいたことを。
男の槍の切っ先が、タカシの後頭部に向けられていたことを。
そして小柄な少女が、無言でその男の腕をそっと押さえたことも。
少女は首を横に振った。
男たちは無言でうなずき、音もなく木々の間に消えていった。
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山を歩きながら、私は考え続けていた。
(季節は5月。せめて秋なら木の実が豊富に取れたのに)
(俺とユキヒコが生きていける食料を、どうやって調達したら……)
「お父さん! あれ、水の音じゃない?」
ユキヒコが足を止めた。
耳を澄ますと、確かに聞こえる。沢の音だ。
「本当だ。沢があるみたいだぞ」
二人で斜面を降りていった。
(そうだ! 沢にはもしかして——)
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沢に出た。
透明な水が、岩の間を勢いよく流れている。
「すごい綺麗な水!」
ユキヒコが目を輝かせた。
「飲んでいい?」
私は少し考えた。
「いや……」
少し時間が経って、焚き火の上に小鍋がかかっていた。
「念のために煮沸消毒してから飲もう」
石の上に置いたコップにお湯を注ぐ。ユキヒコが口を尖らせた。
「冷たい方がいいのに」
「もし沢の上流に動物の死体や糞があって、食中毒になったら大変だよ。この時代に医者はいないんだ」
ユキヒコが渋々うなずいた。
その時、私は気づいた。
水面の下、岩の陰に、細長い影が揺れている。
(!!)
私はズボンをまくり上げながら立ち上がった。
「見とけよ!」
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冷たい水に足を踏み入れた。
岩の下に、そっと手を差し込む。
ゆっくりと。ゆっくりと。
指先に、ぬるりとした感触があった。
(!)
「それっ!」
勢いよく手を引き抜いた。
銀色の魚体が、宙を舞った。
河原に落ちた魚が、ぴちぴちと跳ねている。
**【イワナ——古くから日本列島に生息する淡水魚】**
「すごい! なんでそんなことができるの!」
ユキヒコが目を丸くした。
「お父さんが大学で考古学専攻だったんだ。よく山の中で何日もフィールドワークをして覚えたんだよ」
「へー、知らなかった」
そうだろう。お前のことを知らないのは、俺だけじゃない。
その後、二時間かけて八匹の岩魚を獲った。
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焚き火の上で、岩魚がじりじりと焼けていた。
脂が滴り、香ばしい匂いが漂ってくる。
「もう食べていいぞ」
焼きたての岩魚をユキヒコに渡した。
「僕、お腹ぺこぺこだよ」
「俺もだ」
(やばい、空腹で倒れそうだ)
自分の岩魚を手に取った。
朝から何も食べていない。煮沸したお湯だけで半日歩き回っていた。
「いただきます」
口に運ぼうとした、その瞬間。
ヒュッ、と風を切る音がした。
矢が、岩魚を貫いた。
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「あれ?」
ユキヒコが首をかしげた。
「!?」
私は地面に突き刺さった矢を見た。
岩魚が串刺しになって、地面に刺さっている。
顔を上げた。
少し離れたところに、三人が立っていた。
大柄な男が二人。そして中央に、動物の仮面をつけた小柄な少女。
朝、森の中で見たあのウサギの近くにいた——いや、違う。私はずっと気づいていなかっただけだ。
大柄な男の一人が、歩み寄ってきた。
「キサンラ ナニモンジャットカ!」
「!!」
もう一人が続いた。
「ヤマノカミサントコデ ウオコロシチョットカ!」
(古代人!? 何を言っているかわからない!)
少女が静かに言った。
「コノヒトラ、ヘンナカッコシチョルガ」
(いや——待て)
私の頭の中で、何かが引っかかった。
(もしかして……宮崎弁!? 親父が喋っている言葉に似てるぞ!?)
「ドウジャ コイツラバ ニエニシタラ?」
男が言った。
もう一人が槍を手に取りながら目を輝かせた。
「ニエ! ニエ!」
(ニエ!?……生贄のことか!?)
「待ってくれ! 俺たちは——」
ズブッ。
槍の切っ先が、私の首元に突きつけられた。
「ひいいいいいい」
「やめてよ!」
ユキヒコが前に出た。
「僕たちは神に連れられて、この場所にやってきたんだよ!」
男たちが動きを止めた。
「これが神の力だ!」
ユキヒコがスマートフォンを高く掲げ、画面を最大輝度で光らせた。
眩しい白い光が、森の中に広がった。
男たちが顔を覆い、後退した。
少女だけが、その光を正面から見つめていた。
仮面の奥の目が、細くなった。
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第四話 了




