第27話 海が燃えた日の話
第27話 海が燃えた日の話
ユキヒコは、朝飯を食べ終えるとすぐ弓を持った。
家の外で、ドグリとマグリの声がした。
「行ってくる」
「転ぶなよ」
「分かってる」
息子は入口をくぐり、二人へ挨拶した。
私は空になった器を寄せた。
昨夜、二人でこの家へ寝転んだときは、屋根の裏ばかり見ていた。朝になれば、飯を食い、片づけ、仕事へ出る。
初めての家で始まった生活は、そういうところから形になっていった。
私はスマホを持ち、アシカビの家へ向かった。
語り部になった。
しかし、語るべきこの村の話を、まだ私は知らなかった。
「一族の歴史と、今の事情を教えてほしい」
私が頼むと、アシカビは頷いた。
「ならば、詳しい者に聞くのがよい」
紹介されたのは、二人の女性だった。
「ユクノやっちゃ」
「サナです」
どちらも、私とそう大きく年が離れているようには見えなかった。アシカビによれば四十いくつだという。
彼が年寄りと呼ぶと、二人は当然のような顔をした。
この村で誰が年寄りかを、私が訂正して回っても仕方がない。
私は座り、頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「そんなに固くならんでもよか」
「七日もあれば、だいたい話せるじゃろ」
「……七日」
私は笑顔のまま、聞き返した。
二人も笑顔だった。
冗談かどうかは、そのあと、話し始めてすぐに分かった。
*
話は、あちらこちらへ飛んだ。
誰がどこの家に生まれたか。誰の子が誰に似たか。畑のこと。昔、誰が誰を好きだったか。
一人が話しているあいだに、もう一人が思い出す。
「それは、その前じゃなかったか」
「いや、そのあとよ。ほら、あの年は――」
聞き慣れない名前が増えていく。
私は何度か口を挟み、続柄を尋ねた。
ドグリやマグリの名が出ると、やっと知っている道へ戻ってきたような気がした。
そこからまた、別の名へ進んでいく。
初めは、何から書き留めればいいかばかり考えていた。
年表にできる出来事。長が代わった時期。戦の名前。
しかし、二人が覚えているのは、それだけではなかった。
誰が帰ってきた日か。誰の子が小さかったころか。
人の暮らしの中に、出来事が置かれていた。
私はスマホの録音を始めた。
全部覚える自信はなかった。まずは、話された言葉を残したかった。
画面の上で、二人の声に合わせて小さな線が動いた。
「もっと古い話も、聞かせてもらえますか。お二人が生まれる前の」
ユクノが、サナを見た。
「なら、あれからじゃね」
「海の話」
二人の話す速さが、少し変わった。
「むかしな。海が燃えて、山が割れて、空が真っ暗になったげな」
私は顔を上げた。
「灰が降って、何もかも埋もれた。森も、家もな」
さっきまでの、近所の話と同じ声だった。
だが、目の前の家の中へ、別の景色が入り込んできた。
火。灰。昼なのに暗い空。
私は途中で遮らず、聞いた。
「……それは、いつのことです?」
「分からんよ」
「うちらが生まれる、ずっと前のことじゃ」
私は頷いた。
頭の中に、一つの噴火の名が浮かんでいた。
鬼界アカホヤ。
九州の南の海で起きた、巨大な噴火だった。
私たちの時代から見ても、七千年以上前。今、ここから数えても、五千年以上さかのぼる話になるはずだ。
この伝承が、その噴火を伝えているのかもしれない。
そう考えると、背筋が伸びた。
ただし、それを確かめられたわけではない。名前を言って、私の知る話へ続きを引っ張ってしまいたくはなかった。
「そんな中で、皆さんの先祖は、どうしたんです?」
「逃げたらしいとよ」
ユクノが、入口の明るい方へ顔を向けた。
「東へ」
「東に、大きな国があったとかねえ」
私は録音中の画面を見た。
たった今、二人が話した声が、そこへ残っていく。
この道具が来る前には、人の口から、人の耳へ渡ってきたのだ。
それが何年、何代、どんなふうに変わりながら続いたのか、今の私には分からなかった。
だが、二人は覚えていた。
先祖が、海の燃えた故郷から逃げたという話を。
「……もう一度、最初から聞かせてもらえますか」
私が言うと、ユクノは少し嬉しそうにした。
「七日で終わらんかもしれんね」
今度は、私も本気で頷いた。
*
話の続きは、川で聞くことになった。
二人には洗濯があった。
私の勉強のために、一日、座っていてもらえるわけではない。
私は運ぶものを分けてもらい、川辺までついていった。
水へ布を浸し、二人は話し続けた。
さっきまで海が燃えた話をしていたのに、今度は、干す場所の話になった。
私はそれも聞いていた。
昨日、自分の家の屋根を作ったばかりだ。雨の当たり方や、風の抜ける場所が、今は前より気になった。
「ところで、タカシさんは、嫁を取らんと?」
サナが言った。
私は手元の布を落としかけた。
「いや。私には、亡くなった家内がいますので」
「それは、聞いちょる」
ユクノが、水を絞りながら答えた。
「うちも旦那を二人、先に送ったとよ」
「うちは、三度じゃ」
私は二人の顔を見た。
さっきと変わらない調子だった。
何と返せばよいのか迷い、それから、聞いた。
「病気ですか。それとも、事故で」
「戦よ」
水が、布から落ちた。
「男衆は、よう死ぬが」
私は黙った。
ユクノが布を広げ直す。
「三年前のクマソとの戦は、きつかったねえ」
「男手が、ずいぶん減ったっちゃ」
家を作った日の、息子の声を思い出した。
この村は女の人が多い。
私は、奥さんを何人も持つ男がいるという話の方を考えていた。
いない男のことを、考えていなかった。
海が燃えたのは、はるか昔だった。
だが、この二人の夫がいなくなった日は、二人がまだ覚えている。
今、目の前で布を絞る手は、そのあとも毎日、動いてきた手なのだった。
*
川向こうにも、洗濯をしている人々がいた。
声が、こちらほど聞こえなかった。
その後ろに、槍を持つ男が立っていた。少し離れたところにも、もう一人いる。
水へ入る女たちを、見ていた。
「……あれは」
「ナガツの方の者たちじゃ」
ユクノが答えた。
サナが、少し声を落とした。
「出ていくと言うなら、早う行けばよかとに」
私は男たちを見た。
獣を見張っているのではなさそうだった。二人の目は、森ではなく、水辺の女たちに向いていた。
私は尋ねた。
「ナガツには、何があったんです?」
二人の手が、少し遅くなった。
「クマソとの戦で、家族が死んだとよ」
サナが言った。
「あれから、人が変わってしもうた」
ユクノが頷いた。
「昔は、アシカビとカヤ、それにナガツと、妹のサヤ。四人で、よう一緒におったがね」
サヤ。
私は、その名を口の中で繰り返した。
カヤ姫のそばに、その少女はいなかった。
ナガツが口にした、三年前。
今ようやく、その言葉の中に、顔を知らない誰かがいることを知った。
川向こうで、女の一人が顔を上げた。
後ろの男が何か言った。
女は、すぐ布へ目を戻した。
私は、それを見ていた。
ナガツの失ったものを知ったからといって、目の前の光景が違うものになるわけではなかった。
聞いておかなければならないことが、まだあった。
伝えなければならないことも、ある。
私は洗濯物を持ち上げた。
村へ戻ったら、アシカビに話そう。
語り部の最初の仕事は、昔の話を聞くだけでは、終わりそうになかった。




