第28話 それぞれの役目
第28話 それぞれの役目
「女たちが、川を泳いで逃げぬようにしているのだろう」
私の話を聞いて、アシカビは言った。
隣に座っていたカヤ姫が、膝の上へ目を落とした。
私は川向こうの光景を思い出した。洗濯する女たちと、その背後で槍を持っていた男たち。
「家族を、見張っているのか」
「ナガツは、女房や子供まで奴婢のように使う」
奴婢。
言葉は知っていた。
人に所有され、使われる人間。その意味を、知識としてしか持っていなかった。
「ミタイにも、そういう者がいるのか」
「いや。奴婢を使うのは、米を作る者たちだ。人手が要るのでな」
アシカビは、そう答えた。
私は、米の入った器を前に喜んでいた息子の顔を思い出した。
あの食べ物がどう作られ、誰の手でここへ来たか。私はまだ、途中を見たことがなかった。
「ナガツたちは、本当に出ていく支度をしているようだ」
「覚悟はできておる」
アシカビは短く言った。
私は何か言いかけたが、口を閉じた。
それぞれの家族をどう扱っているかまで、来て間もない私が一度話しただけで変えられるわけではない。
だからといって、何も言わずに送り出してよいとも思えなかった。
「……カヤ。占いはどうだ」
アシカビが妹へ顔を向けた。
カヤ姫の前には、貝殻や、ひびの入った亀の甲が並んでいた。
彼女は一つを見つめ、口を開いた。
「東に、よくない兆しがある。備えよ、と」
私は彼女の指先を見た。
ひびは見える。
そこに何を読み取ったのかは、分からない。
しかし、鹿の神に時を越えさせられた私が、占いなどと言って笑うことはできなかった。
「東の国か。戦の備えも、考えねばならんな」
アシカビが言った。
私は傷の治った腕へ手を置いた。
「……私も、弓を練習した方がいいだろうか」
「案ずるな。ミタイは、一度も落ちたことがない」
静かな声だった。
柱を一緒に押した男の腕を、私は見た。
その腕で、この土地を守ってきたのだろう。
頼もしいと思う自分と、また頼るのかと思う自分がいた。
*
「兄様。山へ入りたい」
カヤ姫が言った。
「この先のことを、もう少し知りたいっちゃ」
「分かった。ドグリとマグリをつけよう」
「ユキヒコにも、頼みたい」
私は顔を上げた。
「ユキヒコに?」
「狩りの腕が、よう上がった。山も、ちゃんと歩けるようになったし」
私は、返事を考えた。
この村へ来てから、まだ何日も経っていない。
だが、その前には、森を歩いた日々があった。私が寝ているあいだ、息子が一人で水を運んだ日もある。
最近のユキヒコを見ていれば、変わったことは分かる。
それでも、守る側として連れていくと言われると、喉が詰まった。
「二人も、一緒に行くんだな」
「もちろんじゃ」
カヤ姫は、まっすぐ私を見た。
面白半分に、遊び相手を呼んでいる顔ではなかった。
私は頷いた。
「……本人にも、聞いてくれ」
そう言いながら、返事はもう分かっていた。
*
出立の前、ユキヒコが新しい衣を着て現れた。
丈が体に合っていた。袖も、手元の邪魔にならない長さになっている。
息子は少し照れながら、両腕を広げた。
「どう?」
「立派な格好じゃないか」
「ドグリとユクノさんが、用意してくれたんだ」
私は二人へ頭を下げた。
ユクノは手を振り、息子の裾をもう一度直した。
「新しい守人が行くんじゃ。これくらいは、せんとね」
「守人……」
口にしてみた。
十歳の子供へ、少し大きすぎる名のように思えた。
息子はその名を、嬉しそうに聞いていた。
「心配せんでよか。ワシらもおる」
ドグリが言った。
「行くところは、獣も寄りつかん場所じゃ」
彼の言い方には、何度もそこへ行った人間の確かさがあった。
私はもう一度、息子を見た。
「自分で、行きたいんだな」
「うん。カヤ姫を守る」
返事はすぐだった。
私は、揃えた道具へ目を向けた。槍がある。弓もある。全部を持つと、その体にはまだ少し大きく見えた。
「分からないことがあったら、二人に聞くんだぞ」
「分かってる」
「先へ行きすぎるな。あと――」
「タカシ」
マグリが笑った。
「着く前に、日が暮れるっちゃ」
私は口を閉じた。
ユキヒコまで笑っていた。
言っておきたいことは、まだあった。だが、私の心配を全部聞かせても、息子の足が速くなるわけではない。
「頑張ってこい」
「うん!」
私は肩へ手を置き、それから離した。
ユキヒコはカヤ姫の方へ歩き、二人の護衛と共に山道へ入っていった。
小さな背中が、木々の間で見えなくなる。
私はしばらく立っていた。
前の世界では、私が仕事へ行き、息子を置いてきた。
今日は息子が役目へ向かい、私が見送った。
家へ戻ろう。
私にも、やることがあった。
*
木の皮を削るだけで、思っていたより時間がかかった。
平らにしたつもりでも、刃先が繊維へ引っかかる。強く押せば、文字を書く面まで欠けそうだった。
私は小さく息を吐き、持つ角度を変えた。
村の人へ文字を教えるために、五十音の手本を作っていた。
祭りで土に書いた字では、人が踏めば消えてしまう。
何度も見られる形で残したい。そう思って始めたが、字を書く前の支度から、なかなか進まなかった。
家を作ったときの木片はある。
表札にしたようなものなら、短い言葉は刻める。だが、皆へ配れるだけの、広く平らな板が揃っているわけではなかった。
紙が一枚あれば。
そう思い、私は自分で少し笑った。
穴掘りのときは、鉄のスコップが欲しかった。今日欲しいのは、紙だった。
手元にないものの名前だけは、いくらでも出てくる。
私は木の皮へ目を戻した。
まずは、これで作ろう。
音を一つずつ確かめ、場所を決めた。
途中で手が止まる。これを初めて見る人には、どこから読めばよいかも分からないのだった。
私は置き方を変え、もう一度、最初から見た。
使える手本を作る。
それは、文字を知っていることとは、別の仕事だった。
家の中が暗くなってきた。
私は肩を回し、ナイフを置いた。
床には木屑が落ちている。指にも汗と細かな屑が貼りついていた。
これをユキヒコが見たら、また何を言うだろう。
私は手を払った。
先に、水を浴びてこよう。
*
川の水は、冷たかった。
服を脱いで入ると、仕事で熱くなった体が、少しずつ落ち着いた。
浅いところに立ち、腕へ水をかける。
猿に噛まれた痕が見えた。
カヤ姫たちに助けられ、家まで作ってもらった。私はそれを、これから返していくつもりだった。
水の音の向こうで、何かが動いた。
人が来たのだと思った。
川から上がり、石の上に置いた服へ手を伸ばした。
刃が、目の前へ出た。
私は動きを止めた。
男が二人いた。
顔を見たことがあった。ナガツの後ろに、立っていた男たちだった。
「……何の用だ」
返事をしたのは、二人ではなかった。
「今宵、彼らは村を発ちます」
ネリが歩いてきた。
顔色は戻っていた。あの夜のように、手も震えていない。
私は服へ目を動かした。
「そうか。それは……出る前に、もう一度、話をする機会はないだろうか」
「ありますよ」
ネリが笑った。
男の手が、私の腕を掴んだ。
反対側も掴まれる。体を捩ろうとしたが、足元が滑り、膝が落ちた。
「何をする」
ネリは石の上へ手を伸ばした。
私の服から、スマホを取り出した。
黒い画面をこちらへ向け、それから自分の懐へ入れた。
私の手には、何もなかった。
「あなたとは、光の都で、じっくり話しましょう」
腕を引かれた。
家の方へ振り向こうとしても、男の肩で見えなかった。
ユキヒコは、山だ。
「あなたも来るのですよ、タカシ殿」
ネリは、初めて会ったときと同じ、丁寧な声で言った。
「奴婢としてね




