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第24話 生きるための勉強

第24話 生きるための勉強


 暗闇の中で、ネリは走った。

 足元も、前も後ろも見えない。走っているはずなのに、何も近づいてこなかった。

 突然、額が何かにぶつかった。

 見えない壁だった。

 両手をつき、横へ動く。どこへ行っても、壁があった。


「誰か!」


 返事はない。

 自分の声だけが、狭いところへ跳ね返ってきた。

 ネリは拳を打ちつけた。

 男に見せられた鏡を思い出した。中にいた自分は、動かなかった。ここから手を振れば、あの男には見えるのだろうか。


「ここから出せ!」


 声を上げたまま、ネリは目を開いた。

 屋根が見えた。

 人の顔があった。


「ネリ様。お気づきになりましたか」


 ナガツが覗き込んでいた。

 ネリは自分の手を見た。指を握り、開く。それから、寝床の端へ手を伸ばした。

 見えない壁はなかった。


「ここは……」

「村です。高い熱で、ずっとうなされておられました。ですが、もう下がってきたようで」


 ネリは息を整えた。

 何があったのか聞き、ナガツの話を最後まで黙って聞いた。


「……あの男が、魂を戻したと」

「はい。私が剣を抜き、解かせたのです。ご安心ください」


 ナガツは胸を張った。


「もう、このような村に未練はありません。どうか我らを、光の都へ」


 ネリは答えなかった。

 膝の上で、もう一度、自分の指を握った。

 あの男の持つ鏡の中では、まだ自分の姿が残っているのだろうか。

 ネリは、目を閉じられなかった。


     *


「目を覚ましたか」


 アシカビの言葉を聞いて、私はようやく肩を下ろした。

 報せに来た男が頷いた。


「はい。ナガツたちは、予定通り村を出ると」

「分かった。ご苦労」


 男が出ていく。

 家の中には、アシカビとカヤ姫、それから私たち父子が残った。


「……これで、ひとまず殺し合いにはならずに済むな」

「ああ」


 私は膝へ置いた両手を見た。

 何も知らずに写真を撮り、そのせいだと言われた熱が、写真から人を消したあとに下がった。

 私はやはり、恐怖が体へ出たのではないかと思った。

 そう考えれば、気が楽だった。

 だが、ネリの体に何が起きたかを確かめたわけではない。そのことを、安心した拍子に忘れそうになっていた。


「すまなかった」


 私は頭を下げた。


「せっかく迎えてもらった日に、こんなことになって。私たちが来なければ、村も……」

「タカシ」


 アシカビが遮った。


「我らは、もう限界だったのだ」


 顔を上げる。

 アシカビは、開いた入口の方を見ていた。


「お主が来る前からな」


 私は、それ以上言えなかった。

 自分が来たから村が割れたと思うのも、私が一人で何とかできたはずだと思うのも、結局、彼らのそれまでを見ていないのかもしれない。

 この男は、ずっとここで暮らしてきた。

 私は昨日、初めて来た。


「代わりに、お主らが加わった」


 アシカビが、こちらを向いた。


「これから村へ尽くしてくれればよい」

「……二人しかいないが」

「人数だけではなかろう。お主らの持つものは」


 隣で、ユキヒコが少し背筋を伸ばした。

 アシカビは息子にも目を向けた。


「まずは、あの文字を教えてくれ。祭りで書いてみた者たちが、また教われるのかと聞いておった」


 私は頷いた。

 昨夜、地面を囲んでいた顔を思い出す。あのときは、書いてみたいと言われるままに書いた。

 これからは、私がいなくても使えるようにする仕事だ。


「やろう。名前の続きから」

「お父さん、先生になるんだね」


 ユキヒコが言った。

 私は息子を見た。


「お前もだぞ」

「僕も?」

「昨日、カヤ姫に教えてたじゃないか。文字も、算数も、お前が知ってることは、この村ではまだ知られていない」


 息子が、カヤ姫を見た。

 彼女は嬉しそうに頷いたが、ユキヒコは少し困った顔をした。


「でも、僕は狩りの方が楽しいな」

「狩りもやればいい。だが、勉強もしろ」


 言い慣れた言葉だった。

 口から出てから、私自身が、その続きを考え直した。


「生きるために」


 ユキヒコが私を見た。

 学校の成績や、将来の会社の話ではないことは、伝わったようだった。


     *


 前の世界で、私は息子へ何を教えたかったのだろう。

 いい学校へ行けば、その先の選択が増える。勉強しておいた方が、困らない。

 それは間違いではなかったはずだ。

 だが、その言葉を口にしている私自身が、息子の隣で教科書を開くことは、あまりなかった。


「何を、教えればいいのかな」


 ユキヒコが、自分の手を見ていた。


「学校みたいに、最初から?」

「最初から全部でなくていい。何が要るかを、聞くところからだ」


 言ったあとで、私はアシカビを見た。


「例えば、獲れたものや、交換するものの数を残せたら、使えるだろうか」

「使ってみねば分からぬが、覚え違いを減らせるなら、助かろう」

「何か頼むとき、相手がその場にいなくても、伝えられるようにもなる」


 カヤ姫が顔を上げた。


「書いたものを渡せば、代わりに言うてくれるんか」

「そう。ただし、受け取る人も読めないと駄目だ」


 ユキヒコが口を挟んだ。

 私は息子を見た。昨日、初めて教える側になった子供が、今日はもう、その先の相手を考えていた。


「だから、一人だけ覚えても仕方ないんだね」

「ああ。皆で使えるようにならないとな」


 頭の中で、必要なものが増えていった。

 文字を書く場所。何度でも見直せる手本。仕事のある人を、いつ集められるか。

 紙も鉛筆もない。

 知っていることを話せば終わると思っていた仕事が、手を動かさなければ始まらないものへ変わっていく。

 私は、久しぶりに仕事の段取りを考えていた。

 それが楽しかった。


「お父さんも、狩りの勉強すれば?」


 ユキヒコが言った。

 カヤ姫が口元を押さえる。アシカビは隠さず笑った。


「……それは、もうしてるんだ」

「じゃあ、お互いだね」


 私は笑うしかなかった。

 この時代に来てから、私が一度に教わることの方が、はるかに多い。

 王の器。

 鹿光は息子をそう呼んだが、私はまだ、どう育てればよいか知らなかった。

 少なくとも、目の前の子供が何をできるようになったかは、今度こそ、そばで見ていたかった。


     *


「そういえば、タカシ」


 アシカビが言った。


「お主らにも、家を用意せねばならんな」

「……家?」


 私は、思わず聞き返した。

 新しい道具なら、次は何が足りないか考えられた。

 しかし、家は頭になかった。

 眠る場所なら車がある。この村では、アシカビの家の端を借りればよい。まだ、そのくらいに考えていた。


「我らの語り部が、いつまでも居候では格好がつくまい」


 ユキヒコが私を見た。

 私も息子を見た。

 お前、家が要るか。

 そんなことを尋ねる必要はなかった。


「おーい、タカシ!」


 外で、ドグリが呼んだ。

 出てみると、木材を持った男たちがいた。石斧を提げた者も、太い縄を肩へかけた者もいる。

 マグリが、にこにこしていた。


「タカシとユキヒコの家を、作るっちゃよ」


 息子が入口から飛び出した。


「本当に? 僕たちの?」

「ああ。二人の家じゃ」


 ユキヒコは木材へ触れた。

 私は、その手の隣へ自分の手を置いた。

 木の皮が、掌にざらついた。

 まだ屋根でも壁でもない。ただの木だ。それが私たちの家になる。


 村を去ると決めた人々は、今も向こうの家々にいる。

 その一方で、この男たちは、私たちのために木を担いできた。

 私は袖をまくった。


「……私にも、やらせてくれ」


 何ができるかは、まだ分からない。

 だが、自分と息子の家だった。

 見ているだけで、出来上がるのを待ちたくはなかった。

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