第23話 鏡から消えた男
第23話 鏡から消えた男
ネリの口から、蛇が出てきた。
一匹ではなかった。首へ、腕へ、腹へ巻きついてくる。声を出そうとすると、口の中にまで冷たいものが触れた。
「何を恐れる」
声が響いた。
蛇が消えていた。
目の前に、大きな鹿が立っていた。角の先から、金色の光が落ちている。
「ユキヒコの目覚めは近い。お主は、王を導く語り部なのだぞ」
私は何か尋ねようとした。
目が開いた。
見えたのは、木の骨組みと屋根の裏だった。
車ではない。アシカビの家だ。
隣でユキヒコが身を起こした。
「お父さん。大丈夫?」
「……ああ」
「昨日、アシカビさんに背負われて帰ってきたよ。そんなに飲んだの?」
私は額へ手を当てた。
汗で濡れていた。頭も痛い。
「すまん。酒は、当分控える」
息子が頷いた。
少し離れたところで、アシカビがこちらを見ていた。昨夜、私の足が動かなくなった理由を、彼は話していないらしかった。
私は目で礼を言い、起き上がった。
「昨日は、迷惑をかけた。それで、これからのことだが」
外から怒鳴り声がした。
「アシカビ! よそ者を出せ!」
ユキヒコの肩が跳ねた。
アシカビは腰へ手をやり、立ち上がった。
「ナガツだ。……決着をつけよう」
*
朝の光の下に、槍を持つ男たちが並んでいた。
昨夜もいた顔がある。私はその足元を見そうになり、顔を上げた。
ナガツが剣を持っていた。
「一族を抜けると言ったな。今さら、二言はないな」
「あるものか。こんな村に未練はない」
ナガツは、アシカビではなく私を指した。
剣で、だった。
「ただし、こいつは別だ。よくもネリ様を呪ったな」
私は一瞬、何のことか分からなかった。
「魂を奪われたネリ様は、高い熱を出し、うなされておる。何かあれば、貴様一人の命では済まさぬぞ」
スマホが、懐の中で重くなった気がした。
写真だ。
あれを撮ったことで、病気になったと言っている。
「待ってくれ。あれは、ただ――」
「言いがかりだ」
アシカビが一歩前へ出た。
「タカシは気にせずともよい。こいつらは、出ていく者だ」
「何だと」
「仲間殺しの掟を破ったのはお前だ。本来なら、命で償うべきところを」
その声に、私は横を向いた。
昨夜、私を背負った男と同じ顔だった。だが、目が違った。
ナガツの首筋が赤くなった。
「お前こそ、三年前を忘れたか。俺の家族を、見殺しにしたことを!」
「……あれは戦だ。どうしようもなかった」
「我らに強い神と王がいなかったからだ。アマテラス様がおられれば、クマソごときに!」
「我らには、我らの神がおる」
後ろで足音がした。
ドグリとマグリが来ていた。ほかの男たちも、槍や弓を持って集まってくる。
ナガツの側の男が握りを変えた。こちらの誰かが、槍を前へ傾けた。
家の入口から、人々が顔を出していた。
こんなに近くに、朝飯の匂いまでしているところで。
「待ってくれ!」
私は両者の間へ声を投げた。
「殺し合いはやめてくれ。戦争だけは、絶対に避けなければならない!」
アシカビが私を見た。
ナガツも見た。
私は三年前のことを知らない。昨夜死んだヨシという男のことさえ、名前以外は何も知らない。
その私が、やめろと言っただけで、皆の腕が下がるはずはなかった。
私はスマホを取り出した。
画面を開く指が、少し汗ばんでいた。
「ネリ殿の魂というのは……これのことか」
写真を見せた。
男たちの顔が変わった。
ナガツが、半歩下がった。
*
画面には、昨夜のネリがいた。
私へ何か言おうとした顔だった。今にも口が動きそうに見える。
その人間が今、どこかの家で熱にうなされている。
私は、その様子を見てさえいなかった。
強い恐怖や思い込みが、体へ出ることはあるのかもしれない。写真の仕組みを知らず、魂を取られたと信じ込んでしまったのなら。
私はそう考えたかった。
ほかの病気かもしれない、という考えも浮かんだが、確かめる手立てはなかった。
「今から、解放する」
ナガツの目が、私の指へ向いた。
「できるのか」
「できる」
「タカシ。そんな必要はない」
アシカビの声だった。
「こいつらは、もう――」
「それでも、ここで人が死ぬのは嫌なんだ」
私は言った。
自分が傷つけたわけではない死体を見ただけで、足が動かなくなった。アシカビが立ってくれなければ、そこから帰れもしなかった。
それでも、この場で使えるものが、私には一つあった。
写真の編集画面を出す。
人物を消し、その後ろにあるはずの景色を補う、クリーンアップの機能だった。
使い方は知っていた。
写真の邪魔なものを消すだけの、小さな便利機能だと思っていた。
「見ていてくれ」
ネリの姿を、指で囲む。
なかなか線が思ったところへ行かず、私は息を止めた。こんなところで操作を間違えたら、何と言えばいい。
輪郭をなぞり終え、画面を見る。
ネリが消えた。
白い衣も、顔もなくなり、そこには暗い木々と地面が続いていた。
誰かが、息を呑んだ。
私は端末を、もう少し前へ出した。
「これで、鏡から抜け出した」
ナガツは動かなかった。
画面を睨み、左右へ少し顔を動かした。隠れた男を探しているようだった。
「……本当に、戻したのだな」
「ああ。ネリ殿にも、そう伝えてくれ。熱も、いずれ下がるだろう」
自分の口から出た言葉を、私は聞いていた。
写真の男を消す方法は知っている。
目を覚まさせる方法を、知っているわけではない。
しかし、今さら弱い言葉へ引き戻せなかった。
私は頭を下げた。
「頼む、ナガツ。殺し合いだけは避けたい」
土の上に、自分の影があった。
その先へ、剣の影が伸びている。
私はそれが動くまで、顔を上げなかった。
「……いいだろう」
剣が下がった。
「ネリ様が回復次第、我らはこの地を離れる」
顔を上げる。
ナガツの口元には、少しも笑みがなかった。
「だが、嘘であれば。貴様ら全員、命はないと思え」
ナガツが背を向けた。
男たちが続く。一人が最後まで私の手元を見ていたが、やがて歩き去った。
こちらの槍も下がった。
握りしめられていた木の柄から、指が少しずつ離れるのが見えた。
*
アシカビは、去っていく者たちを見ていた。
私は隣へ立った。
「……余計なことをしただろうか」
彼は、しばらく答えなかった。
足元の土に、たくさんの足跡が重なっていた。誰のものか、もう分からない。
「剣は下がった」
アシカビが言った。
「今は、それでよい」
私は息を吐いた。
人が殺されずに済んだ。それは、嘘ではなかった。
だが、ヨシという男が戻るわけではない。ナガツが謝ったわけでも、三年前の恨みが消えたわけでもなかった。
私はもう一度、写真を見た。
森だけが写っていた。
その夜、同じ村で何があったのか、この一枚からは分からなかった。
端末を懐へしまう。
熱が下がってくれ。
頼むから、下がってくれ。
神の使いだと言い張った私は、誰より必死に、それを祈っていた。




