第22話 酔いが覚める時
第22話 酔いが覚める時
「語り部だと?」
ナガツの手が、私の胸ぐらを掴んだ。
酒の器が傾く。私は両手で支え、どうにか中身を守った。胸元の方を守るべきだと気づいたのは、そのあとだった。
「アシカビめ。勝手な真似を」
「ちょっと、暴力はよしましょう。私は、ご挨拶に来ただけで」
男たちが、ナガツの後ろへ集まった。
足元に筵があった。何かを包んでいるようだったが、前へ立った男の脚に隠れた。
私は顔を上げた。
「皆さんにも、いずれお世話になるでしょうし。せっかくだから、一杯」
「騒がしいですね」
火の向こうから、ネリが現れた。
私を見る。それから、ナガツたちの足元を見る。
その顔が、昼間と同じ笑みに戻った。
「おや。鹿の神の使いではありませんか」
「そうだ。あなたと話したかったんだ」
私は、ようやく目的の相手に会えた気になった。
ナガツの手から胸元を外し、ネリへ向き直る。
「高天原のことも、その教えのことも。まだ、何も聞けていませんから」
「では、川の方で涼みましょう。ここは少々、落ち着きませんので」
ネリが先に立った。
話が通じる相手でよかった。私はついていった。
さっきまで何をしていたのか、一度くらい尋ねればよかったのだが、そのときの私には、聞きたいことが別に山ほどあった。
*
広場で、ユキヒコが父の座っていた場所を覗き込んだ。
器はある。父はいない。
アシカビのそばへ行き、尋ねた。
「お父さん、どこへ行ったの?」
「ナガツたちと話すと言って、出ていきおった」
「一人で?」
「ああ。心配せんでよい。俺の客に、手を出すほど愚かではない」
ユキヒコは、暗い家並みの方を見た。
「違うんだ。お父さん、お酒を飲むと……」
言葉を選ぼうとして、やめた。
「すごく、酒癖が悪いから」
アシカビの器が止まった。
そばにいたドグリと顔を見合わせる。
「……それは、先に言うてほしかったな」
アシカビが立った。
ユキヒコもついていこうとしたが、大きな手が肩を押さえた。
「カヤのそばで待っておれ。俺が見てくる」
*
川音が近くなった。
火の明かりの届く石へ腰を下ろすと、ネリは向かいに立った。酒を勧めたが、手を出さなかった。
「それで、お話とは」
「この村のことです。あなたの教えで、人が二つに分かれようとしている。それを、何とかできませんか」
「なぜ、あなたがそれをお決めになるのです?」
言葉は丁寧だった。だが、問いはまっすぐだった。
「そもそも、あなたは何者です。あのカネを、どこから持ってこられたのか」
私は器を置いた。
昼間は、神の使いだという答えで押し通した。今は、もう一段、相手の中へ入れる気がしていた。
「未来です」
「……未来?」
「私は、この時代より二千年近く先から来た人間です」
ネリの目が細くなった。
よし、聞いている。
私は少し前へ身を乗り出した。
「私たちの時代にも、アマテラスの名は伝わっています。高天原も。ですが、そちらは神々の住む天上の世界だと言われていて」
「聖地の名を、軽々しく口にしないでいただきたい」
「失礼。しかし、あなたはそこから来たという。実際には、どんなところなんです?」
何かを教えてもらうときの、いつもの調子になっていた。
相手が口を閉ざしている理由を、説明が足りないせいだと思った。
「では、先に私の方をお見せしましょう」
スマホを取り出す。
画面が明るくなると、ネリの視線が動いた。
「これはスマートフォン。未来の道具です。はい、こっちを向いて」
「何を――」
「はい、チーズ」
音が鳴った。
私は今撮った写真を開き、画面をネリへ向けた。
火に照らされた白い衣。その上に、こちらを見据える顔が写っていた。
「ほら。すぐに残せるんです。絵師が描かなくても」
ネリが顔を近づけた。
次に、半歩下がった。
口元の笑みが消えた。私はそれを、ようやく道具の価値が伝わった反応だと思った。
「……私だ」
「ええ。今のあなたです」
ネリが、自分の頬へ手を当てた。
画面の中の顔は動かない。
彼は、もう一度、私を見た。
「何をした」
「ですから、姿を写しただけで」
「私の魂を、その鏡に……」
私は笑った。
「大丈夫ですよ。じゃあ、皆さんのも撮りましょうか」
未来の人間だと認めさせれば、同じ神の使い同士という揉め方ではなくなる。私には私の価値があると分かってもらえる。
そんな目論見はあった。
あったが、私が相手の顔をちゃんと見ていなかった理由は、それではなかった。
私は、酔っていた。
「皆さーん」
ネリを残し、焚き火の方へ戻った。
画面を見ながら歩いていたので、足元の筵に気づかなかった。
靴の下に、柔らかいものがあった。
「……ん?」
踏んではいけないものを踏んだ感触だった。
私は足を引いた。筵の端が靴に引っかかり、少しめくれた。
腕があった。
自分と同じ、人の腕だった。
スマホを下へ向ける。
青白い光の中に、男の顔が現れた。目が開いているのに、私を見なかった。
視線を下へ動かしてしまった。
胸に、あるはずのものがなかった。
「ひ……」
息が入らない。
足を引こうとして、尻から地面へ落ちた。
さっきまで胃の中にあった酒が、喉のすぐ下まで上がってきた。
「タカシ!」
声がした。
アシカビだった。
私の前へ来た彼が、足元を見た。そこで、動きが止まった。
「……ヨシか」
名前があった。
私はもう一度、その顔を見そうになって、目を逸らした。
アシカビは、ナガツへ向き直った。
「殺したのか」
「我ら一族のことだ。お前に、とやかく言われることではない」
ナガツの足が、筵の脇へ出た。
アシカビが私の腕を取り、自分の後ろへ引いた。私は立てず、膝を擦って移動した。
「ミタイの掟で、仲間殺しは許されぬ。それを知った上での言葉か」
「我らは、もうお前たちと袂を分かった」
ナガツは、川の方から戻ってきたネリを見た。
「我らはネリ様と共に行く。そうでしょう、ネリ様」
返事がなかった。
ネリは両手を胸元へ寄せ、細かく震えていた。私の手元を見ている。
スマホだった。
画面には、まだ彼の顔があった。
「……私の、魂が」
彼の目が、私へ上がった。
「許さん」
声が裏返った。
男たちが駆け寄った。ネリは彼らの手を振り払おうとし、もう一度、鏡を指した。
私は画面を消した。
何を消したつもりなのか、自分でも分からなかった。
*
「立てるか」
アシカビに言われて、私は頷いた。
膝に力を入れる。立てなかった。
彼はもう一度問いただすこともなく、私に背を向けて屈んだ。
「乗れ」
「……すまん」
肩につかまる。
私を背負っても、アシカビの足は止まらなかった。片手に持ったままのスマホが、自分の胸へ何度も当たった。
「酒では、ないんだ」
私は小さく言った。
「足が……怖くて」
「分かっておる」
アシカビは前を向いたまま答えた。
「今日は寝ろ。あとのことは、明日決める」
遠くから太鼓が聞こえた。
あの音のする方に、ユキヒコがいる。私は顔を上げたが、灯りが滲んで、よく見えなかった。
交渉事なら任せてくれ。
そう言って出てきた男が、人の背中に揺られて帰っていく。
しかし、惨めだと思う余裕さえ、すぐになくなった。
目を閉じると、筵の下の顔が見えた。
私はこの時代で初めて、人間の死体を見た。
その人間は、私が酒を飲み、息子の隣で笑っていた夜に、殺されたのだった。




