第21話 二つの焚き火
第21話 二つの焚き火
「ミタイの者たちよ」
アシカビの声で、広場の人々が振り向いた。
私はユキヒコの肩へ手を置き、その隣に立っていた。
地図を描いたときより、人が増えている。火の向こうで、こちらを見る顔がいくつも揺れた。
「この知恵ある者、タカシを、我らの語り部として迎えることにした」
ドグリが声を上げた。
マグリも続く。やがて周囲から、笑い声と歓声が返ってきた。
私は頭を下げた。少し早すぎたらしく、アシカビの話はまだ続いていた。
「タカシと、その息子ユキヒコを、今宵は存分にもてなせ」
もう一度、頭を下げた。
ユキヒコまで、私に合わせて下げる。
顔を上げたとき、息子と目が合った。
私たちは、少し笑った。
「お父さん。今度は、ここで仕事するんだね」
「ああ」
私は、いつもの調子で答えようとした。
しかし、喉の奥が少し詰まった。
役に立つことが、まだあった。
会社も、名刺も、普段着ていた上着もなくなった場所で、それでも私に、ここにいてくれと言う人間がいた。
アシカビが、こちらへ向き直った。
「俺たちの昔のことは、俺たちが教える。お主には、これからのことを一緒に考えてもらいたい」
「……もちろんだ」
私は頷いた。
知っている話を披露するだけの仕事ではなかった。分からないものを聞き、使えるものを探し、役に立つ形にする。
うまくできるかは、まだ分からない。
だが、やってみたかった。
「兄様」
カヤ姫が近づいてきた。
「今夜は、うちも踊りたい」
「うむ。存分に、もてなしてくれ」
カヤ姫の顔が明るくなった。
ユキヒコが口を開く。
「カヤ姫が踊るの?」
「見ていてほしいっちゃ」
息子が、すぐには返事をしなかった。
私は笑いそうになり、別の方を見た。
今、親父にからかわれて嬉しい年齢でもあるまい。
カヤ姫は火の前へ進み出た。
*
太鼓の音がした。
ドグリとマグリが、互いの手元を見ながら拍子を合わせている。
カヤ姫の足が動いた。
土を踏む。向きを変える。手が上がる。
火明かりを横切った顔が、さっき文字を書いていたときとは違って見えた。
私は、思い浮かべていた舞の形を、いったん捨てた。
これは、静かに眺めるだけのものではない。
踏む足へ太鼓が重なり、見ている人々の肩まで動き始める。誰かが声をかけ、別の誰かが笑った。
カヤ姫も笑った。
そこには祈りがあるのだろう。だが、楽しいという気持ちも、隠されずにあった。
天岩戸の前で舞った神の話を、私は思い出した。
何かを解説したくなって、隣を見た。
ユキヒコは、こちらを見ていなかった。
カヤ姫の動きを、初めから終わりまで、見逃すまいとしていた。
私は口を閉じた。
今は、神話の名前を教えなくてもよかった。
踊りを真似た小さな子が、隣の子とぶつかった。二人して笑い、また足を踏む。
少し前まで、私たちは暗くなると車へ逃げ込んでいた。
今夜は、火の周りに、息子を知っている人がいる。
私は背中に入っていた力を抜いた。
*
村の外れにも、火があった。
そちらの輪では、誰も踊っていなかった。
若い男が、地面に膝をついていた。男の脇に立つ二人が、交互に拳を振るっていた。
「やめい」
ナガツの声で、拳が止まった。
ナガツは男の髪を掴み、顔を上げさせた。
「アシカビの方へ行こうとしたそうだな」
「違う……ただ、祭りが楽しそうで。一目、見ようとしただけで……」
男は、切れた唇を動かした。
ナガツは返事をせず、顔を覗き込んでいた。
そこへ、ネリが近づいた。
「かわいそうに。ほんの好奇心だったのでしょう」
男の目が、声の方を向いた。
「そうです。ネリ様。信じてください」
「ええ。ですが、忘れましたか。あなたはもう、アマテラス様の使徒なのですよ」
ネリが屈んだ。
男の頬へ添えられた手とは反対の手に、短い刃があった。
「異教の神を祀る場へ、心を寄せるとは」
男が首を振った。
ネリの笑みは変わらなかった。
「すべてを、アマテラス様に捧げなさい」
声が上がった。
ナガツは、思わず顔を背けた。
やがて声が途切れても、誰も口を開かなかった。ネリの仕事が終わるまで、火の周りの男たちは立ち尽くしていた。
ネリが立ち上がった。
手の中に、奪った心臓があった。
「光の都へ誘われるのは、心清らかな者だけです」
ナガツは足元を見た。
さっきまで言い訳をしていた男が、動かなくなっていた。
地面へ広がる血を避け、一人の部下が足を引いた。ネリの目がそちらへ動くと、部下は慌てて頭を下げた。
遠くから、太鼓の音が届いていた。
こちらの火の周りでは、誰も、その音のする方を見なかった。
*
「さあ。タカシも飲みなっせ」
気づくと、私の前へ酒が運ばれていた。
太鼓を代わったドグリが、白く濁った液体を土器へ注ぐ。
受け取って口へ運ぶと、甘酸っぱかった。米の粒のようなものが舌へ残る。
「……うまいな。どぶろくみたいだ」
「ドブロク?」
「私のいたところの、酒だよ」
飲み干すと、すぐに次が注がれた。
私は断らなかった。
久しぶりだった。腹の中から温まっていく感じも、人と向かい合って酒を飲むことも。
アシカビが隣へ座った。
「いい飲みっぷりだ」
「いい村だな、ここは」
私は火の周りを見た。
ユキヒコはカヤ姫や子供たちの近くにいた。私の目を気にせず、楽しそうに話している。
「よそ者の私たちに、こんなに温かくしてくれる」
「……一枚岩ではないがな」
私は器を下ろした。
「ナガツたちか」
「ああ。アマテラスのほかに、神を認めようとせん」
アシカビは、暗い方の家々を見ていた。
「この村の半分には、もう俺の声が届かんのかもしれん」
私は、少し黙った。
理由は、さっき聞いた。米と、道具と、安らかな暮らし。
だが、今、アシカビが見ているのは、理屈ではなかった。
この火の前へ来なくなった、知っている人間たちなのだろう。
「私が知っているアマテラスは、ほかの神々もいる世界の神なんだがな」
私は、手の中の酒を見た。
「名前は同じでも、私の知っているものとは違うのかもしれない」
「だから、困っておる」
私は頷いた。
その拍子に、器の中の酒が大きく揺れた。こぼさないように口をつけると、また次を注がれた。
まだ飲める気がした。
むしろ、頭の回りがよくなってきた気さえした。
ネリは、カネの価値を見抜いた。
未知のものを、ただ怖がるだけの男ではなかった。
あの男にこそ、もっと聞けることがあるのではないか。
高天原。ヒタカミ。アマテラス。
アシカビから聞いた話と、向こうの話を合わせれば、分かることが増えるはずだ。
「よし」
私は立ち上がった。
少し膝が曲がったが、立ち直せた。
「私が話をつけよう」
アシカビがこちらを見た。
「誰と」
「ナガツと、あのネリという男だよ。神がどう違うのか、どこから来たのか。本人の口から、直接聞く」
私は、胸を叩いた。
「語り部になったんだ。村のことは、知らなきゃならんだろう」
「今からか。奴らは気が立っておる。一人では行かせられん」
「大勢で行けば、それこそ警戒する」
理屈は、淀みなく出てきた。
私は自分で、それに納得した。
「腹を割って話すには、一対一だ。こう見えても会社を経営してたんだぞ。交渉事くらい、任せてくれ」
「カイシャ?」
アシカビが聞き返しているあいだに、私は酒を入れた土器を持った。
手土産もある。
礼を失するところは、何もない。
止めようとする手へ、大丈夫だと頷いた。
*
木々の間へ入ると、太鼓の音が背中へ回った。
顔に当たる風が気持ちよかった。
少し足元が暗かったが、向こうにも火が見えていた。そちらへ歩けばいい。
私は、酒をこぼさないように持ち直した。
草を分けると、人がいた。
ナガツがこちらを向く。そのそばの男たちが、慌てたように立ち直った。
足元で何かを動かしていたらしいが、彼らの体に隠れて見えなかった。
「ちょっと、お邪魔しますよ」
私は笑った。
ナガツは笑わなかった。驚いているようだった。
挨拶に来るとは思っていなかったのだろう。
「こんばんは。この村の新しい語り部として、ご挨拶に参りました」
酒の土器を、少し持ち上げた。
こぼすなよ、と自分に言った。
そのときの私が心配していたのは、まだ、その程度のことだった。




