第20話 ミタイの語り部
第20話 ミタイの語り部
人の名をこれほど続けて書いたのは、初めてだった。
しかも土の上だ。紙が足りなくなる心配はないが、膝と腰が先に音を上げそうだった。
書き終えるたび、誰かが声に出して読む。
合っていると伝えると、顔が緩む。
私は次の名前を聞き、また棒を動かした。
ユキヒコも隣にいた。
最初はカヤ姫に教えていただけだったのに、今は大人に囲まれ、枝の先で線を直している。
私は一度、手を止めて眺めた。
読み書きができる。それだけのことで、息子が人に頼られていた。
「タカシ。どうじゃ」
ドグリが地面を指した。
自分の名だった。
「読める。いいじゃないか」
「さっきはマグリの方を読んじまったけんの」
そう言って笑った。
私は、その名前の横へ勝手に何かを書き足さず、棒を膝へ置いた。
人に教えることは、正しい形を渡すだけではないらしい。
覚えたことを試し、間違えて、また確かめに来る。そのあいだ、こちらも同じ場所にいてやらなければならない。
今日だけでは終わらない仕事だった。
そう思ったとき、アシカビが戻ってきた。
「タカシよ。少し、よいか」
*
長は、地面の名前を一つずつ見た。
ヒムカの地図。その周りに、さまざまな大きさの文字が増えている。
誰がどこへ書いたのか、私にも全部は分からなくなっていた。
「お主の知恵は、我らの持たぬものだ」
アシカビが言った。
「どうか、この村へ語り部として留まってくれぬか」
私は、すぐに返事ができなかった。
語り部。
昔の出来事や、人々の由来を語り継ぐ者。その名を、私は書物の中で知っていた。
だが、まさか自分へ向けられるとは思っていなかった。
「……私が、ですか」
「ほかに、誰がおる」
アシカビは、私の背後へ目を向けた。
ユキヒコがまだ、字を教えていた。
「お主らの持つものは、分けても減らぬのだな」
私は振り返った。
息子の前に、同じ字が三つ並んでいる。書いた人が違うので、少しずつ形も違う。
それを全部、同じ音で読んでいた。
「……知識は、そういうところがあります」
「ならば、このミタイのために分けてくれ。やがてヒムカのためにも、力を貸してほしい」
私は手の中の棒を見た。
数時間前には、どうにか自分を大きく見せようとして、五百円玉を差し出した。
それがなくても、渡せるものがあった。
私はそれを当たり前だと思いすぎて、価値を数えていなかったらしい。
嬉しかった。
頷きかけて、思いとどまった。
できもしない仕事を引き受けるわけにはいかない。
「ただ、私はこの村のことを知りません」
アシカビの顔を見る。
「誰が何をして、どう暮らしてきたのか。あなた方が大切にしている話も、まだ何も。語り部と呼ばれても、皆に語れるような昔話を持っていないんです」
「村の昔のことは、俺が教える」
返事は、簡単だった。
「知っておる者に聞けばよい。だから、お主には、この村のこれからを共に考えてほしい」
私は顔を上げた。
アシカビは、少しも笑っていなかった。
先ほど、ネリの前で剣に手をかけた男だ。仲間をまとめ、外から来た者を迎えるかどうか決める男だった。
その男が、自分にないものを私へ求めている。
「……先ほどの連中のことも?」
「ああ」
長の返事に、重さが増えた。
「我らには、考えねばならぬことがある」
私はその目を見た。
役目を貰えることは、よいことばかりではない。
この村が何かを選ぶとき、私も、その場に座ることになる。
失敗したときだけ、自分はよそ者だからと帰るわけにはいかないのだろう。
それでも、胸の奥は熱かった。
歴史の現場で、人の話を聞き、人に話を聞かれる。
そのことを、やってみたかった。
「私の知っていることが、全部ここで使えるとは限りません」
「それは見て分かっておる。狩りは、我らの方が上じゃ」
後ろでドグリが笑った。
私も、ようやく笑えた。
「それでもよければ。こちらこそ、よろしくお願いします」
私は手を差し出した。
アシカビは一度、その手を見てから握った。
掌が硬かった。
私は握り返した。棒を握るより、ずっと力が要る気がした。
*
アシカビが、広場に集まる者たちへ声をかけた。
人の顔が上がる。
私はユキヒコをそばへ呼び、その肩へ手を置いた。
「ミタイの皆よ。この知恵ある者タカシを、我らの語り部として迎える」
息子が私を見上げた。
私は、長の方を向いたまま頷いた。
「タカシと、その息子ユキヒコを、盛大にもてなせ!」
声が上がった。
ドグリがいちばん大きな声を出し、マグリが息子の背中を叩いた。
カヤ姫も、少し離れたところで笑っていた。
「お父さん。ここに住めるの?」
「ああ。お父さんの、仕事ができた」
「語り部?」
「そうだ。まずは皆の話を聞くところからだな」
ユキヒコが周りを見た。
家。火。人。
私が初めて見て、みっともなく涙ぐんだものを、息子も見ていた。
その顔を見ながら、私は朝、鍵をかけてきた車を思い出した。
向こうに置いた物は、まだある。
しかし今夜、戻らなければならない理由は、一つ減った。
「僕も、手伝っていい?」
「さっきから、助かってるよ」
息子が、少し照れた。
私はその肩から手を離し、近づいてきた村人へ向き直った。
また名前を教えてほしいと言われた。
私は頷いた。
明日も、そう聞かれるのだろう。
それが、楽しみだった。
*
同じ村の、別の火の前で、若者が膝をついていた。
唇が切れ、片目は腫れていた。背後に立つ男の足が動くたび、肩を縮める。
「やめい」
ナガツの声で、男たちが離れた。
若者が顔を上げる。
ナガツはその髪を掴み、自分の方へ向けた。
「アシカビの方へ降ろうとしていたそうだな」
「違う……違います。ただ、祭りが楽しそうで」
若者は何度も首を振った。
「一目、見たかっただけです。あっちへ行くつもりなんか」
「かわいそうに」
白い衣が、火の明かりの中へ入った。
ネリは屈み、若者の頬へ手を添えた。
「ほんの好奇心だったのでしょう?」
「はい。そうです。どうか、信じて――」
「ええ。分かりますよ」
若者の体から、わずかに力が抜けた。
ネリのもう一方の手に、細い刃が現れた。
「ですが、あなたはすでに、アマテラス様の使徒です」
刃先が、胸へ触れた。
若者の目が、ゆっくり下へ動いた。
「異教の神を祀る祭りへ惹かれるとは。その心には、まだ汚れが残っているのでしょうね」
若者が口を開いた。
弁明は、声になる前に途切れた。
男たちが身を引く。ナガツが顔をしかめた。
若者の手が、ネリの白い袖を掴んだ。やがて、その指が一本ずつ外れた。
ネリは立ち上がった。
血に濡れた心臓を、火にかざす。
誰も、動かなかった。
「光の都へ迎えられるのは、心清らかな者だけです」
ネリは一同を見渡した。
「すべてを、アマテラス様に捧げるのです」
遠くで、人が笑う声がした。
こちらの火の前では、誰も顔を上げなかった。




