第十九話「地図と、語り部」
一 地面の、図
夜が明けて、祭りの余韻が広場から引いていった後も、私は地面の前から動けなかった。
赤土の上に引いた九州の線。クマソ、ヒ、クナ、ミタイ。四つの国の名。それらを取り囲む海岸線。阿蘇の山塊と、大隅半島の突起。夜露で湿った土の上に、私は木の枝でさらに線を書き足し、消し、また引き直した。独り言のようにぶつぶつと呟き続けていた。
「おい、タカシ」
背後から声がかかった。はっとして顔を上げると、アシカビが半歩離れた場所に立ち、こちらを見ていた。
「ああ、すまん。つい考え込んで」
私は木の枝を握ったまま立ち上がろうとした。膝に土がついていた。
アシカビは、私の立ち上がる動作を制するように、軽く手を挙げた。そしてしゃがみ込んで、地面の赤土の模様を、まじまじと覗き込んだ。
「それは……なんだ?」
若き族長の目は、純粋な好奇心に満ちていた。
「え?」
私は虚を突かれた。
時間が経つうちに、周囲に人が集まっていた。ドグリとマグリが焚き火の向こうから歩み寄ってきた。カヤ姫がユキヒコの手を引いて、少し離れた位置で様子を見ていた。広場で片付けをしていた女たちも、手を止めて、一人また一人と、私のしゃがんでいる場所に近づいてきた。皆の視線が、地面の上の線に集中していた。
「これは『地図』というものだ」
私はゆっくりと説明を始めた。
「ちず?」
アシカビが、音を確かめるように繰り返した。
「これは、我々が今立っている陸と海の境を分けた線だ」
私は木の枝の先で、九州の海岸線をゆっくりとなぞった。
「そしてこれが、お主から聞いた国々を分ける、大体の境」
クマソ、ヒ、クナ、ミタイ──四つの国の境界を、順に木の枝で示した。
アシカビの目が、じわじわと見開かれていった。
「……なるほど」
若き族長は自分の膝を叩いた。
「地面の図、だからちずか」
語感を、彼は即座に捉えた。ドグリが身を乗り出して、地図の一箇所を指さした。
「この模様はなんやっちゃ?」
地図のミタイの位置に書かれた、三つの文字を指していた。
「それは『文字』だ」
「文字!?」
ドグリが目を丸くした。その反応を見て、アシカビが思い出したように付け加えた。
「海の民から聞いたことがある。遠く『シナ』の人間は、文字というものを使う、と」
シナ──支那。中国大陸の古い呼称。アシカビの口から出た時、それは差別語のニュアンスは一切なく、ただ"大陸の国"を指す土地の名だった。中国大陸を把握しているのか、三世紀のヒムカの山の民が。私は内心で驚いた。彼らの世界認識は、私が想像していたよりもずっと広い。
【"シナ"という呼称の起源──『シナ(支那)』という呼び名は、古代中国の『秦』朝(紀元前二二一〜二〇六年)の名に由来するとされる。秦はシルクロードを通じて西方世界にまでその名を轟かせ、西洋諸語で中国を指す"China""Cina""Chine"などの語の源流となった。日本列島においても古代から『シナ』という呼称は、中国大陸全体を指す総称として用いられた。江戸期〜明治期には『支那』の字が当てられて広く使われたが、近代以降、政治的文脈の変化の中で差別語化する経緯をたどった。しかし三世紀の倭人にとって、"シナ"はごく中立的な、地名としての大陸の呼び名であったはずだ】
私は気を取り直して続けた。
「それはシナで使う文字ではないがね。ちなみに──」
地面に書いた三文字を、順に木の枝で指した。
「そこには『ヒ』『ム』『カ』と書いてある」
ドグリと、その周辺の者たちが、一斉に目を見開いた。
「!」
「つまり我々がいるのは、地図の上ではそこだということだ」
アシカビがゆっくりと頷いた。
「なるほど」
一拍おいて、アシカビの視線が地図の南の方へと動いた。そして別の三文字を、木の枝で、自分の手で指した。
「ということは、ここがクマソだな」
「!」
私は息を呑んだ。
「クマソはヒムカの南。つまり海の方を向いて右側に存在する。どうだ」
「ああ、あっている」
私は乾いた声で答えた。
恐ろしく理解が早い。さすが長と言ったところか。私が説明したのは、ほんの数十秒の、ごく基本的な地図の読み方だった。それだけで彼は、空間と記号の対応関係を、即座に掴んだ。現代の小学生の地図の授業より、遥かに早い理解だった。
カヤ姫が、ユキヒコの手を放して半歩前に出た。姫の視線は、地図の西の方の三文字に固定されていた。
「こちらは『ヒ』の国。『ヒ』ムカの『ヒ』と同じ文字、やっちゃ」
「!」
私は文字通り、言葉を失った。姫は先ほど私がドグリに示した"ヒムカ"の文字の"ヒ"と、地図の西に書いた"ヒの国"の"ヒ"が同じ形をしていることを、一瞬で認識していた。表音文字の本質を、たった一度の提示で理解してしまったのだ。
二 文字、という贈り物
マグリが、地図の北に描かれた二文字をじっと見ていた。
「これが『ク』『ナ』か」
呟き、そしてにっと笑った。
「なるほど。一音にこの印を合わしてるっちゃねえ」
「……!」
私は今度こそ打ちのめされた。マグリは、わずかな観察だけで、この文字体系が"一音一印"──すなわち音節文字であることを、見抜いた。
ドグリが身を乗り出してきた。
「タカシ。ドグリと、どう書く?」
マグリも負けじと続いた。
「マグリはどう書くっちゃ?」
カヤ姫まで顔を赤くして、袖を引いた。
「わらも教えてほしか」
私は慌てて木の枝を握り直した。
「わ、分かった。今、教えるよ」
気がつけば、私の周りには輪ができていた。アシカビの家人たち、マグリの兄弟分の若者たち、広場で片付けをしていた女たち、そして年寄り。皆、地面にしゃがみ込み、私が書き示す一音一音の文字を、じっと見つめていた。
「ド」「グ」「リ」。
「マ」「グ」「リ」。
「カ」「ヤ」。
書くたびに、一斉に、子供のような歓声が上がった。
未開人と侮ってはいけないな。私は内心で頭を下げた。彼らの知能と好奇心は、現代人のそれと比較しても、驚くほど高い。高いどころか、むしろひょっとすると、遥かに──。
現代人は情報に慣れすぎている。あまりに多くの知識が流入してくるので、一つ一つの新しい概念に対する感度が鈍っている。十歳の子供でも、地図や文字を"当たり前のもの"として受け取り、驚かない。
しかしここでは違う。初めて"地図"と"文字"に出会った成人たちが、その本質的な構造を、一瞬で捉え、使いこなし始めている。これは現代の教育を受けた大人が体験することのない、純粋な、理解の爆発だった。
ちなみに二四〇年の弥生時代では、文字は使われていなかったと言われている。カタカナやひらがなに関しては、発明自体が六〇〇年後の平安時代を待たねばならない。これは歴史を大きく捻じ曲げる事なのだろう。だが──。
ユキヒコがいつの間にか、私の隣に来ていた。少年はカヤ姫の前で、小さな木の枝を握り、赤土の上に「カ」「ヤ」と書いて見せていた。姫が驚いて両手で口を押さえた。少年は得意げに笑い、次に「ユ」「キ」「ヒ」「コ」と、自分の名前を書き足した。
姫が同じ木の枝を受け取り、少年の隣にしゃがみ込んで、今度は自分で「カ」「ヤ」と書いた。書き終えて、子供のような笑顔を少年に向けた。ユキヒコも同じ笑顔を返した。
私はその光景を見ながら、ゆっくりと息を吸った。そうだ。こんな俺でも、この世界で役立てる事は、たくさんあるじゃないか。
考古学徒としての知識、それは確かにこの時代の当事者たちの前では、通用しない部分が多い。だが文字がある。地図がある。米の作り方の基本的な仕組みがある。火の扱いの工夫がある。薬草の組み合わせがある。星を読む技術がある。算術がある。幾何がある。私の頭の中には、三世紀の人々が想像もしていない、細々とした"知"が、無数に眠っている。それらを一つずつ取り出せばいい。それだけでこの村は、確実に一つ前に進む。
矢が外れた、鹿を仕留められなかった、猿に噛まれた──そんな"現場の不器用さ"は、置いておけばいい。現場はユキヒコや、ドグリや、マグリの領分だ。私は、私の別の領分で役立てばいい。
三 語り部
昼近くになって、アシカビが再び私の前に戻ってきた。地面の地図の周りに群がっていた村人たちは、各々自分の仕事に戻り始めていた。しかし地図はそのまま、赤土の上に残されていた。
アシカビは、私の正面にしゃがみ込んだ。その目は、祭りの夜のような穏やかさと、族長としての決意の色を、同時に宿していた。
「タカシよ」
若き族長は低く呼びかけた。
「知恵ある者よ。お主、どうかこの村に『語り部』として留まってくれぬか」
語り部──。その言葉が、私の胸の中にずしりと落ちた。
【語り部──古代日本において、文字を持たない共同体の中で、神話、伝承、系譜、歴史を口頭で語り継ぐ役割を担った専門職。『古事記』の編纂に関わった稗田阿礼は、記憶力に優れた語り部の一人とされる。古代氏族の中には、語り部を世襲で務める家系(猿女君、中臣氏の一部など)があり、彼らの伝える物語が、後の『古事記』『日本書紀』の源流となった。語り部は単なる記憶者ではなく、共同体のアイデンティティを言葉の技によって保存し続ける、祭祀的存在であった】
古代では、神話や歴史を語り継ぐ者を、語り部と呼んだ。彼らの声が、後に『古事記』や『日本書紀』の源流になったという。まさか自分がそう呼ばれるとは──。
胸の奥で、二十代の頃、教授と一緒に三輪山の麓を歩いた日のことが、ふと蘇った。若き日の私は、"稗田阿礼のような人物が本当にいたのだろうか"と教授に尋ねた。教授は笑ってこう答えた。「いたんだよ。間違いなく、いた。でも歴史には、名前しか残らない」。今、私がその"名前しか残らない"側に立とうとしている。
「お主の知恵は、我々には無いものだ」
アシカビは真っ直ぐに、私の目を見た。
「どうか、このミタイ族、そしてヒムカのために力を貸してくれ」
私は一度、息を整えた。そして応えた。
「私は特に大きな力を持たぬ年寄りだが──」
自嘲を込めて、少しだけ笑った。
「このような事は、山ほど知っている」
木の枝の先で、地面の地図を軽く叩いた。
「それでよければ、こちらこそよろしく頼む」
アシカビが右手を差し出した。私はそれを両手で握った。若き族長の掌は、私の掌より一回り厚く硬かった。弓の弦を日々引き続けている狩人の手。氏族を背負って立つ長の手。
歴史は人が生きた証を残すことで始まる。私は今、その最初の頁に立ち会っているのかもしれない。二千年後に自分の名が残るかどうかはどうでも良かった。ただ自分が、この頁に今立っている。その事実だけが、今の私の全てだった。
四 もう一つの、焚き火
その頃、村の離れ。
ミタイの集落から森の奥へと、少し逸れた場所に、もう一つの焚き火があった。祭りの賑わいからは完全に隔てられた、ピリついた沈黙が、その焚き火の周囲を支配していた。ナガツが腰の剣に手をかけたまま、焚き火の縁に立っている。その周りに、ナガツの部下の若者たちが数人、膝を突いていた。そして地面の上に──一人、別の若者が、転がされていた。
ボカッ、ドカッ。
ナガツの部下の一人が、その若者を立て続けに殴りつけていた。若者は、顔を両腕で庇いながら呻いていた。頬は既に紫色に腫れ上がり、口の端から血が垂れていた。
「うう……」
「やめい」
ナガツが短く命じた。部下たちは動きを止め、ナガツに一歩譲るように、半歩退いた。ナガツはゆっくりと若者に歩み寄り、しゃがみ込んで、若者の髪をぐいっと掴み上げた。腫れ上がった顔を、自分の真正面に据え直した。
「お前、アシカビの方に降ろうとしてたらしいな」
低い音。言葉そのものよりも、声の冷たさが、若者を震え上がらせた。
「う、うう……」
若者は、必死に頭を振った。
「ち、違う。ただ、あっちの祭りが楽しそうで、一目見ようと──」
声が掠れていた。許しを乞う、子供のような声だった。
焚き火の火がぱちりと爆ぜた。その爆ぜる音と同時に、暗闇の向こうから、するりと一人の人影が歩み出てきた。純白の衣。ネリだった。
「かわいそうに」
ネリの声は、甘く、低く、穏やかだった。
「あなたも、ほんの好奇心だったのでしょう?」
「あ、ネリ様……」
若者の顔が、一筋の希望に明るくなった。
ネリはゆっくりと、若者の前に膝をついた。そして慈愛に満ちた表情で──そう見える表情で──若者の腫れ上がった頬に、そっと手を添えた。その手は白く、長く、傷一つなかった。
「はい、そうなんです。信じてください」
若者の声が希望に震えた。
「ええ、わかりますとも。ですが……」
ネリのもう一方の手が、懐から、するりと何かを抜き出した。細身の青銅製の刃物。姿は小さな小柄に似ていた。だが刃の磨き方も、柄の作りも、先日カヤ姫が切開排膿に用いた祭祀用の青銅刀とは、明らかに異質だった。
あれは癒すための刃だった。これは、別の何かのための刃だった。
焚き火の赤光が、その刃の表面でぎらりと跳ねた。
「忘れましたか?」
ネリの声は、まだ甘かった。
「あなたは既に、天照様の使徒なんですよ?」
ネリの目は、笑ったまま据わっていた。若者の喉の奥で、ひゅう、と息が引き攣った音がした。
ネリは刃の切っ先を、若者の胸──心臓のあたりに、トン、と軽く押し当てた。
「邪悪なる異教の神を祀ることに興味を持つなど、魂が汚れている証拠」
「ヒッ……!」
若者の顔から血の気が引いた。
「その汚れなき心臓を取り出し、悔いるのです」
「え?」
若者の目が数秒、意味を理解できずに、ぽかんとした。ネリの手首が音もなく、ほんの一閃動いた。
ズプッ──。
抵抗するような躊躇いは、微塵もなかった。刃が一気に、若者の胸骨の下に沈んだ。
「ぎゃあああああああ──!」
若者の断末魔が、夜の森に響き渡った。ナガツが一瞬、顔をしかめた。副族長は剣の柄を握ったまま、視線をそっと横に逸らした。部下の若者たちは青ざめて、身を硬くしていた。誰一人、瞬きすらしなかった。
ゴリッ、グチュ、ブチブチ──。
ネリのシルエットが、焚き火の赤光の中で動いていた。それは猟師が獲物を解体する時の、慣れた手つきだった。無駄な動きが一切なかった。
【古代の儀礼的殺害──人類学の研究によれば、世界各地の古代宗教において、心臓を摘出する儀礼的殺害の事例が確認されている。最もよく知られるのはメソアメリカのアステカ文明だが、それだけでなく、古代ケルト、古代中東、古代中国の一部、さらには日本列島の縄文・弥生期の一部祭祀遺跡からも、人骨の解剖学的な処理痕が検出される例がある。心臓は多くの古代文化において「魂の座」「生命の中心」と見なされ、それを神に捧げることは供犠の最高形式とされた。三世紀の倭国においても、『魏志倭人伝』に卑弥呼の死に際し「徇葬する者、奴婢、百余人」と記される。人間の命を神に捧げる風習は、古代東アジアにおいて、決して例外的なものではなかった】
ネリはゆっくりと立ち上がった。その右手に、まだ微かに鼓動している何かが、握られていた。
ドクン、ドクン──。
若者の心臓だった。血がだらだらとネリの腕を伝い落ちた。白い袖は手首のあたりから、すでに濃い赤に染まっていた。
「良いですか?」
ネリは焚き火の前で、ぐるりと部下たちとナガツを見渡した。誰一人、動けなかった。
「光の都に誘われる者は、心清らかなる者だけ」
ネリは摘出した心臓を、ゆっくりと焚き火の光にかざした。あるいは焚き火の向こうの夜空の月にかざしたのかもしれなかった。白衣の男は、血の滴る手を気にする様子もなかった。
「全てを、アマテラス様に捧げるのです」
ドクン、ドクン、ドクン──。
ネリの手の中で、心臓はまだ弱く打ち続けていた。焚き火の火がぱちりと爆ぜた。夜の森はただ静かだった。
広場の方では太鼓の音と、子供たちの笑い声と、文字を教わる男たちの歓声が、まだ続いていた。そしてその広場の中心で、私は地面の地図の前で、アシカビと語り部としての契りを交わしていた。
私は何も知らなかった。同じ夜の同じ村の別の場所で、ネリが自分の信者の一人の心臓を、アマテラスに捧げていたことを。私はまだ、ネリという男の"真の顔"を知らなかった。
(第十九話 了)




