第18話 王のいない国
第18話 王のいない国
「カヤは姫であり、巫女でもある。だから、ヒミコとも呼ぶ」
アシカビが言った。
私は半分浮かせていた腰を、地面へ戻した。
「……なるほど。そういうことですか」
「ほかに、何だと思った」
説明しにくかった。
弥生の巨大国家の女王を、目の前の少女へ当てはめた。自分でも一瞬しか信じなかったが、その一瞬は、なかなかの大間違いだった。
カヤ姫は兄のそばへ来て、こちらを見た。
「何か、うちに聞きたいと?」
「いや。私の勘違いだ。すまない」
ユキヒコが、私の顔を覗いた。
「お父さん。名前が同じだけ?」
「どうやらな」
「びっくりした。カヤ姫も、お父さんの本に出てくるのかと思った」
私は笑った。
笑ってから、その言葉に少し胸が動いた。
この子の名が、どこにも残らなかったとは限らない。違う呼び名で、違う話として、私の読んだものの中にいるのかもしれない。
だが、今は、そういう想像を重ねている場合ではなかった。
「では、改めて聞かせてください。ネリは、どこから来たと言っているんです?」
アシカビは、少し考えるように目を動かした。
「ヒタカミから来たと言っておる」
今度は、声が出るまで一拍かかった。
「……日高見?」
頭の中で、日本列島が伸びた。
九州の北から、近畿へ。その先を越え、さらに遠くへ。
「東北から来たというんですか!?」
「トウホク?」
アシカビの方が、怪訝な顔になった。
「ネリが言ったのは、ヒタカミだ。俺はそこまで行ったことがない」
私は口を開けたまま、長を見た。
『日本書紀』で読んだ、東の土地の名だった。私はそれを、東北と結びつけて覚えていた。
だが、この人がそう言ったわけではない。
まただ。
聞いた音へ、知っている漢字と場所を、すぐに貼りつけようとしている。
「ここは宮崎……いや、ヒムカだぞ。そんなに遠いところから、なぜ」
「お父さん」
息子の声で、我に返った。
私はアシカビへ詰め寄るような姿勢になっていた。
「……すまない。話が、私の想像していたものと違って」
長は頷いた。
怒ってはいなかった。私が何に驚き、何を知ったつもりなのか、分からないという顔だった。
*
私は膝に肘をついた。
地面には、小さな石が埋まっていた。その形を見ながら、考えを組み直す。
邪馬台国なら、北部九州か畿内。
私の知っている議論は、その二つを中心に回っていた。もちろん、違う場所を考える人もいる。私だって、宮崎説の話を息子へしていた。
しかし、東の遠い国から来た者が、ヒムカで太陽神の教えを広めているとは、考えてもいなかった。
手掛かりが増えるほど、覚えてきた答えから離れていく。
鹿光は私を、予言者だと言った。
何を予言すればいいのだ。
この村を出てから道がどちらへ曲がるかさえ、ドグリたちに聞かなければ分からない。
私は顔を上げた。
カヤ姫が、ユキヒコから何か聞いていた。息子が手を大きく開き、私の方を見て、少し困ったように笑う。
アシカビは、私が次の問いを出すのを待っていた。
逃げも隠れもしていない。
知らないことが、私の返事を待っている。
「……面白い」
口から漏れた。
アシカビが、目を上げる。
「面白いっ!」
今度は、ちゃんと声が出た。
近くの人が振り向いた。ユキヒコが肩を跳ねさせる。
「どうした、急に」
「違うんです。何もかも分からないと思ったんですが……それが、いいんだ」
説明になっていなかった。
それでも、言わずにはいられなかった。
「私たちに伝わっていたことが、ほんの一部だとしたら。まだ誰も書いていないことが、ここには山ほどあるということじゃありませんか」
言いながら、笑ってしまった。
山を歩くと疲れる。弓も当たらない。猿には噛まれる。
だが、話を聞くことまで、できないわけではない。
「アシカビ殿。もっと教えてください。まずは、このヒムカの王について」
私は姿勢を直した。
「王は、誰です?」
「おらん」
また、思っていなかった答えが来た。
しかし今度は、違うはずだと言いたくならなかった。
「……王が、いない?」
「ヒムカは神々の国だ。それぞれの一族に祀る神があり、長がおる。だが、そのすべてを束ねる王はおらん」
私はアシカビの背後を見た。
家々。人。山の向こうには、川や海の人々がいる。
この若い男は、そのすべての王ではない。ミタイの長なのだ。
私は村へ来てから、何度、知っている言葉を使って勘違いしただろう。
「周りには、王のいる国も?」
「ああ。南にクマソ。西にヒの国。そして北に、それらを従えるクナがある」
クマソ。ヒ。クナ。
私は口の中で繰り返した。
「狗奴国……か」
アシカビが私を見た。
「知っておるのか」
「似た名の国を、書物で読んでいます。女王の国と争ったと伝わる、男王の国です」
頭の中の地図に、少しずつ位置ができた。
全部が違ったわけではない。
知っているものもある。ただ、並び方が、私の予想通りではないのだ。
私は立ち上がった。
「少し、場所を借りても?」
*
火の明かりが届く地面で、木の棒を拾った。
砂利をどけ、足の裏で軽く土を均す。
何をするのかと、ドグリが覗いた。
「地面に書いてみる。聞いたことを、忘れないうちに」
私は線を引いた。
九州の形は知っている。
知っているはずだった。
「……あれ。ここ、どうなってたかな」
ユキヒコが、こちらへ来た。
「地図?」
「ああ」
「スマホに、入ってるって言ってたじゃない」
「そうだった」
私は自分のスマホを出した。
先ほどはネリに見せたくなかった物だ。もう周りにはいないと確かめ、なるべく手元に隠すように持った。
保存してあった地図を開く。
画面の中の九州と、足元の線を見比べる。あまりに形が違う部分を靴で消して、引き直した。
これがこの時代と寸分違わぬ海岸線だとは思わない。それでも、大まかな位置を考える助けにはなる。
海と陸を分ける線。
ヒムカ。クマソ。ヒ。クナ。
国の境目は分からないので、聞いた方角へ名前だけを置いた。
アシカビに尋ね直し、南と西の場所を確かめる。
「クナは、もっと北の方なのですね」
「そうじゃ」
私は棒を止めた。
このクナが、書物の狗奴国だとすれば。
では、邪馬台国はどこだ。
北部九州ではないのか。海を挟んだ向こう、奈良の辺りなのか。
結論を出したくなって、棒の先が地面へ触れた。
私は、その名前は書かなかった。
今分かったのは、クナという国が北にあるということだけだ。そこから先は、まだ私の考えにすぎない。
「……よし」
立ち上がると、腰が鳴った。
いつの間にか人が集まっていた。
皆、私ではなく、足元を見ている。
赤い土の上に、九州の形があった。
数時間前には何も分からなかった土地に、四つの名前が並んでいる。
海の向こうには、まだ空いた場所があった。
高天原は、どこにあるのだろう。
邪馬台国は。
そこまで行くには、どんな道があるのか。
私は棒を握り直した。
答えの載った地図を持ってきたつもりだった。
だが今、本当に欲しい地図は、自分で作ってみなければならないのだと分かった。




