第17話 米の向こう
第17話 米の向こう
ネリたちが去っても、すぐには誰も喋らなかった。
アシカビが手を下ろしてから、ドグリとマグリも、ようやく武器から指を離した。
ユキヒコがカヤ姫を見る。
カヤ姫は小さく頷いた。それを見て、息子の肩が下がった。
「妙な空気にして、悪かったな」
アシカビが私に言った。
「あれは副族長のナガツだ。……今、少し、厄介なことになっておる」
「少し、ですか」
つい口から出た。
アシカビは笑わなかった。
私は言い直した。
「教えてくれませんか。この村で、何が起きているのか。あの男たちが何者なのか」
長はしばらく、ネリたちの消えた方を見ていた。
それから、火の近くへ座るように手で示した。
私は腰を下ろし、膝の上で両手を組んだ。
聞きたいことが多すぎた。高天原。アマテラス。光の都。
しかし、最初に確かめなければならないのは、私たちが今座っている場所のことだ。
「山と川と海の民がいるという話は、二人から聞きました」
ドグリたちへ目を向ける。
アシカビが頷いた。
「山のもの、川のもの、海のものを持ち寄って暮らしてきた。仲のよいときばかりではない。争いもする。だが、昨日争った相手とも、明日は物を替えねばならんことがある」
長の言葉を聞きながら、私は先日の雑炊を思い出した。
山で獲った肉と、別の場所から運ばれた米。同じ鍋で煮えていた。
私たちが知らなかっただけで、人の行き来は、ずっとあったのだ。
「そこへ、ネリたちが来たんですね」
「ああ。海を越えてな。初めは武器を持たず、笑顔で来た」
アシカビが、火を見た。
「高天原からの使者だと名乗り、川や海の民に、珍しい農具や、米の作り方を教え始めた。種も与えたという」
「道具と、作り方の両方を」
「そうじゃ。そして、アマテラスを拝め、と」
私は口を閉じた。
ネリが話す都のことを、人々は、言葉だけで信じたわけではなかった。
目の前に、使える物が届く。使えば暮らしが変わる。
そのあとで、これを与えてくれたのは誰かと、尋ねられるのだ。
*
近くで女たちが食べ物を並べていた。
干した肉。木の実。魚。
マグリが運ばれてきた器を受け取り、こちらにも回してくれた。
私は礼を言い、少し口にした。
うまかった。
ここまでの道は疲れたが、今は座る場所も、食べ物も、人の声もある。
「……山の暮らしは、悪くないじゃありませんか」
自分の器を見ながら言った。
「なぜ、あんな言い方をされてまで、向こうへ行こうとするんです?」
アシカビは私を見た。
「米じゃ」
「米?」
「甘い。腹にたまり、蓄えられる。そして、米を腹いっぱい食えるなら、今日、獣を追わずに済む」
私は動かなくなった。
「森の暮らしは、命懸けだ。お主も、分かったであろう」
傷のあった腕へ、目が落ちた。
たった八匹の魚を運んでいただけだった。
獲物を追い詰めたわけでも、猛獣のねぐらへ踏み込んだわけでもない。
それでも私は死にかけた。
「米を作るのにも、仕事はあるでしょう」
「ある。川の民が、日がな一日、寝て暮らしているなどとは言わぬ。だが、山へ出た者が、帰ってこぬ日もある」
アシカビの視線が、私の向こうを通った。
振り向くと、ユキヒコがカヤ姫のそばで器を受け取っていた。
私は、自分が聞いたことを取り消したくなった。
毎日あの子を山へ行かせるのと、別の仕事で食わせるのと、どちらを選ぶ。
そう聞かれれば、簡単には答えられない。
「……なるほど」
私は器を置いた。
知らなかった。山の暮らしが美しいのは、私が今夜、食事の用意をしなくていいからでもある。
「では、米の作り方を教わって、神は今まで通り拝むというのは?」
「それを、あの男が認めると思うか」
神の杜でのネリの声が、戻ってきた。
偽りの神を許さない。
アシカビが苦く笑った。
「お前たちの神は間違いだと言われて、先祖の社を捨てられる者もおる。捨てられぬ者もおる。……今の村は、それだ」
私は頷いた。
ナガツが勾玉を持ち上げた姿と、アシカビが五百円玉を出した姿が重なった。
私の贈り物も、もうこの争いの一部だった。
*
高天原から来た者が、米と技術を携え、このヒムカに都を作っている。
私はその話を、どこかで読んでいた。
まったく同じではない。だが、あまりに似ている。
「アシカビ殿」
「何じゃ」
「私の知る物語では、高天原は、神々の住む世界なんです」
長がこちらを見た。
「そのアマテラスの孫が、地上を治めるために、この日向へ降りてくる。米の実りとも結びついた、そういう物語です」
「……妙なことを知っておるな」
妙どころではなかった。
私は自分の声を聞きながら、胸が速く動き始めるのを感じていた。
天孫降臨。日本の神話の、大きな始まりの一つだ。
高天原。日向。新しい支配。
神々の物語だと思っていたものが、人間たちの行動として、目の前に現れかけている。
「高天原というのは、一族の名なんですね?」
「奴らは、そう名乗っておる」
私は身を乗り出した。
「ならば、あの者たちの国は、邪馬台国ではありませんか」
火が、ぱちりと鳴った。
アシカビは黙っていた。
知っているのだろうか。口にしてはいけない名前だったのだろうか。
私は息を止めて、返事を待った。
「……ヤマタイコク」
アシカビが繰り返した。
「聞いたことがないな」
「は?」
素っ頓狂な声が出た。
長は困ったように私を見た。
「すまぬが、知らん」
「い、いや。呼び方が違うのかもしれません。ヤマトとか、ヤマイとか」
「それも、聞かぬ」
私は座り直した。
音が正確に伝わっているとは限らない。後の世に残った文字を読んで、私たちは名前を呼んでいる。その音を口にしても、ここで同じように通じる保証などない。
だが、あまりにあっさりと返されると、困る。
もう少し、驚いてほしかった。
我ながら、何と勝手な期待だ。
「私のいたところでは、昔、この倭に大きな女王の国があったと伝わっています」
私は両手を開いた。
「女王は神々に関わる力で人を治めたという。その人の記憶が、アマテラスの神話になったのではないかと、私は今、考えたんです」
話しながら、自分の中では、もう形ができかけていた。
白い衣の男が従うのは、国をまとめる女王。その女王が、のちの太陽神として残る。
どうだろう。
辻褄は合う。合いすぎるくらいだった。
「では、ヒミコという名前は?」
アシカビが顔を上げた。
私も、身を乗り出す。
「その女王の名が、卑弥呼なんです。あの男たちの王ではありませんか」
「ヒミコなら、おるぞ」
私は膝へ置いていた手を握った。
知っている。
やはり、つながった。
「どこに?」
「ほれ」
アシカビが、私の後ろを顎で示した。
振り向く。
カヤ姫が、ユキヒコと並んで座っていた。
呼ばれたことに気づいて、こちらを見る。
「……カヤちゃんが、卑弥呼!?」
思わず立ち上がりかけた。
カヤ姫は自分を指し、困った顔をした。
私の世紀の発見を、十歳の息子まで不思議そうに眺めていた。




