第16話 石とカネ
第16話 石とカネ
「ナガツ。祭りの最中だぞ。控えよ」
カヤ姫が一歩進み出た。
私はまだ、アマテラスという名に気を取られていた。白い衣の男に聞きたいことが、次から次へと湧いてくる。
だが、ナガツの顔がカヤ姫へ向いた途端、そんなことを考えている場合ではなくなった。
「カヤ姫よ。いずれ我が妻になるという、先の長との約束を忘れたか」
カヤ姫が半歩退いた。
ユキヒコが動いた。
私が腕を伸ばすより早く、二人の間に立っていた。
「何だ、童。俺に文句があるのか」
ナガツが腰を屈めた。
顔が近づいても、息子は退かなかった。両手は体の横で、握られていた。
私はその肩へ手をかけた。
「この子は――」
「いい加減にしろ、ナガツ」
アシカビの手が、剣に触れていた。
「カヤが巫女になった以上、お前に嫁ぐことはない」
「我らの古い盟約を、勝手に破るというのか」
ナガツも柄を握った。
ユキヒコの肩が、私の手の下で硬くなった。
剣を抜かせてはいけない。そう思っても、どう止めればいいか分からなかった。
ここでは、私の知っている法律も肩書も、誰も守ってくれない。
「ナガツさん」
ネリが、剣を抜こうとする腕へ手を添えた。
「我らが神は、無用な争いなどお望みではありませんよ」
「……ネリ様」
柄を握る指が緩んだ。
アシカビの声では止まらなかった男が、その一言に従った。
私はネリを見た。剣を持たないその男の立場が、さっきよりはっきりした。
*
「アシカビさん。私は長い時間をかけ、この村の方々に教えを説いてきました」
ネリが一歩進んだ。
カヤ姫とユキヒコは、アシカビの横へ下がった。私は息子の肩から手を離したが、すぐ届くところに立っていた。
「そして今では、村の半数近くが、アマテラス様の慈悲を理解してくださった」
半数。
私は周りを見た。離れていた村人たちが、いつの間にかこちらを見ていた。誰も口を挟まない。
この男は客にすぎないのだろう、と、私は勝手に思っていたらしい。
「信じる者は、光の都へ迎えられます。飢えも寒さもない、安らかな暮らしが待っているのですよ」
穏やかな声だった。
その声だけを聞けば、救いの話に聞こえた。
私は、夜の車内で肩を縮めていた息子を思い出しかけた。
「いつまで、このような所で、獣のように暮らすのですか?」
アシカビの顎が、わずかに上がった。
「我らは山の恵みで生きておる。獣は友であり、我らの暮らしの一部だ」
「その獣を追うだけで、一生を終えるのか」
ナガツが言い、懐から何かを取り出した。
紐に通された、曲がった石だった。
暮れかけた光を受けて、磨かれた面が艶を帯びる。
「見よ。ネリ様から賜った玉だ。あちらの国では、これほどの物を作れる」
瑪瑙の勾玉だろうか。
私は思わず目を細めた。色もよいが、曲面の仕上げが見事だった。硬い石に穴を通し、あれほど滑らかに磨く。その手間を、私は想像することしかできない。
大昔の石だから原始的、などと思える代物ではなかった。
「これこそ、アマテラス様の力だ」
ナガツが、胸の前で玉を揺らした。
アシカビは、それを鼻で笑った。
「石ころ一つで、先祖から祀ってきた神を裏切るか」
私は口を閉じた。
石ころではない。そう言いたかったが、今それを言えば、話が余計にややこしくなる。
アシカビが懐へ手を入れた。
「ならば、こちらも見せよう」
丸い金属が出てきた。
私の五百円玉だった。
「鹿光より賜りしカネ。ヒヒイロカネじゃ」
出した。
もう、出してしまった。
私は心の中で頭を抱えた。贈った以上、アシカビのものだ。どう使おうと自由なのだが、こんなに早く、私のハッタリを持ち歩くとは思わなかった。
「ただの丸い板ではないか」
「鹿光の使者タカシから、直々に貰ったものだ。お前の石と、比べてみるがよい」
ナガツが、私を見た。
さっきまでは、よそ者の一人だった。今は、アシカビ側の神の力を保証する男になっている。
私が何も言わなくても、立場だけが先へ進んでいった。
ユキヒコが、私の顔を見上げていた。
私は見なかったことにした。
*
ネリだけは、笑わなかった。
アシカビの指の間にある硬貨を、じっと見ていた。
「……少し、拝見しても?」
アシカビが差し出した。
ネリは両手で受け取り、光へ向けた。
表。裏。縁。
見る場所が、順に移っていく。
指の腹が、細かな線をなぞった。
ナガツが何か言いかけたが、ネリは顔を上げなかった。
まずい。
私は、その手つきを見て思った。
ナガツは、何の神が与えたかを比べていた。
この男は、どうやって作ったかを見ている。
私にも、この五百円玉を作ることはできない。
均一な形。細部まで刻まれた模様。何気なく使っていた物の背後に、私個人では到底届かない技術がある。
それを、この男は見抜こうとしていた。
「あなたは、何者ですか」
急に顔が上がった。
私は、息を吸ったまま止まった。
「言ったであろう。我らが神の――」
「この方に、聞いているのです」
ネリがアシカビを遮った。
先ほどと同じ、丁寧な言葉だった。
だが、誰もそれを穏やかだとは思わなかっただろう。
「どこの国の手の者です? この細工。ただの旅人が持つものではありませんね」
私の方へ一歩来た。
喉が乾いた。
未来から来ました、と言うのは簡単だ。しかし、この男が信じたとして、そのあとに何が起きるか分からない。
背後に、息子がいる。
私は、退かなかった。
「……神の使いだ」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
「それ以上でも、以下でもない」
ネリの目が動いた。
私の顔を見て、それから衣と荷物を見る。
私は肩の力を抜こうとしたが、うまくいかなかった。
今、荷物を開けろと言われたらどうする。
アシカビは、どこまで庇ってくれる。
考えながらも、目だけは逸らさずにいた。
長い間のあと、ネリが笑った。
「なるほど。口は堅いようだ」
五百円玉が、アシカビの手へ戻された。
硬貨が渡る一瞬を、私は見ていた。あの小さな板に、自分の体重まで乗っているような気がした。
「行きましょう、ナガツさん。今宵は、ここまでです」
「ですが――」
「ここまで、と申しました」
ナガツが口を閉じた。
アシカビも追わなかった。二人の後ろにいた武装した男たちが、ようやく身を翻した。
私は息を吐いた。
誰も剣を抜かなかった。それで、よしとするしかない。
「鹿の神の使いよ」
ネリが、立ち止まった。
白い袖だけが、風に動いていた。
「覚えておきなさい。我ら高天原の民は、偽りの神を許さない」
心臓が、強く打った。
高天原。神々の住む世界として、私が知っている名だった。
ネリは、それを自分の故郷のように口にした。
聞き返したい。
その腕を掴み、今の言葉はどういう意味だと問い詰めたい。
同時に、すぐにでも息子を連れて離れたかった。
私はその場に立ったまま、白い衣が木々の向こうへ消えるのを見送った。
アシカビの掌で、五百円玉が光っていた。
私を守ってくれた物が、私の存在を、知らない国へ知らせてしまった。




