第十六話 高天原の影
一 ナガツの執着
──日本神話の最高神、天照大神。
その名を、この時代、この場所で聞くなんて。
全身が凍りついたまま、私は純白の衣を纏った男を凝視した。篝火の赤が男の白衣の表面で踊り、その顔を下から照らし出している。
──しかもこの男の、異様な出で立ち。
ミタイ族の誰とも違う、滑らかな頬。刺青のない肌。絹のように織られた長衣。後頭部で束ねられた黒髪。整えられた髭跡。
明らかに、この村の人間ではない。
──こいつは、何者だ。
男──ネリと呼ばれたこの白衣の男は、こちらの視線を余裕で受け止めながら、ほんの少し首を傾げただけで、何も答えなかった。
*
緊迫した空気を破ったのは、カヤ姫だった。
「ナガツ、祭りの最中だぞ。──控えよ」
姫の声が、思った以上に鋭く、広場に通った。
ナガツの肩が、ぴくりと動いた。
「……!」
*
だが、次の瞬間、ナガツの視線が、すうっと姫の顔の輪郭を舐めるように動いた。
その目つきに、私は違和感以上のもの──嫌悪に近いものを、咄嗟に感じた。
男が女を見る視線ではあった。しかしそれは、親愛でも、敬意でも、畏怖でもなかった。もっと粘り気のある、所有欲の底が透けて見える種類の視線だった。
「カヤ姫よ……」
ナガツの声が、ねっとりと低く絡んだ。
「そなたこそ──いずれ、我が妻となる事は、前の長からの約束なのを、忘れたか?」
*
カヤ姫の頬が、ほんのわずか、強張った。
数日前、薬を父の口に無理やり流し込んだ時の、あの揺るぎない祭司の姿からは想像もできないほど、姫の肩は小さく後ろへ引かれていた。
そして──次の瞬間。
ユキヒコが、私の脇をすっと抜けて、カヤ姫とナガツの間に、割って入った。
*
十歳の、小さな背中。
黒曜石の槍は今日は置いてきている。丸腰だった。それなのに、少年はナガツの巨躯を真正面から見上げ、一歩も引かなかった。
ナガツが、ゆっくりとユキヒコの前に身を屈めた。刺青の入った頬を、子供の顔に近づけ、威圧するように低く唸った。
「なんだ? 童よ。俺に、文句があるのか?」
ユキヒコの唇が、噛みしめられた。
「……ッ!」
少年は、一瞬たりとも視線を逸らさず、副族長の目を睨み返した。
*
その時──。
鈍い金属音が、空気を裂いた。
アシカビが、腰の青銅剣の柄に、手をかけたのだ。
「いい加減にしろ、ナガツ」
若き族長の声は、低く、しかしはっきりと、剣の鞘の軋みと共に、広場に響いた。
「カヤが巫女になった以上──お前に嫁ぐ事は、無い」
*
ナガツの顔が、歪んだ。
ゆっくりと立ち上がり、こちらも腰の剣に手をかける。
「我らの、古くからの盟約を、破る、というのか?」
【古代倭国における族内婚と巫女制──弥生時代から古墳時代初期にかけての日本列島では、有力氏族間の婚姻が部族同盟の重要な基礎となっていた。『魏志倭人伝』にも『其の風俗淫らならず……婦人貞節嫉妬せず』と、倭国の婚姻慣習に関する記述がある。一方で、巫女として神に仕える女性は『神の妻』として扱われ、人間の男との婚姻を禁じられる例が多かった。卑弥呼が『夫婿無し』と記されるのはこのためである。『古事記』において、伊勢神宮に仕える斎宮の制度もまた、この巫女不婚の原則を制度化したものとされる。カヤ姫が「巫女になった」という宣言は、ナガツとの婚約を一方的に破棄する、古代祭祀における最も正統な根拠だった。だが裏を返せば、それは部族同盟の均衡に亀裂を入れる、政治的な決断でもあった】
*
ミタイ族の若き族長と副族長が、互いの腰の剣に手をかけたまま、見合った。
篝火の炎が、二人の顔を交互に赤く染めた。
広場の村人たちが、一斉に息を呑む気配が、空気越しに伝わってきた。
私とユキヒコも、動けなかった。このまま、この二人が剣を抜けば、ミタイ族は血を見る。しかも祭りの夜に、神の杜の前で。
*
その時──。
するりと、白い袖が、ナガツの剣の柄の上に被せられた。
「ナガツさん……」
ネリだった。
あの男が、音もなくナガツの横に立ち、副族長の手の上に、自分の手を優しく重ねていた。
「我らが神は、無用の争いは望みませんよ?」
ネリの声は、甘く、低く、穏やかだった。それでいて、ナガツを諫めている、というよりは、むしろ飼い主が犬の首輪を引いている、というような響きがあった。
「……ネリ様」
ナガツは、はっきりと、"様"をつけて応じた。そして、剣の柄から、素直に手を離した。
*
私は、その光景を見て、理解した。
ナガツと、ネリ──この二人の関係性は、同盟ではなかった。
明確な、上下関係だった。
ナガツは、ネリの"信者"だった。
副族長でありながら、自分の族長アシカビよりも、このネリという外来者を上に据えている。それは、この共同体の構造が既に内側から静かに腐食し始めていることを意味する。
*
ネリは、ゆっくりとアシカビの前に、一歩、進み出た。その所作は優雅ですらあった。
そして、若き族長の顔を、穏やかに見据えた。
「アシカビさん」
ネリの声は、今度は、ナガツへの甘さとは違う、もっと冷たい、透明な響きだった。
「私は長い時間をかけて、この村の方々に"真理"を説いてきました」
*
周囲の村人たちの中で、幾人かの頭が、ほんの少し、下がった。
ネリはそれを視界の端で、確実に確認していた。そして、満足げに、わずかに頷いた。
「そして今や──ナガツさんたち、この村の半数近くが、アマテラス様の慈悲を、理解してくれた」
*
半数近く。
私は息を呑んだ。
この村、ミタイ族の、半数近くが。
──既に、この男に、染まっている。
*
ネリの言葉は、さらに続いた。
「アマテラス様を信じたものは──光の都に、誘われます」
篝火の炎が、ネリの背後で、ぐわりと高く燃え上がった。
「そこは、飢えも、寒さも、ない」
ネリの声に、抑揚が加わった。
「安楽な生活が、待っている」
*
私は、ユキヒコの肩を、そっと引き寄せた。
背筋に、寒気が走った。
飢えも寒さもない、光の都──。
その言葉は、時代を超えて、人類史のあらゆる場面で繰り返されてきた、支配の呪文だった。強者が弱者を従わせる時、いつだって最初に差し出されるのが、この約束だ。古代エジプトの神官も、中世ヨーロッパの伝道師も、ソビエトも、北朝鮮も、同じ口上を、少しだけ語彙を変えながら、使い続けてきた。
──二四〇年のヒムカで、同じ口上を、全く同じ構造で聞くことになるとは。
*
ネリは、一歩、前に出た。そして、アシカビを見下ろすように──しかし同情の仮面を被った目で──言った。
「いつまで、こんな所で──」
白衣の袖が、広場をぐるりと指し示した。竪穴式住居、高床倉庫、焚き火、土器、木の椀、村人たちの素朴な麻の衣──その全てを、ひとまとめに指し示した。
「──"獣のような暮らし"を、続けるのですか?」
二 石と、カネ
アシカビの頬が、かすかに震えた。
若き族長は、剣の柄から手を離したが、目の中の光は、抑えていたもう一つの怒りに火を点したようだった。
「……我々は、山の恵みで、生きている」
アシカビの声は、低かったが、今までで最も鋭かった。
「獣は、我々の友であり、生活の一部だ!」
*
ネリは、何も答えなかった。
代わりに、その隣でナガツが、ゴソゴソと胸元の布の内側を漁り始めた。
「愚かな。……これを、見よ」
ナガツの手が、胸元から何かを引き出した。
アシカビの眉が、ぴくりと動いた。
「!」
*
ナガツの掌の上で、夕陽を受けて、ちろりと光るものがあった。
勾玉だった。
大振りの、見事な曲線を持つ、一つの勾玉。
縞模様の美しい飴色と乳白の層が、層ごとに透き通り、表面は鏡のように磨き上げられていた。上部の孔には、紐を通すための小さな穿孔が、寸分のブレもなく貫通している。
──瑪瑙だ。
しかも、上質の、縞瑪瑙。
*
【古代日本における瑪瑙の勾玉──勾玉は縄文時代に誕生した日本列島固有の祭祀具である。当初は土や軟らかい石で作られていたが、弥生時代中期以降、硬玉、瑪瑙、水晶、碧玉といった硬質の石材を用いた高度な玉造文化が発展した。特に硬度六以上の瑪瑙に穿孔して磨き上げる技術は、高度な研磨技術と、管錐と呼ばれる特殊工具を必要とする。出雲の玉作遺跡、北陸の糸魚川(硬玉原産地)、九州の糸島などが弥生時代の玉造の中心地だった。三世紀の倭国において、これほどの瑪瑙勾玉を作ることができたのは、ごく限られた職人集団だけだった。『魏志倭人伝』が卑弥呼への贈物として記す『青大句珠二枚』──これがまさに、こうした瑪瑙または翡翠の勾玉に比定される】
*
ナガツは、得意げに、勾玉を掲げた。
「ネリ様から頂いた、玉だ」
副族長の声は、もはや誇らしさで震えていた。
「ネリ様の国では、このようなもんが、作れる」
*
私は、息を呑んだ。
──瑪瑙の勾玉。
硬い石に穴を開け、あそこまで磨き上げるなんて。
鉄器の普及間もないこの時代に──しかも、この山間部の共同体から見れば──相当な加工技術だ。平野部の、それも相当に組織化された玉造集団からしか、あの品質のものは出てこない。
ネリの背後には、明確に、一つの高度文明がある。
しかもそれは、ミタイ族の持たない技術を、持っている。
*
「ひれ伏せ」
ナガツが、勾玉を高々と掲げ直し、叫んだ。
「これこそが、アマテラス様の、力だ!」
*
一瞬、広場の空気が、ぐらりと傾いだ。
村人たちの幾人かが、その瑪瑙の輝きに、明らかに見惚れていた。磨き上げられた曲線、縞模様の透明感、貫通した穿孔──いずれも、ミタイ族の誰も持っていない、作れないものだった。
目に見える技術の優位は、目に見える形で、人の心を動かす。
どんな時代でも、どんな場所でも、それは変わらない。
*
だが。
アシカビは、ふっと、小さく笑った。
そして、胸元の自分の懐を、ゆっくりと、探り始めた。
「……そのような、石コロを貰って──」
アシカビの指が、懐の奥から、小さな、銀色に光る円盤を、引き出した。
「──数千年も、我らと共に歩んだ神を、裏切るとは。なんと、愚かな」
*
五百円玉だった。
今朝、私がアシカビの前に並べた、あの小銭入れの中身の、一枚。
夕日に照らされて、ニッケル黄銅の表面が、一瞬、純粋な黄金色に、燃え立つように輝いた。
*
「見よ!」
アシカビの声が、広場全体に、よく通った。
「これは、鹿光より賜りし、カネ──ヒヒイロカネだ!」
*
ナガツの目が、見開かれた。
「な、なんだ、これは!」
副族長は、思わず、半歩、身を引いた。
「ただの、丸い板ではないか!」
*
アシカビは、勝ち誇ったように、胸を張った。
「鹿光の使者である、タカシから貰ったものだ。貴様の石など、比べ物にならん!」
*
──出しちゃったよ……!
私は、内心で、頭を抱えた。
今朝、族長への贈物として差し出したあの五百円玉が、まさか数時間後に、別の宗派の信者との"神器バトル"の手駒として、広場で振り回されることになるとは。
しかも、アシカビの口上は、完全に"俺の台詞"を引き継いでいた。"決して錆びず、壊れぬ"──あの朝の私の口上の核心を、若き族長は一字一句、自分のものとして取り込んでいた。
──俺のハッタリを、すっかり自分のものにしちゃってるよ……!
だが、引くわけにはいかない。今、ここで五百円玉を取り下げれば、アシカビの威信も、鹿光の正統性も、全て崩れる。
私は唇を噛みしめて、表情を保った。不敵な笑み一つ、浮かべてみせる覚悟で。
三 高天原の、影
広場の緊張は、まだ解けていなかった。
アシカビは五百円玉を高く掲げ、ナガツは瑪瑙の勾玉を掲げ直した。二つの"神器"が、篝火の炎の中で、互いを睨み合うように、夕光を反射していた。
「フン、ハッタリを!」
ナガツが吐き捨てた。
「丸い板一枚で、何が神の証か!」
*
だが──。
ネリだけが、違った。
白衣の男の微笑みが、ふっ、と消えていた。
その両目が、じっと、アシカビの掌の中の五百円玉に、釘付けになっていた。
「……」
男は、何も言わなかった。
*
私は、その沈黙に、気づいた。
先ほどまで、アシカビの言葉を"無知の者の戯言"と受け流していたネリの余裕が、今、初めて、消えていた。
ネリの目が、五百円玉の表面を、端から端まで、舐めるように追っている。
白衣の男は、私が朝からずっと恐れていた通りの、"目"を持っていた。
*
「こ、これは……」
ネリの唇が、初めて、微かに震えた。
*
白衣の男の視線は、五百円玉の外縁の、完璧な真円に吸い込まれた。手打ちでは決して作れない、機械加工による真円。その表面の、目立たない微細な凹凸──貨幣の縁に刻まれた、細かな直線のギザギザ模様。そして、中心部に浮き彫りされた、微小な文字列。
"NIPPON"──その四文字を、ネリが読めるはずはない。だが、その四文字が"文字"であること、そしてそれが人間の爪の先ほどの大きさに精密に刻まれていることは、彼にも間違いなく認識できた。
*
【文字の微細刻印と古代認識──古代における文字の刻印は、石碑・青銅器・金印などの表面に、彫刻刀で一文字ずつ手作業で彫り込むのが標準であった。漢委奴国王金印(江戸時代に志賀島で発見、西暦五七年後漢光武帝下賜)の一辺の文字は、約七ミリ角。これが当時の文字刻印の限界精度に近い。五百円硬貨のNIPPONの文字は、わずか一ミリ前後。これは古代中国の工人でも、いかなる技術を駆使しても再現不可能な微細加工である。古代の権力者や知識人が、もしこの硬貨を手に取ったなら──彼らはその文字を読めずとも、"これを作る技術"が自分たちの知っている世界の外側のものだ、ということを、正確に悟っただろう】
*
ネリの額に、一筋の冷や汗が、すっと流れ落ちた。
──歪み一つない、完璧な円。鋳造のムラもない。
私には、ネリの胸の内が、透けて見えるようだった。
我らの国の職人でも──これは、作れない。
その事実が、白衣の男の、自信に満ちた世界観の、一点に、細い亀裂を入れた。
*
次の瞬間、ネリの顔が、ばっ、と上がった。
そして、その両目が、真っ直ぐに、私の顔を、射抜いた。
「あなたは──何者ですか」
ネリの声は、もう、甘い微笑みを纏った先ほどの声ではなかった。
低く、鋭く、尋問する者の声だった。
「!」
私は、ビクッと、肩を震わせた。
*
アシカビが、すかさず、割って入った。
「言ったであろう。タカシは、我らが神、鹿光の使いだ、と」
だが、ネリは若き族長を、見もしなかった。
「……私は」
ネリの声が、さらに鋭くなった。
「この方に、聞いているのです」
その迫力に、アシカビも言葉を詰まらせた。
*
ネリは、一歩、私に詰め寄った。
白衣の裾が、草の上で微かな音を立てた。
篝火の逆光の中で、男の顔の輪郭が、黒く影になった。ただ両目だけが、篝火の火を反射して、二つの点のように、光っていた。
「答えなさい」
ネリの声は、低く、粘っこく、底の知れない圧力を伴っていた。
「どこの、国の、手の者です? ──この技術、只人では、ない」
*
私の背中に、脂汗が、じわりと滲んだ。
──この男、気づいている。
五百円玉を見ただけで、これが"この時代の倭国のいかなる国家からも産出しえないもの"だと、一瞬で察している。そしてそれを察せる観察眼と技術知識を持っている、ということは──。
白衣の男の背後の文明は、単に勾玉を作れる程度ではない。
──相当に、深い。
*
「わ、私は……」
唇が乾いた。
ここで嘘をつけば、この男はあっという間に見抜くだろう。かといって、"実は二千年後の未来から来ました"などと答えれば、この場の全員が狂人を見る目で私を見るに違いない。いや、ネリだけは違うかもしれない──という恐怖すらあった。
私は、腹に力を込めた。
そして、視線を一切逸らさずに、応じた。
「……神の、使いだ」
低く、確信を込めた響きで。
「それ以上でも、以下でもない」
*
数秒の沈黙。
篝火が、ぱちり、と爆ぜた。
ネリは、じっと、こちらを見つめていた。そして、やがて──。
ふっ、と、口元だけで、笑った。
「ふふ……なるほど。口は、堅いようだ」
白衣の男は、ゆっくりと、一歩、後ろへ下がった。
*
「行きましょう、ナガツさん」
ネリは、副族長に、静かに声をかけた。
「今宵は、ここまでのようです」
「は、はい……」
ナガツは、明らかに納得のいかない顔で、それでも白衣の男に従った。副族長にとって、ネリの判断はもはや、自分の判断より上だった。
*
二人は、踵を返し、篝火の向こうへ歩き出した。
だが──。
広場の半ばまで進んだところで、ネリが、ふいに、振り返った。
「鹿の神の、使いよ」
白衣の男の声が、闇の中から、低く、しかしよく通る響きで、飛んできた。
「覚えておきなさい」
*
私は、息を詰めた。
ネリの唇が、ゆっくりと動いた。
「我ら、高天原の民は──偽りの神を、許さない」
*
「!!」
ドクン、と、心臓が跳ねた。
胸の内で、鈍い鐘のような音が鳴った。
*
【高天原という語──『古事記』『日本書紀』において、神々の住まう最高の天の領域を指す。天照大神が主宰するこの天界は、地上の葦原中国と明確に区別される神話的空間である。天孫降臨神話において、ニニギノミコトは高天原から葦原中国へと降臨する。興味深いのは、高天原という語が単なる神話的比喩ではなく、実在した古代の地名・氏族名に由来する可能性があることだ。宮崎県高千穂町には「高天原」と呼ばれる一角が実在し、大分県中津市本耶馬渓には天岩戸の伝承地がある。邪馬台国・九州説を採る論者の中には、高天原は実在の地政学的勢力であり、天孫降臨とは、大陸文明の影響を受けた先進集団が九州山間部に侵入した史実の神話化である、と論じる者もある。──ネリが口にした"高天原の民"という自称は、この神話と史実の境界線を、鋭く揺さぶる名乗りだった】
*
高天原──。
それは、アマテラスの住む、天の領域。
日本神話において、皇室の祖神たちが集う、最高の聖域。
そして、地上の倭国を"葦原中国"と呼び、見下す、上位の世界。
その名を、この男は、自分たちの出自として、名乗った。
──やっぱり、こいつらは。
*
ネリの白衣が、篝火の光の縁を、音もなく滑り、やがて闇の中に溶けた。ナガツと部下たちの足音が、遠ざかっていく。
残された広場に、妙な静寂が落ちた。
アシカビが、ゆっくりと、剣の柄から手を離した。カヤ姫が、兄の背中に、そっと寄り添った。ドグリとマグリが、互いの顔を見合わせていた。
私は、まだ、動けなかった。
掌の中のユキヒコの小さな手が、いつの間にか、父の指を強く握りしめていた。その温もりだけが、今、この現実に繋ぎ止められている唯一の楔のように感じられた。
*
二四〇年のヒムカの、祭りの夜。
広場の中央で、篝火だけが、変わらず、ごうごうと燃え続けていた。
その炎の向こう側に、たった今、名乗りを上げた勢力があった。
──"高天原"。
日本神話で、太陽神アマテラスの住まう、天の領域。その名を、地上の一勢力として、堂々と自称する者たちが、いた。
天孫降臨神話は、もしかしたら──。
単なる神話ではないのかもしれない。
今、この時代、この地で、現実に進行している、一つの侵略の、未来の記憶なのかもしれない。
私は、息子の小さな手を握りしめたまま、ただ、遠ざかっていく白衣の残像を、見つめ続けていた。
(第十六話 了)




