第15話 鹿の神の社
第15話 鹿の神の社
「神との契りの証、確かに受け取った」
アシカビは五百円玉を置き、私を見た。
ひとまず、贈り物は気に入ってもらえたらしい。背中の力を抜きかけたところへ、先ほどの問いが戻ってきた。
「して、お主らを遣わした神とは?」
「……鹿の神、鹿光様です」
様をつけたのは、初めてだったかもしれない。
私を山に放り出し、猿に噛まれたことまで笑った相手だ。だが今は、恩知らずな使者だと思われるわけにもいかない。
周りの顔が、一斉に上がった。
「やっぱり、そうやっちゃが!」
ドグリが膝を叩く。マグリも大きく頷いた。
予想していた反応と、少し違った。
「昨夜、山が天を突くように輝いた。あれは鹿の神のお出ましか?」
アシカビが尋ねた。
私は思わず、入口を振り返った。そこからあの草原が見えるわけではない。
昨夜。光。車の外。
「お父さん、何のこと?」
ユキヒコが袖を引く。
「……昨夜、鹿光が出たんだよ」
「えっ。僕、知らないよ」
「ああ。覚えてないみたいだったから」
私も夢だったかと疑っていた、とは言いにくかった。
端末の電池に続いて、今度は目撃者まで現れたのだ。どうやら本当に、私はあの神と話していたらしい。
だが、それより気になることがあった。
「アシカビ殿は、鹿光をご存じなのですか?」
「俺が子供のころから、何度もお姿を見ておる。村に社を設け、代々祀ってきた神じゃ」
私は口を閉じた。
私たちだけに現れた、不思議な鹿。
そう思っていたものを、この男は子供のころから知っている。
「この村で、祀っている……」
「そう言ったではないか。何を驚く」
「いや。私たちを連れてきた神が、ここにもいるとは思わなくて」
「神の使いが、自分の神の社を知らんとはな」
アシカビが笑った。
私は笑えなかった。自分で名乗った肩書について、相手の方が詳しかった。
「ちょうどよい。今宵は祭りだ。案内しよう」
長が立つと、カヤ姫も立ち上がった。
「ユキヒコ、一緒に行こう」
「う、うん」
息子は素早かった。
私は荷物を持ち直し、アシカビが懐へしまう硬貨を目で追った。神秘の金属を持ち出さなくても、名前を言うだけで通じたのではないか。
今さら考えても、遅かった。
*
外へ出ると、空が赤くなっていた。
家々の間を人が行き来し、枝を束ねたものや食べ物を運んでいる。私たちを見て手を止める人もいたが、皆が珍客にかまっていられるほど暇ではないらしかった。
カヤ姫も、途中で女に呼び止められた。指さされた籠を覗き、何か答える。それからこちらへ戻ってきた。
「こっちやっちゃ」
息子がついていく。
私は、その二人の後ろを歩いた。ユキヒコはカヤ姫の歩く速さに合わせようとして、少しだけ足を急がせていた。
村の奥に、木々がまとまって生えている場所があった。
その手前で、カヤ姫が足を止めた。
「ここが、我らの神の杜じゃ」
太い木の根元に、食べ物が置かれていた。
大きな石があり、そのそばにも小さな器がある。石を積んだもの、屋根をかけたものが、木々の間に点々と続いていた。
何も知らずに歩いていたら、祠だと気づかなかったものもあっただろう。
カヤ姫が、その一つへしゃがんだ。
「これは、猪の社。山の神さんじゃ」
猪の頭蓋骨があった。
続いて、蛇の描かれた石を示す。
「こちらは川の神。大蛇が姿を変えたものと言われとる」
「石になったの?」
「そう伝わっとるっちゃ」
ユキヒコは、石のまわりを覗き込んだ。寝ている動物を起こさないようにしているような、慎重な動きだった。
次の祠には、灰が供えられていた。
「これは火の神。竈火の社じゃ」
「火にも、いるんだ」
息子が私を見た。
火をつけた日、飲める水ができた。魚が焼けた。夜の寒さをしのげた。
私にも、灰を大事に供える気持ちが、以前より少し分かる気がした。
「神様って、こんなにたくさんいるんだね」
「この世のあらゆるものに神は宿る。だから祀るんよ」
カヤ姫は、器の位置を少し直した。
頭の中に、アニミズムという言葉が浮かんだ。自然のものに霊や意志を認める、と、本で読んだ説明が続きかける。
私はそれを口にしなかった。
彼女は今、分類の話をしているわけではない。
毎日つき合っている相手を、一人ずつ紹介しているようだった。
しかも、そのうち一柱については、私も口の悪さまで知っている。
「タカシ。こっちだ」
アシカビが、少し大きな祠の前へ立った。
扉に手をかけ、開く。
奥に、鹿の角が置かれていた。
枝分かれした先が、差し込む夕日の中へ伸びている。
「鹿光の社じゃ」
「これは……鹿光の角ですか?」
「と、村には代々伝わっておる」
私は腰を屈めた。
昨夜の光の角とは違う、物の重さがある角だった。誰かが拾い、運び、ここへ納め、そのあとも長く守ってきたのだろう。
真偽を尋ねようとして、やめた。アシカビも、伝わっていると言っただけだ。
私は昨夜の文句を思い出した。
「鹿光は、鹿を狩ると怒ります。仲間を奪うなと」
「ならば俺は祟られるかもしれんな。幾度も狩ってきたからな」
「……いや。生きるためですから。それは仕方ないでしょう」
即座に答えてしまった。
アシカビがこちらを向いた。
「神の使いが、神に逆らう男を庇うのか」
ユキヒコが、小さく笑った。
私は咳払いをした。
「私も狩ろうとしましたので」
「獲れたか?」
「……いえ」
後ろでドグリとマグリまで笑った。
アシカビは祠の扉を戻し、私へ向き直った。
「やはり不思議な男だ。奇妙な衣を着て、見たこともないカネを持ち、恐ろしい光まで使うと聞く」
二人が、笑うのをやめた。
「だが、威張りもせず、こうして我らと膝を突き合わせる」
私は視線を上げた。
こちらは、どうにか信用してもらおうと必死だった。その必死さまで、相手には見えているのかもしれない。
「同じ神の使いを名乗っても、あの男より、よほど信用できる」
カヤ姫の顔から、笑みが消えた。
「……ほかにも、神の使いが?」
私が尋ねると、背後から声がした。
「くだらぬ、くだらぬ!」
*
振り向くと、男が三人いた。
先頭の男は、私たちではなく、アシカビを睨んでいた。太い首に、盛り上がった肩。腰には剣がある。
その後ろの二人も、武器を持っていた。
「長よ。勝手によそ者を入れてもらっては、困りますな」
「ナガツか」
アシカビの声が変わった。
先ほどまでのように笑って、相手の反応を待つ声ではなかった。
「この者たちは鹿光の使者だ。よそ者として追う理由はない」
「鹿光の使いだと?」
「そうだ。そなたが従っておる男の方こそ、よそから来た者ではないか」
ナガツの目が細くなった。
私は、いつの間にかユキヒコのそばへ寄っていた。
夕方の風が木々を鳴らす。少し離れた村の声だけが、場違いに明るく聞こえた。
「たぶらかしている、などと思われては心外ですねえ」
別の声がした。
ナガツの後ろから、白い衣の男が出てきた。
整えた髪。落ち着いた足取り。こちらの男たちとは、纏っている空気が違う。
男はアシカビへ、口の端だけで笑ってみせた。
「あなた方が知らない真理を、お教えしているだけですよ」
「ネリ。ここは我らの祭りの場だ」
「ええ。だからこそ、お伝えする価値がある」
ネリは私たちを一度見渡した。
私と目が合う。柔らかい表情の奥で、視線だけが動かなかった。
「我らが偉大なる、アマテラスの教えを」
息を止めた。
天照大神。私が知っている、あの神の名。
ついさっき、知らない神々を紹介されていた場所で、知りすぎている名前が出てきた。
私は白い衣の男を見た。
その名を、なぜ、お前が口にする。




