2、入道雲とえんらえんら
「ともきー」
私はあの日以来病院に来る事が習慣となっていた。母の見舞いという名目もあるのだけれど。
「今日は先生に褒められたんだよ。賢しいって、賢いってことだよね?」
「それは微妙に褒められてないよ……歌成ちゃん」
ため息をつきながら智喜は言う。私は何を言っているのか分からずに首を傾げると、もう一度ため息をつきながら、呆れた笑みを浮かべる智喜。
いま、私は、施設にいた。色々あって、だ。智喜はあの日、その色々を全部聞いてくれた、それが終わったときには面会時刻も終わっていた。
終わっていたのに私が病院にいられたのはお母さんの手術が終わっていないからでもあるけど、もう一つの理由があった。……面会時間が終わった後、智喜に連れられて待合室で待った。その後智喜は大人なお医者さん達とお話をして、私は家から施設に移された。
「お父さんのこと、怖い?」
「……」
ううん、とかぶりを振って私は答えた。
「お父さんのこと、嫌い?」
「……」
私は何も答えなかった。
「お父さんのこと、許せる?」
「……うん」
人は弱く、人は弱く、人は弱い。
本当は赦すのでさえないのだ。
無粋な程に。不様と呼んで良い位に。
世界には暴力なんて物は当然の様に溢れていて。
自分の母親を内蔵が破裂する程の勢いで殴りつけたのが、自分の父親だったとしても、驚きはしなかった。
――悲しいとは思ったけれど。
驚けなかった事が恐ろしくて智喜に言った。
すると、智喜は頭を撫でながら言ったのである。
『君は正しい、と思うよ。僕の意見だけどね。君は君の父親を信じる事が出来なかった――が、君の父親は実際に、信じるに足る人物ではなかった。君の見る眼が正しい事の何が咎になると思うんだい?』
そうして、慰めの言葉をくれて……けれど、その言葉に私は涙を流した。一番近しい人の一人を信じる事が出来ないという事が悲しくて。
それが自分の眼のせいだというならば。
涙をぬぐう動作と変わらず、目元に持って行った手の平で、眼球を。
『それは止めた方がいいよ、歌成ちゃん。悲しみに心を切り、痛みを感じ、体まで痛めれば……多分歯止めが無くなる。自死に至らなかったとしても、心は死ぬよ』
智喜はそう言って、私の目にあてがった手をはがした。笑みと共の前傾姿勢。車いすから降りられぬ彼の精一杯の伸び。
う、と私は詰まる声を出した。手を取られて、成そうと思った事を成せないと理解した諦めから、そしてもう一つは少女らしい物で。
(泣き顔を見られている)
という思い。
それは羞恥から照れとなり、隠したいという思いに駆られる。
『あ』
と、驚いた声をあげたのは智喜。理由は力から。
私の顔を隠したいと思う思いが、後先の考えなしに手を頬へと引き寄せる動きを作り、少女相当の力しかないそれは、けれど、入院生活で筋力の落ちた少年の、それも車いす上の不安定な姿勢にとっては大きな物で。
が、という音と、ばさ、という音が重なった。
一つ目の音は車いすが芝生の上に倒れる事で部品同士の衝突を起こしならした金属音で。二つ目の音は二人の少年少女が互いの重量に倒れた事による衣擦れの音だ。
『あ』
と、先と同じ音をあげたのは、今度は私だった。
理由は開いた目のすぐ前に顔があったから。
……顔が在り。眼が合った。
私の目元は多分、涙を流した事により赤く腫れており。
見られる事が恥ずかしいという思いと。
(もう見られた)
という、焦燥と開放感がある。
――顔は隠せない。
私が手を引いたときにつられて智喜が倒れたという事は手と手が繋がっていると言う事であり上に重なっている智喜の手が私の上にあるのは自然だ。その体勢は押し倒されたと言っても差し支えの無いもので。
『――』
沈黙があった。
意味のない。
だが、意味ありげな沈黙が。
一秒、二秒とその沈黙の継続にしたがって智喜の顔が赤くなる。
『なにやってるんですかー!』
看護婦さんに見つかった。
『だ、大丈夫ですか……えと、椎原歌成ちゃん!』
言いながら、看護婦さんは智喜の脇の下に手を通して車いすに座らせた。
『な、泣いてる。と、智喜君がなんかしましたか……芝生の上に泣いてる女の子を押し倒してする様な、何かを!』
なんだかよく分からなかったが、このままでは智喜が悪者にされてしまいそうだったのでしゃくり上げながらだが、先ほど起こった事を説明した。智喜も何度か口を挟もうとしたが、看護婦さんの視線で黙らされた。
説明が終わると看護婦さんは、よーくわかりました、と言った。
胸をなで下ろす私と智喜に対し。
『つまり、恥ずかしいところが赤くなってるのを見られて、隠そうと手を動かすと、のしかかって押し倒されたというわけですね? そして、歯止めがきかなくなる、と』
智喜の顔が先ほどの赤からなぜか青くなっていた気がするが、看護婦さんの言っている事は正しいとは言えなかったが間違ってはいなかったので、うん、というと智喜の顔色は青から白に変わった。
――その日はなぜか智喜は別室に連れて行かれ、次の日まで会えなかった。
「施設はどう?」
智喜は何気ない口調で聞いてきた。
「どうって?」
「楽しい?」
薄く笑みを浮かべている。
「瑠璃ちゃんって子と仲良くなったの。ピアノを弾くの」
「へぇ、楽器か。それは凄いな……僕は体力がないからさ」
楽器と体力という単語が繋がらない。
「演奏ってやっぱり表現だからさ舞台上とかで全身全霊を使うとやっぱり疲弊すると思うよ」
けれど、それなら。
「ともきは?」
「――え?」
「絵を描くのも表現。体力は?」
そういうことか、とうなずく智喜。
そう、車いすの智喜が、最初の日に私を見つけたのも、散歩中に偶然というのではない。外の風景をカンバスに写していた智喜が、私を見つけたのだ。
「音楽は、音の連なりだよ。一人なら、トリオ、や、カルテットになれば、調和でもあるのだろうけど。それに対して、絵画の美しさは色の連なりというよりも、調和だと思うんだよ」
「……?」
「あー、そうだね。音楽は一つの音から次の音までがすぐに来るけど、絵画は必ずしもそうじゃない。勿論技法や道具にもよるんだけどね、絵の具が乾く前に次の筆を入れなければならないという場合も勿論あるのだろうけれど。それ以外は気持ちの問題だ、と思うよ。僕のレベルでは」
「気持ち?」
「うん、一つの絵に表現したい気持ちを次に書くときまで持続させる事が出来るならば、もしくは再現できるならば。一つの絵としての調和は存在すると思うんだ」
「……?」
「えーっと。僕は歌成ちゃんと会えると嬉しい。それは多分、次、歌成ちゃんが会いに来てくれても同じように嬉しい。だから歌成ちゃんが一緒にいてくれたら、僕は嬉しい気持ちの絵が書ける……ってこと」
「うんっ」
嬉しくなって、元気に頷く。
「――じゃあさ、今描いてる絵が終わったら、今度は私が見てるところで『嬉しい』の絵を描いてよ」
私の言葉、それは、無邪気な無垢なものだった。あるいは、無慈悲な。――けれど、一瞬、表情に空白をあけた智喜は。
「そうだね、そうしようか」
といって、笑ったのだった。




