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3、逃げ水を捕まえて

 おかあさんは、あと三日で退院できるらしい。

 お医者さんにそう聞いて、最初によぎったのは無論喜びであり、次によぎったのは寂しさであった。

 理由が無くなる事への。

 無論、それは理由の一つが無くなったというだけだ。別に、病院に来てはいけないわけではない。

 そう思う事で気分が一つ軽くなった。

「おかあさん、私。友達ができたの」

 と、ベッドに横たわる母親に告げる。

「あらあら、それはよかったわね」

 母親は、顔だけをこちらに向けている。少し疲れたと言っていたけれど、話すくらいなら良いと許可をとった。

「どんなお友達なの?」

「えっと、この病院に入院してるの、車椅子」

「あら、それは大変ね。大丈夫なの?」

「大丈夫、って、智喜は言ってた」

「ともきくんっていうの?」

「うん、ちょっと年上なの」

「あら、遊んで貰ってるの?」

「ううん、一緒に遊んでるんだよ」

 相手の方が『おとな』、だからという事で、対等(だと思ってる)な関係を壊して欲しくなかった。

 だから私はムキになって言い返した。

 その程度の子供の機微はお見通しらしく、母親は笑顔のままで、ごめんなさいね、と謝った。

「お母さん、寝てて良いよ」

「あら、そう? ともきくんのところにいくの?」

「うんっ!」

「ふふ、ともきくんも入院してるんだから疲れてるみたいだったら無理させては駄目よ」

「わかってる!」

 私は母親の病室から飛び出した。そして、智喜の病室を覗く。カンバスが二枚、二本のイーゼルに立てかけてあった、それは前にも見た光景だ。

 此処にはいない。

 その時、後ろに看護婦さんが通りかかった。

「かんごふさん、ともき、は?」

「智喜君? 今は、検査の途中だと思うけど、智喜君の部屋で待たせて貰ったら? 二十分ぐらいで帰ってくるわよ」

「そうなの?」

「うん」

 確認を取って、智喜の部屋の中に入った。

 個室だ。七階建ての病院の六階、ただし、番号は708号室。

『僕は絵を描く道具さえおけたら、広い部屋なんて要らないんだけどね』

 というのが、智喜の談だ。

 でも、広い。入り口のドアを潜って、奥の壁まで十三歩。そこで角度を変えて右に七歩、左に四歩のスペースがある。単純な長方形の部屋ではないが、ある程度の広さは分かる。

 ベッドの向かい側、冷蔵庫と机の間に幾つもの組み立てられていないイーゼルがある。カンバスは自分で張ったと言っていたきつく張られて少し皺のあるものが一枚と、既製品の少し緩いが皺のないものが三枚ある。

 奥に入って、立てられているカンバスの物と入り口からは見えなかったもう一つのカンバスがあった。それはベッドのすぐ横にある物で。最近、智喜が描いている物がそれであると分かる。

 カンバスに描かれているもの、一つは魚だった、鮭か何かが木の板の上にあるのが描かれている。――これは模写だと言っていた。油絵の具で描かれている。

 もう一つに描かれている物はよく分からない。石、だろうか、石垣といっても良いのかも知れない。果てが見えない石の連なりが画面の端まで描かれている。そこに描かれている石は全てその種類が違うようだ。粒子の粗いモザイク画のようにも見える。オイルクレパスでリアルに描かれている。

『風景画だよ、心のだけど』

 という事らしい。

 最後の一枚、描きかけの絵は。

「あ、うー?」

 分からない。端的にいえば、これも風景画、なのだろう。

 病院の庭の木立にも見える。庭から見える風景を描いた物、なのかもしれない。けれど。

 下書き、なのだろう、木炭で書かれているのは『死の風景』。水彩の絵の具で描かれているのは『生の情景』。

 そう思えた、それ以上を思うのは無理だけど。

 どれもが私の心に響く。

 模写は、さほどではないにしろ。

 石垣は、安心とも諦観ともつかない思いを心の中に芽生えさせたし。木立の絵は、どうしようもない痛みと共に心に忍び込んだ。

 悲しみが痛い、と言う事を知る。同時に、受け入れる事に甘美さを感じる痛みがあると知る。

 ――智喜の絵を初めて見た。

 これまでは智喜の手元を覗く事はできなかった。

『興味本位に覗けば、言語化できない抽象が確定されてしまう』

 とか、

『深淵を覗き込んだときお前も深淵に覗かれているのだ』

 とか、

 私の一番近しいところにいた絵描きはそのような文言を持って、私が描いている途中の絵を見る事に激昂した。それが暴力を伴う事は一度も無かったけれど。

 その絵描きの完成作の絵の数倍にも当たる訴求力をこの描きかけの絵は持っていた。

 近しい絵描き――父親の絵にも肌が粟立つ微かな感覚を受けた事は会ったけれど、芯に響いた、心に響いた事は無かった。

 だからこれは、

「あ」

 声が漏れた。心を圧す力に押し出された分が声となって漏れ出したのだ。

 それは声だけではない。圧されたのが肺ではなく心だったから。

 もう一つ溢れた物は頬を伝った。

 あ、の音と涙。

 胸を衝かれた。

 多分、そうか、これが、

 思ったのは、少し違うこと。

 フィクションの中でしか、知らなかったことだ。

 切ない、痛い、欲しい、追いつきたい、そばにいたい、並びたい、触れたい、それが、狂う程に。

 がら、と音がして、扉が開いた。

 きぃ、と音がして、車輪が軋む。

 あれ、と声がして、智喜が笑う。

 あー、鳴声をあげ、私は智喜に抱きついた。

 

 多分そうだ。勘違いかも知れなくて。拙いかも知れなくて、幼いかも知れないけれど。

 私は恋をしたのだ、きっと。

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