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第9話 半分ずつでは消えないもの

第9話 半分ずつでは消えないもの


 第二回の調停を終えた夜、麗子は食卓に訴訟関係の案内を広げていた。窓の外では五月の雨が降り、専用庭の紫陽花には、まだ緑色の小さな蕾しかついていない。夕食に買った海苔巻きは蓋を開けたまま乾き、醤油の小袋だけが破られずに残っていた。


「裁判にしてください。あの人の嘘を、裁判官の前で全部暴いてやります」麗子は森山弁護士へ電話をかけ、机の上の反訳書を指で叩いた。電話の向こうでは紙をめくる音がしたあと、短い沈黙が続いた。


『訴訟へ進むことはできます。ただし、麗子さんが望む結論になるとは限りません』森山は、離婚訴訟になれば双方がさらに主張と証拠を提出し、解決まで時間がかかる可能性があると説明した。弁護士費用も増え、何度も書面を確認し、場合によっては本人尋問で録音について答える必要もある。


「録音なんて、夫婦の会話を盗んだ卑怯な物でしょう。そんなものが証拠になるなんて、おかしいわ」


『録音の方法や内容は裁判所が判断します。しかし、御本人が会話の当事者で、継続性を示す他の資料もあります。必ず排除されるとは申し上げられません』


「でも、私は家事をしたのよ。三十年間も、あの人を支えたんです」


『その貢献は財産分与で評価されます。けれども、それと暴言の有無は別の問題です』


 麗子は電話を耳から離し、乾いた海苔巻きを一つつまんだ。酢飯は硬く、胡瓜の端は水分を失って白くなっている。秀夫がいれば、残り物だから自分が食べると言って片づけただろうと考え、麗子は海苔巻きを皿へ戻した。


「翔太と結衣に、私が裁判をするって話してもいいでしょう?」麗子が尋ねると、森山は子どもたちを交渉材料にしないよう念を押した。すでに二人が距離を置いている状況で、どちらの味方をするか迫れば、関係がさらに悪化する可能性があるという。


『離婚する相手へ怒りを伝えることと、自分の今後の生活を守ることは同じではありません。訴訟を選ぶなら、その違いを理解したうえで進める必要があります』


 電話が終わったあと、麗子は炊飯器を開けた。中には何も入っておらず、蓋の裏に古い水滴が残っている。秀夫が出ていってから二か月が過ぎても、米を炊く時刻を決められない日があった。


「私の今後なんて、あの人が考えることでしょう」麗子は呟いたが、返事をする者はいなかった。海苔巻きは捨てず、皿へラップをかけて冷蔵庫へ入れた。


 数日後、相沢法律事務所で自宅マンションの査定資料が確認された。秀夫と麗子が三十年前に購入した三LDKで、住宅ローンは残り五年ほどある。設備は古く、浴室の換気扇も交換が必要だったが、駅に近いため、購入時より高い査定額が提示されていた。


「売りません。ここは私の家です」麗子は査定書を机へ押し返した。薄い黄色のブラウスを着ていたが、第二ボタンがずれ、襟元が片方だけ高くなっている。


「売却せず、麗子さんが取得する方法もあります」相沢は感情を交えずに答えた。住宅ローンの処理を行い、秀夫が受け取るべき持分相当額を麗子が支払えるなら、自宅を残す案も検討できる。


「どうして自分の家を買い直すみたいに、お金を払わなければならないの?」


「秀夫さんにも権利がある共有財産だからです」森山が麗子へ説明した。麗子は腕を組み、秀夫の退職金から払えばよいと言い出した。


 相沢は退職金について、現時点で会社から取得できる試算資料を提示した。支給の確実性、退職までの期間、婚姻期間中に対応する部分を考慮して、清算の対象となる額を検討する。将来受け取る全額を、今すぐ麗子へ渡すわけではなかった。


「あなた、退職金まで隠すつもりだったの?」麗子は秀夫を睨んだ。秀夫は、試算書を自分から提出したことを静かに伝えた。


「預金も保険も退職金の見込みも、隠していない。君の名義になっている定期預金も、二人で暮らした間に作った分は一緒に整理する」


「私の定期預金は、私が食費を節約して残したお金よ」


「だから、全部俺の物だとは言っていない。全部君の物でもないと言っているんだ」


 麗子は返事をせず、鞄の留め金を何度も開閉した。結婚以来、家計を預かり、自分名義の口座へ移した金は、自分の工夫で作った成果だと考えていた。しかし、夫の給与から積み立てた金である以上、名義だけで一方の物になるわけではなかった。


 数回の協議を経て、自宅は売却する方向で話が進んだ。麗子一人ではローンの引き受けと持分相当額の支払いが難しく、秀夫にも住み続ける意思はなかった。不動産会社が室内の写真を撮りに来る日、麗子は朝から食器棚を拭き、黄色いフリージアを食卓へ飾った。


「この傷は、修理してから売ったほうが高くなりますか?」麗子は、居間の柱についた鉛筆の線を指差した。翔太と結衣の身長を測った跡で、それぞれの日付と名前が書かれている。


「修理費のほうがかかるかもしれません。購入される方によっては、生活の跡を気にしない場合もあります」不動産会社の担当者は、傷が写らない角度から室内を撮影した。麗子は鉛筆の線を指でなぞり、消してしまおうとは言わなかった。


 マンションは二か月後、子どもが一人いる夫婦へ売却された。代金から住宅ローンの残債、仲介手数料、登記などの費用を差し引き、残額を財産分与の対象とする。預貯金と保険の解約返戻金も双方が開示し、相沢と森山が一つずつ照合した。


 麗子が専業主婦として家事と育児を担った貢献は、正当に認められた。年金分割も制度に従って行われ、秀夫の退職金についても、婚姻期間に対応する部分を基準に清算額が決められた。それとは別に、長年繰り返された人格否定と精神的な虐待について、麗子が秀夫へ二百万円の解決金を支払い、財産分与で受け取る額から相殺する案が示された。


「二百万円も払うなんて認めない。私は殴っていません」麗子は最初、書面を机へ置こうともしなかった。森山は、身体への暴力がなくても、継続的な暴言が争点になること、訴訟へ進めば金額が上下する可能性とともに、解決までの負担も増えると説明した。


「この条件であれば、財産分与、年金分割、退職金に関する争いも一括して終わります。受け取れる金額を確認してから判断してください」


「私は負けるんですか?」


「勝敗の札を渡される手続ではありません。麗子さんの生活を立て直すためにも、どこで争いを終えるかを決める必要があります」


 麗子は提示された計算書を初めて最後まで読んだ。解決金を差し引かれても、住み替えと当面の生活に必要な金は残る。ただし、秀夫の収入を自由に使い続ける生活へ戻ることはできなかった。


 最終の調停日、家庭裁判所の庭では白い紫陽花が咲いていた。空調の効いた待合室には、雨に濡れた傘の匂いが残っている。秀夫は売店で買った小さな鮭のおにぎりを食べ、相沢から最後の確認を受けた。


「これで終わっていいんだな」相沢が尋ねた。秀夫は、薄いビニールに残った米粒を指で取り、口へ入れてからうなずいた。


「取れるだけ取ろうとは思っていない。認めるべきものを認めてもらった。これ以上、麗子の言葉を聞くために時間を使いたくない」


 調停室で、合意内容が一項目ずつ読み上げられた。離婚すること、自宅の売却代金を定めた方法で分けること、預貯金と保険を清算すること、年金分割の手続に協力すること、退職金に関する清算、解決金、今後の連絡方法が確認された。互いに、ここで定めたもの以外の金銭を請求しないという条項も入っていた。


 麗子は白いブラウスに紺色のスカートを合わせ、首には何も巻いていなかった。百合の香水もつけておらず、代わりに雨で湿った髪から、使い慣れた椿油の匂いがした。書面の最後まで読み上げられても、麗子はペンを持たなかった。


「一つ、本人に聞いてもいいですか」麗子が言うと、調停委員は内容によると答えた。森山は麗子へ、小さくうなずいた。


「私が家事をしてきたことまで、全部無駄だったと言いたいの?」麗子は秀夫を見た。いつものように責める声ではなく、買い物の値札を確かめるときのような、低い声だった。


 秀夫は署名欄の上にペンを置いた。食卓に並んだ弁当、喘息を起こした翔太を抱いて病院へ走った麗子、結衣の運動会で徹夜して縫った衣装が頭に浮かんだ。正月に作った黒豆を褒めると、翌年から毎年同じ物を煮ていたことも覚えている。


「無駄だったとは言わない。君が作った弁当も、子どもを病院へ連れていった日も覚えている。家事を担ってくれたから、俺が仕事を続けられた部分もある」


 麗子は両手を机の下へ置き、少しだけ背筋を伸ばした。口元が緩み、秀夫の袖へ目を向けた。ワイシャツの左袖には、自分でアイロンをかけたときについた小さなしわが残っている。


「だったら、やり直せるでしょう?」麗子は椅子を数センチ前へ動かした。家を売る話も解決金の話も取り下げ、今までどおり暮らせると思ったのか、声には以前の強さが戻り始めていた。


「今度から言葉に気をつければいいんでしょう。あなたも、いつまでも根に持たなければいいのよ。夫婦なんだから、完全に分かり合えるわけじゃないもの」


「感謝していることと、もう一緒に暮らせないことは、両方本当だ」秀夫はペンを取り直した。麗子の口元から、浮かびかけていた笑みが消えた。


「君がしたことを全部悪かったとは言わない。俺が正しかったとも言わない。でも、死ねと言われる家へは戻らない。君の機嫌を見て、食べる物や着る服を決める生活も、もう続けない」


「私は本当に死ねなんて思っていなかったわ」


「君がどう思っていたかではなく、俺がその言葉を三十年聞いたことは消えないんだ」


 秀夫は調停調書に必要な確認を終え、離婚届の署名欄にも名前を書いた。続いて麗子がペンを持ったが、最初の一画を書いたところで指が止まった。森山が急かさずに待つと、麗子は何度か息を吸い、最後まで自分の名前を書いた。


「大城ではなくなるのね」麗子は署名した文字を見つめた。離婚後にどの姓を名乗るかについては、事前に森山から説明を受け、麗子自身が決めることになっていた。


「これから使う名前は、君が決めればいい」秀夫は答えた。初めて許可を出すような言い方になっていないか考え、言葉を付け足さなかった。


 手続を終えて部屋を出ると、麗子は廊下の窓辺で立ち止まった。外では雨がやみ、白い紫陽花の上に水滴が光っている。秀夫の靴音が遠ざかっても、麗子は呼び止めなかった。


 相沢と裁判所の玄関を出た秀夫は、濡れた石段で足を滑らせそうになった。相沢が腕をつかみ、離婚した日に転んで骨折する依頼人は初めてだと呆れた。秀夫は革靴の底を見て、そろそろ買い替える必要があると笑った。


「勝った気分はするか?」相沢が尋ねた。秀夫はすぐには答えず、庭の紫陽花を見た。白い花の中には、雨で茶色く傷んだものも混じっていた。


「勝ったとは思わない。三十年を半分ずつに分けても、言われたことも、言わなかったことも消えないからな」秀夫は折り畳み傘を鞄へしまった。書類上の結婚はその日で終わったが、三十年を忘れる必要はなかった。


「ただ、これ以上続けないことは、自分で決められた」


 相沢は駅前で何か食べて帰ろうと誘った。秀夫は少し考え、焼き餃子がいいと答えた。誰かと同じ物ではなく、自分が今食べたい物を口にしてから、雨上がりの道を並んで歩き出した。


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