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第8話 妻の三十年、夫の三十年

第8話 妻の三十年、夫の三十年


 第一回の離婚調停の日、朝から細かな雨が降っていた。家庭裁判所の植え込みでは淡い紫色の躑躅が咲き、濡れた花びらが歩道へ何枚も張りついている。秀夫は紺色のスーツに青いネクタイを締め、相沢と並んで玄関の金属探知機を通った。


「財布と鍵を籠へ入れてください」係員に言われ、秀夫は上着のポケットから小銭入れを取り出した。一円玉が一枚こぼれ、床を転がって椅子の脚へ当たった。相沢が拾おうとしたが、秀夫は自分でしゃがみ、指先でつまんだ。


「一円も無駄にできなかった頃の癖で、小銭だけはよく見つけるんだ」秀夫が言うと、相沢は笑わなかった。代わりに、一円まで記録してきたから今日提出できる振込明細があると答えた。


 待合室には長椅子と小さな丸机があり、壁には調停手続を説明するポスターが貼られていた。自動販売機で買った温かい緑茶は、取り出し口から出てきたときには少しぬるかった。秀夫はペットボトルの蓋を開け、ひと口だけ飲んで鞄へ戻した。


 麗子とは別の待合室へ案内されていた。顔を合わせないよう、呼び出される時刻も少しずらされている。秀夫はその配慮を聞いて、肩を背もたれへ預けた。


「裁判所へ来たのは初めてか」相沢が尋ねた。秀夫は会社の登記関係で法務局へ行ったことはあるが、家庭裁判所は初めてだと答えた。


「悪いことをしていなくても、こういう場所では靴音まで大きく聞こえるな」秀夫は磨いてきた革靴の爪先を見た。家を出てから自分で手入れを始めた靴には、右側だけ少し多く艶出しが塗られていた。


「今日は、どちらが善人かを決める場じゃない。離婚の意思、生活費、財産、今後の進め方を確認する。相手の言葉に一つずつ反応する必要はない」相沢は資料の順番を確認しながら言った。秀夫はうなずき、鞄の外ポケットに入れてきた胃薬へ触れた。


 最初に秀夫側が調停室へ呼ばれた。部屋には長方形の机があり、年配の男性と五十代ほどの女性の調停委員が向かい側へ座っていた。窓辺には造花の白い蘭が置かれ、その葉には薄く埃が積もっている。


「本日は、感情的な対立を深めることが目的ではありません。婚姻関係を修復する余地があるのか、離婚する場合には何を整理すべきか、一つずつお話をうかがいます」女性の調停委員はゆっくり説明した。秀夫は名前と住所を確認されたあと、離婚の意思は変わらず、同居を再開する考えもないと答えた。


「三十年間の結婚ですから、迷いがなかったとは言いません。ただ、家へ戻れば、また同じ生活になります。私はもう、妻の機嫌を確かめながら食事をしたくありません」


 男性の調停委員は、別居後の生活状況を尋ねた。秀夫は小さな賃貸マンションで暮らし、会社へも以前と同じように勤務していると答えた。洗濯で白いシャツと色物を一緒に入れ、薄い水色にしてしまった失敗まで話すと、女性の調停委員は口元をわずかに緩めた。


「生活そのものに、大きな支障はありません。味噌汁の若布はまだ適量が分かりませんが、食事も作っています」秀夫は膝の上に置いた両手を開いた。家へ戻らなければ生きていけない夫ではないと、まず自分へ言い聞かせた。


 麗子側の話を聞くため、秀夫たちは待合室へ戻された。廊下の向こうで扉が開き、白いジャケットを着た麗子が森山弁護士とともに歩いていく姿が一瞬だけ見えた。麗子は薄桃色のスカーフを首へ巻き、手には新品らしい黒い鞄を提げていた。


 一時間ほどして、秀夫たちは再び調停室へ呼ばれた。机の上には、麗子側が提出した家計表の写しが置かれている。食費、光熱費、管理費、美容費、交際費などが並び、収入欄には「夫からの支払いなし」と記載されていた。


「奥様は、別居後、生活費を一円も受け取っていないとおっしゃっています」女性の調停委員が用紙を示した。秀夫は鞄を開けようとしたが、相沢が先に書類を差し出した。


「別居した翌月から、双方の収入を資料にして算定した額を、毎月二十五日に送金しています。初月については、別居日からの日割り額も加えています」相沢は振込明細、銀行口座の履歴、麗子へ送った通知書を提出した。金額と日付はすべて一致し、振込先も麗子本人名義の口座だった。


「麗子さんは、この口座を御自身で指定されています。受領したという返信も残っています」


 秀夫は麗子から届いた短い文章を思い出した。《こんなはした金で生活できると思っているの?》と書かれていたが、受け取っていないとは書かれていなかった。女性の調停委員は資料を確認し、妻側へもう一度事実を確かめると告げた。


「生活費を止めるつもりはありません。離婚が成立するまでは、決められた額を支払います」秀夫はそう答えた。毎月の振込日を守ることは、麗子のためだけではなく、自分が不利な行動を取らないためでもあった。


 再び待合室へ戻ると、正午を過ぎていた。相沢は売店で買った梅のおにぎりを食べ、秀夫は持参した弁当の蓋を開けた。昨夜の焼き鯖と、小松菜のおひたし、少し硬く炊けた米が入っている。


「弁当まで作るようになったのか」相沢が言うと、秀夫は焼き鯖の小骨を箸で取り除いた。見栄えはよくなかったが、昼食代を節約するため、週に三日は自分で詰めるようになった。


「おひたしに醤油をかけすぎた。食べられないほどじゃない」秀夫は小松菜を一口食べ、顔をしかめた。相沢は自分のおにぎりと一緒に買った小さな卵焼きを半分よこした。


「お前は、失敗した物を全部一人で食べる癖も直したほうがいい。塩辛いなら残せ」


「一円まで拾えと言ったり、残せと言ったり、弁護士は注文が多いな」


 二人が話していると、別の待合室から麗子の高い声が聞こえた。扉が閉まっているため言葉までは分からなかったが、廊下を通った職員が一度足を止めた。秀夫は箸を置きかけ、焼き鯖の残りを見てから、もう一口だけ食べた。


 午後の聞き取りでは、麗子が振込を認めたことが伝えられた。ただし、受け取った金額が自分の生活水準に足りないため、「生活費をもらっていないのと同じ意味で言った」と説明しているという。相沢は反論せず、今後も同じ額を送金し、正式な算定が必要なら資料を追加すると答えた。


「奥様は、三十年間、専業主婦として家事と育児を担ってきたことを強く主張されています」男性の調停委員が言った。家計を管理し、二人の子どもを育て、夫が仕事に専念できる環境を作ったため、婚姻中の財産には相応の貢献があるという内容だった。


「その点について、申立人はどのように考えていますか」


「妻が育児と家事を担ったから、私は働き続けられました。その貢献を否定する気はありません」秀夫は迷わず答えた。翔太の喘息、結衣の弁当、毎年衣替えされた子ども服、麗子が家族のために動いた日々は、確かにあった。


「自宅も預貯金も、すべて私一人の物だとは考えていません。年金分割も財産分与も、制度と資料に従って進めます」


 調停委員二人は内容を書き留めた。麗子の主張を認めたからといって、離婚を撤回するわけではないことも確認された。秀夫は相沢へ視線を送り、次の資料を机へ出した。


「同時に、私が侮辱を受けた三十年も、なかったことにはできません。この二つは相殺される話ではありません」


 机へ置かれたのは、暴言の録音一覧と診療記録だった。何月何日、どこで、どのような言葉を言われ、その前後に何があったかが整理されている。胃潰瘍と不眠の通院期間も、暴言が増えた時期と重なっていた。


「妻が弁当を作ったから、私が死ねと言われても我慢すべきだったとは思いません。育児をした人に、配偶者の親を侮辱する権利が生まれるとも思いません」


 女性の調停委員は、録音の一部が提出されていることを確認した。匿名サイトの投稿については作成者を慎重に判断する必要があるが、本人から送信されたメッセージや音声との一致は、今後の手続で検討され得ると説明した。慰謝料が必ず認められるとは言わず、訴訟へ進めば双方の主張と資料が裁判官によって評価されることになると告げた。


「今日は、条件の確認について一度だけ同席してもかまいません」秀夫は相沢と相談したうえで申し出た。麗子が同意する場合に限り、離婚意思と財産開示について、同じ部屋で確認したいと伝えた。


 しばらくして、麗子が森山弁護士とともに調停室へ入ってきた。先ほどまで首に巻いていた薄桃色のスカーフは外され、白いジャケットの襟が片方だけ内側へ折れている。麗子は秀夫の向かいへ座ったが、一度も夫の顔を見なかった。


「双方とも、婚姻中に形成した財産の資料を開示する方向でよろしいですね」男性の調停委員が確認した。秀夫は同意したが、麗子は唇を引き結んだ。


「私の貯金まで半分にするんですか。あの人が稼いだお金を、私が節約して残したんですよ」麗子は鞄から家計簿を取り出した。赤い表紙の角は擦れ、ページにはスーパーのレシートや、結衣が幼い頃に描いた兎の絵が挟まっていた。


「大城さんは、奥様の家事や育児の貢献を認めています」女性の調停委員が伝えた。麗子は初めて顔を上げ、秀夫を見た。


「当然でしょう。あの人一人の力で、三十年働けたとでも思っているんですか?」


「思っていない」秀夫は短く答えた。麗子は背筋を伸ばし、家計簿を机の中央へ置いた。


「ほら、本人も認めているじゃないですか。私が家庭を守ったから、この人は課長にまでなれたんです。財産は半分どころか、私がもっと多くもらうべきです」


「その貢献と、離婚に至る事情は別に検討されます」女性の調停委員は静かに説明した。継続的な侮辱を示す録音や記録があり、訴訟へ進んだ場合には、麗子に不利な事情として評価される可能性もあると告げた。


「録音、録音って、夫婦の会話を盗み録りした卑怯者の言うことを信じるんですか?」麗子は机へ両手をついた。森山弁護士が袖を引いたが、麗子は腕を振り払った。


「私は仕事を辞めたのよ。子どもを産んで、毎日食事を作って、洗濯して、あの人の親戚にまで頭を下げたの。あの人のせいで、私は専業主婦にしかなれなかったのよ!」


 調停委員が、声を抑えるよう求めた。麗子は一度椅子へ座ったが、指は家計簿の表紙を強く叩き続けた。古いレシートが一枚、家計簿の間から床へ落ちた。


「あんな安月給の男に、私の三十年を使ったのよ。私がいなかったら、この人はシャツ一枚まともに着られなかった。洗濯も料理もできない、何の取り柄もない人間なんです!」


「麗子さん、発言を控えてください」森山弁護士が肩へ手を置いた。麗子はその手を振り払い、秀夫のネクタイを指差した。


「そのネクタイだって、結び目が曲がっているじゃない。私が直さなければ、そんな格好で会社へ行く人なのよ。死んで保険金を残すくらいしか、家族の役に立たないじゃない!」


 誰もすぐには口を開かなかった。窓の外で雨が強まり、白い蘭の造花へ暗い影が落ちた。麗子の呼吸と、壁掛け時計の針が動く音だけが、調停室へ残った。


 秀夫は自分のネクタイへ触れなかった。結び目が少し曲がっていることは、朝から知っている。けれども、それを直さない人間には死ぬ価値しかないとは、もう思わなかった。


「本日の同席はここまでにします」男性の調停委員が告げた。職員が麗子を別室へ案内し、森山弁護士も深く頭を下げてあとを追った。扉が閉まっても、麗子が廊下で何かを訴える声がしばらく聞こえていた。


 女性の調停委員は、机の下へ落ちたレシートを拾った。二十年以上前の子ども服の領収書で、裏側には、幼い結衣の字で「おかあさん、ありがとう」と書かれている。秀夫はそれを見てから、麗子側の資料として保管してほしいと頼んだ。


「妻が家族のために働いた証拠です。それも、捨てないでください」秀夫が言うと、女性の調停委員は透明な袋へレシートを入れた。麗子の三十年と秀夫の三十年は、どちらか一方を消せば解決するものではなかった。


 裁判所を出る頃には、雨がやんでいた。躑躅の葉には水滴が残り、雲の向こうから薄い日差しが落ちている。秀夫は相沢と近くの蕎麦屋へ入り、温かい山菜蕎麦を頼んだ。


「反論しなくてよかったのか」相沢が七味唐辛子を振りながら尋ねた。秀夫は蕎麦をすすり、蕗の薹の苦みを噛んでからうなずいた。


「あの部屋にいた人が、全員聞いた。俺が説明する必要はない」秀夫は箸を置かず、最後まで自分の速さで食べた。曲がったネクタイは、店を出るまで一度も直さなかった。


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