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第7話 母を捨てる子どもたち

第7話 母を捨てる子どもたち


 離婚協議の翌朝、麗子は七時を過ぎても寝室から出なかった。薄い灰色のスーツは椅子の背に掛けたままで、脱いだストッキングが床へ細長く落ちている。枕元には昨夜開けた赤ワインが半分残り、飲み口のついたグラスから酸っぱい匂いが漂っていた。


 台所へ行っても、炊きたての米はなかった。秀夫がいた頃は、前夜に炊飯器を予約するのは夫の仕事だったが、麗子はそんなことを頼んだ覚えはないと思っていた。戸棚にあったクラッカーを二枚かじり、冷蔵庫の牛乳を直接カップへ注ぐと、賞味期限が昨日までだった。


「一日くらいなら飲めるでしょう」麗子は誰もいない台所で呟いた。以前、期限を四日過ぎた食パンを秀夫へ出したことなど思い出さず、牛乳の臭いを何度も確かめた。結局ひと口も飲まず、流しへ捨てた。


 食卓には相沢法律事務所から持ち帰った資料が広がっていた。録音の反訳書を開くと、麗子自身の言葉が黒い文字で並んでいる。読むたびに胸元が詰まり、麗子は紙を裏返して、テーブルの端へ押しやった。


「夫婦なら、あれくらい言うわよ。あの人だって、黙って私を馬鹿にしていたんだから」麗子はスマートフォンを手に取り、秀夫の番号を押した。呼び出し音は鳴ったが、留守番電話へ切り替わったため、すぐに切った。


 相沢を通せと言われても、夫婦の話に他人が入ること自体が間違っている。麗子は連絡先の一覧から翔太の名前を選んだ。息子なら、父親がどれほど身勝手なことをしたか説明すれば分かるはずだった。


 その頃、翔太は自宅の台所で、昨夜買った筍を茹でていた。灰汁抜き用の米糠を入れすぎたらしく、鍋から白い泡があふれ、ガス台の周りが汚れている。母親の着信が表示されると、翔太は火を弱め、濡れた指を布巾で拭いてから電話へ出た。


「もしもし。今、料理をしてるから長くは話せないよ」翔太が言うと、麗子は料理という言葉だけを拾い上げた。息子が包丁を使えるようになったのは、自分が教えたからだと言い、それから声を震わせた。


『お父さんが、家のお金を全部持って逃げたの。きっと若い女がいるのよ。そうでなければ、あの人が一人で家を出られるはずがないでしょう?』


「共有の家具も家電も、母さん名義の物も残ってるって聞いた。残高証明も弁護士に出してる。全部持って逃げたわけじゃないだろ」翔太は鍋の蓋を少しずらした。筍の青い匂いと米糠の甘い匂いが、湯気と一緒に台所へ広がった。


『どうしてお父さんの話ばかり信じるの? 女がいない証拠はあるの? 私には分かるのよ。三十年も夫婦だったんだから』


「若い女がいるなら、証拠を弁護士に出せばいい。想像だけで会社へ連絡したりするなよ」


『あなたまで私を脅すの?』


 電話の向こうで、麗子が鼻をすする音が聞こえた。翔太は鍋の火を止め、窓を少し開けた。四月の風が入り、向かいの家で咲いている紫色の藤が揺れた。


『あなたの学費を払ったのは誰だと思っているの。お父さんじゃないわ。私が食費を削って、服も我慢して、あなたを大学へ行かせたのよ』


「母さんが家計をやりくりしたことは分かってる。弁当も作ってもらった。筍の茹で方を教えてくれたのも母さんだよ」翔太は泡で白くなったガス台を布巾で拭いた。電話の向こうで、麗子が小さく息を吐いた。


『だったら、私が正しいって分かるでしょう? お父さんを説得して。今なら、私も許してあげるから』


「家事をしてくれたことは否定しない。でも、それで父さんを馬鹿にしていいことにはならない。俺にしてくれたことを、父さんを連れ戻す代金にもしないでくれ」


『そんな言い方、誰に教えられたの? お父さんでしょう。あの人が私の悪口を吹き込んだのね』


「父さんは、録音の中身も投稿の内容も俺たちには見せてない。母さんを憎めとも言ってないよ」翔太は布巾を流しへ置いた。力を入れすぎたため、泡を含んだ水が靴下へ飛んだ。


『じゃあ、私を助けて。母親が一人で泣いているのに、放っておくつもり?』


「今日は行かない。離婚の話は弁護士としてくれ。食事に困っているなら、スーパーの配達を頼む方法は送る」


『母親を捨てるのね』


「電話を切るよ。筍が煮えすぎるから」


 翔太が通話を終えると、画面はすぐに暗くなった。鍋の蓋を開けると、筍はまだ芯が硬く、煮えすぎるどころか、あと三十分は火を通す必要がある。翔太は水を足して火をつけ直し、濡れた靴下を脱いで洗濯機へ放り込んだ。


「母さんに嘘をついたの、初めてじゃないな」小学生の頃、父親へ誕生日カードを書いたのに、母親から忙しい人には迷惑だと言われ、渡さなかったことがあった。翔太は筍を竹串で刺しながら、あのカードを机の引き出しへ隠した日のことを思い出した。


 麗子は切られた電話をしばらく耳へ当てていた。やがてスマートフォンを食卓へ置き、裏返しになっていた反訳書を二つ折りにした。紙の端がきれいに合わなかったため、何度も折り直し、最後には両手で丸めてごみ箱へ投げた。


「筍なんて、私がいなければ茹で方も知らなかったくせに」麗子は吐き捨て、次に結衣へ電話をかけた。五回呼び出しても出なかったため、続けて六回目をかけた。


 結衣は新しい職場の資料室で、伝票の入った箱を棚へ並べていた。白いブラウスの袖には、昼に食べたナポリタンの赤い染みが小さくついている。ポケットの中で電話が何度も震えたが、勤務時間中だったため、画面を確認するだけにした。


「大城さん、電話、大丈夫? ずっと鳴っているみたいだけど」先輩社員の女性が声をかけた。結衣は母親からだと答え、今は出なくてよいと電話を裏返した。


「急ぎなら、休憩室を使っていいよ。家族から何度もかかってくると気になるでしょう」


「ありがとうございます。でも、仕事が終わってから文章で返します」結衣は伝票箱の角を棚の線へ合わせた。母親が怒り始めたときに紙を折るのと同じように、箱の角が少しでもずれると、指で何度も直した。


 午後五時半、仕事を終えた結衣は駅前のベンチへ座った。植え込みには白と紫のパンジーが咲き、帰宅する人の靴音に混じって、近くのパン屋から焼きたてのバターの匂いが流れてくる。電話には母親からの着信が十二件、留守番電話が五件入っていた。


『結衣、すぐに電話しなさい。お父さんが若い女と逃げたの。お母さん一人ではどうしたらいいか分からない』


『結衣の会社の番号、書類にあったはずよね。明日も出なかったら、会社へ電話します』


 結衣は画面を閉じ、両手を膝の間へ挟んだ。母親が職場へ電話をかけ、上司に家庭の事情を話す場面が頭へ浮かぶ。パン屋から出てきた子どもが、紙袋を抱えて母親へ駆け寄る姿を見た途端、指先が細かく震え始めた。


 結衣は母親へ電話をかけず、文章を作った。何度も消しては書き直し、謝罪の言葉を入れそうになるたび、翔太へ連絡した。兄はすぐに電話へ出たが、背後では鍋の蓋が鳴っていた。


「母さん、会社へかけるって言ってる」結衣が伝えると、翔太は一人で対応しなくてよいと言った。母親へすぐ返事をせず、今夜は何も決めないで寝るよう勧めた。


「でも、返事をしなかったら、本当に会社へ電話するかもしれない」


「職場への連絡はやめて、用件は文章で送ってくれ。それだけ送ればいい。離婚の話に返事をするのは明日でいい」


「母さん、一人なんだよ」


「一人で暮らしている大人は、母さんだけじゃない。俺も、お前も、父さんも今は一人だよ」


 結衣は通話を終え、母親へ短い文章を送った。


《勤務先への連絡はやめてください。今後の連絡は文章でお願いします。離婚について、私はどちらの代理人にもなりません。私をお父さんへの伝言役にしないでください》


 返事はすぐに届いた。


《お母さんを見捨てるの? あなたを産んで二十二年育てたのに》


 結衣は画面を伏せ、パン屋で塩パンを一つ買った。自宅へ戻って温め直すと、表面のバターが溶け、底の塩が指へついた。いつもなら母親から返信が来るまで食事の味が分からなくなったが、その夜は兄との約束どおり、返事をせずに風呂へ入った。


 翌朝、窓辺に置いた白いマーガレットへ水をやってから、結衣はスマートフォンを開いた。母親から追加の文章が二十件届いていた。父親への非難、病気になったらどうするのかという訴え、育児に使った金を返せという言葉まで並んでいる。


 結衣は紙ナプキンを折る代わりに、両手で温かい紅茶のカップを包んだ。返信は一度だけと決め、短い文章を送った。


《離婚するのは二人です。食事や生活で困ることがあれば、できる範囲で相談には乗ります。でも、私が母さんの人生を背負うことはできません》


 麗子は娘からの文章を三度読み返した。食卓には昨日のクラッカーの袋が開いたまま残り、湿気を吸った一枚を指で折ると、音も立てずに曲がった。翔太も結衣も動かせないと分かると、麗子は実家の姉である康代へ電話をかけた。


「お姉ちゃん、秀夫が突然出ていったの。子どもたちまで、あの人に言いくるめられているのよ」麗子は、昨夜から何も食べていないと訴えた。流しには牛乳を捨てたカップと、ワインのグラスが重なっていた。


『そう。弁護士をつけたんでしょう。だったら、そちらを通して話しなさい』康代の背後から包丁の音が聞こえた。昼食のために新玉葱を刻んでおり、目にしみるから長電話はできないと言った。


「私が困っているのに、玉葱の話なんてどうでもいいでしょう。秀夫へ電話して、家へ戻るように言って」


『言わないわよ。秀夫さんが何も考えずに出ていく人じゃないことくらい、私にも分かるもの』


「私の姉でしょう!」


『だから言っているの。秀夫さんを好きだったかどうかは、もう聞かない。でも、親戚の集まりで、あの人の給料や服を笑うたび、自分まで立派になったような顔をしていたでしょう』


 麗子は、康代も秀夫の味方なのかと声を上げた。康代は包丁を置いたらしく、電話の向こうから水道の音が聞こえた。しばらくして、布巾を絞る音のあと、低い声が返ってきた。


『十年前のお正月、秀夫さんが台所で皿を洗っていたとき、あなたはみんなの前で、取り柄のない夫にも洗い物くらいはできるって笑ったでしょう。翔太君も一緒に笑った。でも、結衣ちゃんは箸袋をずっと折っていた。あれは誰が見てもおかしかった』


「冗談だったのよ。家族の話を面白くしただけじゃない」


『面白かったのは、あなただけよ』


 康代は、麗子が生活に困るなら公的な相談先を調べることはできるが、秀夫を連れ戻す役にはならないと言った。麗子が返事をする前に、鍋が吹きこぼれたからと電話を切った。耳元には短い機械音だけが残った。


 麗子は食卓の椅子へ座り、翔太、結衣、康代の名前を順番に見た。これまでは誰かへ電話をすれば、その人が秀夫を叱り、麗子の望む答えを出してくれた。今は誰も、秀夫へ帰れと言わなかった。


「みんな、あの人にだまされているのよ」麗子は匿名サイトを開き、《夫に子どもを奪われました》と入力した。けれども送信する前に、協議の席で見せられた印刷物を思い出し、文字をすべて消した。


 玄関には、底の薄くなった青いスリッパが一足だけ残っていた。麗子はそれを拾い、捨てようとしてごみ袋の口を開いた。ところが、スリッパを持つ指は途中で止まり、麗子は再び玄関へ投げ戻した。


「勝手に出ていったくせに。私を捨てたのは、あの人でしょう」


 青いスリッパは片方が裏返り、すり減った底を見せていた。秀夫は反抗しているのではない。謝らせれば元の場所へ戻る相手ではなくなった。そのことだけは、誰もいない家と、鳴らなくなった電話が麗子へ教えていた。


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