第6話 苦労した妻の仮面
第6話 苦労した妻の仮面
離婚協議の日の朝、秀夫は六時に目を覚ました。新しい部屋のカーテンには春の光が透け、窓辺のガーベラが赤い花を一つ増やしている。目覚まし時計が鳴る前に起きる癖は残っていたが、胃の奥が焼けるような感覚は、家を出てから少しずつ減っていた。
朝食には、昨夜のうちに炊飯器へ予約しておいた米と、豆腐の味噌汁を用意した。乾燥若布を入れすぎたため、椀の半分が黒緑色になっている。秀夫は苦笑しながら若布を噛み、自分で塩を振った鮭を半分だけ食べた。
「今日は半分でいい」秀夫は残りを保存容器へ入れ、冷蔵庫へしまった。麗子と暮らしていた頃なら、食べ残せば「作った人への感謝がない」と責められた。今は昼に食べてもよいし、明日の茶漬けにしてもよかった。
紺色のスーツへ袖を通し、結衣から褒められたネクタイを締めた。鏡の前で結び目が少し曲がっていることに気づいたが、二度目は直さなかった。鞄へ相沢から指示された資料と胃薬を入れ、濃い緑色の室内履きを玄関へそろえて部屋を出た。
相沢法律事務所が入るビルの前では、白いハナミズキが咲き始めていた。舗道には昨夜の雨が残り、通勤する人の靴が水たまりを踏むたび、小さな音がする。秀夫は予定より二十分早く着いたため、一階の喫茶店へ入った。
「モーニングは十一時までです。トーストをつけますか?」店員に尋ねられ、秀夫は少し迷ってから、コーヒーだけを頼んだ。食べられないのではなく、朝食を済ませてきたから要らないのだと、自分の中で理由を確かめた。
カウンターの端には、黄色いフリージアが細い瓶へ生けられていた。結衣の卒業式に贈った花と同じで、甘い匂いがコーヒーの湯気に混じっている。秀夫が花を見ていると、店員は昨日、常連客からもらったのだと教えた。
「花はいいですね。黙っていても、そこにあるだけで店が明るくなります」店員はそう言い、カップの横へ小さなビスケットを二枚置いた。秀夫は一枚だけ食べ、もう一枚を紙ナプキンに包んで鞄へ入れた。
午前十時、秀夫は相沢と会議室へ入った。机の上には必要な資料だけが並び、録音データを再生するための小型スピーカーが置かれている。相沢は濃紺のスーツを着ていたが、靴下だけが薄紫色で、秀夫は学生時代から変わらない妙な色の好みに気づいた。
「その靴下、法廷でも履くのか」秀夫が尋ねると、相沢は机の下をのぞいた。妻が買ってきた物を確認せず履いたと答え、今日は離婚より靴下の協議から始めるかと笑った。
「冗談を言えるなら大丈夫そうだな。ただし、麗子さんを挑発するな。発言する前に、必要なら俺が合図を出す」相沢はスピーカーの音量を確認し、資料の束を順番にそろえた。証拠を一度に突きつけるのではなく、麗子の主張を聞いたうえで、必要な物だけを示す予定だった。
十分後、受付から来客を知らせる電話が入った。扉が開き、麗子が自分の代理人である中年の女性弁護士とともに入ってきた。麗子は薄い灰色のスーツを着て、首には真珠のネックレスをつけていた。
目元は赤く、下まぶたには泣いたあとを隠すように厚く粉が塗られている。しかし、いつも使っている百合の香水は忘れておらず、麗子が椅子へ近づくと、会議室の空気が一度に甘くなった。秀夫はその匂いを吸った瞬間、膝の上に置いた指を強く組んだ。
「ずいぶん平気そうな顔をしているのね」麗子は椅子へ座る前に言った。代理人から制止するように腕へ触れられると、目元をハンカチで押さえ、小さく鼻をすすった。
「大城麗子さんの代理人を務めます、森山です。本日は、まず双方の認識を確認させてください」女性弁護士は名刺を差し出し、落ち着いた声で挨拶した。秀夫は相沢に合わせて頭を下げ、麗子とは目を合わせずに座った。
「私は何も聞かされていませんでした。あの日、友人との食事から帰ったら、夫の荷物だけが消えていたんです」麗子は震える声を作り、白いハンカチを両手で握った。昨夜も眠れず、食事もほとんど喉を通らないと訴えた。
相沢は反論せず、麗子の話を最後まで聞いた。秀夫は机の木目にある小さな節を見つめながら、黙っていた。麗子の指には新しい薄桃色のネイルが塗られ、薬指の爪だけに小さな真珠が飾られていた。
「三十年間、私は家族のためだけに生きてきました。夫の少ない給料をやりくりして、子どもを二人も私立大学へ通わせたんです」麗子はハンカチを目元へ当てたが、化粧はほとんど崩れなかった。森山弁護士は、麗子が家事と育児のために仕事を辞め、再就職の機会を失ったことも付け加えた。
「翔太が喘息を起こした夜は、私が一晩中そばにいました。結衣の弁当だって、幼稚園から高校まで何年作ったと思っているんですか。夫は仕事、仕事と言うだけで、何もしてくれませんでした」
秀夫は、翔太が発作を起こした夜のことを覚えていた。麗子が病院へ連れていき、秀夫は翌朝まで結衣を抱いて待っていた。帰宅した麗子へ温かい粥を出したことも、その三日後に会社で居眠りをして上司から叱られたこともあった。
「俺が何もしなかったというのは違う」秀夫が口を開くと、相沢は小さく手を上げた。秀夫は言葉を止め、膝の上で指をほどいた。
「それから、舅と姑との付き合いまで、ずっと私が我慢したんです。姑から料理の味が濃いと言われても笑って耐えました」麗子は秀夫の母親を「貧乏人のくせに口だけは出す」と何度も罵っていたが、そのことには触れなかった。正月に母が持たせてくれた黒豆を、流しへ捨てたことも話さなかった。
「私は完璧な妻ではなかったかもしれません。でも、どこの夫婦にも言い合いくらいはあります。それを夫は三十年もこそこそ記録して、私を悪者にしようとしているんです」
相沢が視線を送ったため、秀夫はゆっくり口を開いた。麗子の家事や育児を否定するつもりはないことから話し始めた。言葉を急ぐと、長年染みついた言い訳の口調になりそうだったため、一文ずつ区切った。
「子どもが小さかった頃、家事と育児を担ってくれたことには感謝している。翔太を病院へ連れていったことも、結衣へ弁当を作ったことも覚えている。だから、財産分与や年金分割を拒むつもりはない」
麗子はハンカチを膝へ下ろし、背もたれへ体を預けた。口元がわずかに上がり、森山弁護士へ、夫も自分の貢献を認めていると囁いた。秀夫はその言葉が終わるまで待った。
「だが、家事をした人間には、夫へ死ねと言う権利が与えられるのか」秀夫は妻を睨まず、真ん中に置かれたスピーカーを見た。麗子の口元から笑みが消え、真珠のついた爪がハンカチへ食い込んだ。
「何のこと? 私がいつ、そんなことを言ったのよ」麗子はすぐに声を高くした。森山弁護士が事実確認を求めると、相沢は一冊の資料を机の中央へ置いた。
「まず、令和八年三月二十六日の朝について確認します。大城秀夫さんが挨拶をしましたが、麗子さんは返事をしなかった。その後、賞味期限が四日過ぎた食パンを秀夫さんへ出し、出世できないのは細かい性格だからだと発言しています」
「朝は忙しいんです。挨拶が聞こえなかっただけでしょう」麗子は即座に答えた。古いパンも、まだ食べられる物を無駄にしないためだったと説明した。
相沢は録音を短く再生した。スピーカーから、麗子の声とフライパンで卵が焼ける音が流れた。
『細かいことばかり気にしているから出世できないのよ』
『食べたくないなら、食べなければいいでしょう。自分で何か作る能力もないくせに』
『卵一個のためにガスを使うの? 本当に無駄ばかりね』
秀夫は新しい部屋で若布を入れすぎた味噌汁を思い出した。失敗しても、誰からも無駄だと言われなかった。その朝の卵がフライパンで弾ける音は、目の前で聞くより録音のほうが鋭く響いた。
「朝の小さな言い合いじゃないですか。そんなものまで録音するなんて、夫のほうがおかしいでしょう」麗子は森山弁護士へ同意を求めるように顔を向けた。しかし森山は答えず、反訳書を目で追っていた。
相沢は次の資料を開いた。給料日に録音された音声、昇進が遅いと罵った音声、秀夫の親族を「貧乏人の集まり」と呼んだ音声が、日付とともに並んでいる。さらに、秀夫の母親の葬儀から帰宅した夜の録音を再生した。
『貧乏人の葬式なんかに十万円も包む必要があった?』
『俺の母親だ。これまで世話になった分もある』
『あなたの家族は、死んでまでうちの金を持っていくのね。あなたも同じ葬儀場で安く焼いてもらえば?』
「やめて!」麗子は机を叩き、スピーカーへ手を伸ばした。相沢が停止ボタンを押すと、会議室には壁掛け時計の音だけが残った。
「お姑さんには私も苦労させられたんです。あの日は葬儀で疲れていて、思ってもいないことを口にしただけです」麗子は水のグラスを取り、ひと口飲んだ。縁へ薄桃色の口紅がつき、半月の跡を残した。
「思っていなかった言葉と、何度言った言葉を区別すればいい?」秀夫は問いかけた。麗子は答えず、手の甲でグラスの口紅を拭った。
相沢は匿名サイトの投稿を印刷した資料を提示した。投稿者名は「耐える妻三十年」で、秀夫の勤務先の業種、子どもの年齢、卒業式の日付、祝い膳の内容などが記載されている。投稿の中には、麗子が秀夫へ送ったメッセージと同じ言い回しが、いくつも残っていた。
「匿名の書き込みでしょう。誰が書いたか分からないじゃない」麗子は資料を押し返した。相沢は同意し、匿名投稿だけで書き手を断定するつもりはないと答えた。
「ただし、家庭内の出来事と投稿日時が一致しています。さらに、こちらは麗子さんの電話番号から秀夫さんへ送られたメッセージです」
《早く死んで、保険金だけ残して》
相沢は、その文章が表示された画面の写しを投稿の隣へ置いた。句読点の位置まで、匿名サイトの文章と同じだった。麗子はハンカチを折り畳み、真珠のついた爪で何度も角を押した。
「夫婦の冗談です。秀夫だって分かっていたはずよ」麗子は秀夫へ顔を向けた。結婚した頃から冗談の通じない男だったと付け加え、同じ言葉を何度も言わせる夫にも原因があると主張した。
「では、前後を含めて確認しましょう」相沢は別の音声を再生した。夕食の食器が触れ合う音のあと、麗子の声がはっきり聞こえた。
『健康診断で引っかかったんでしょう。あなたが倒れても、私は介護なんてしないから』
『薬を飲めば、まだ働けると医者は言っていた』
『薬代まで家計から出すの? あなたが死んだら、保険金くらいは役に立つでしょうね』
『麗子、それは冗談でも言っていいことじゃない』
『だったら早く出世して、死ぬより役に立ってみなさいよ』
音声が終わると、麗子は都合のよい部分だけを集めたものだと言い張った。相沢は録音の開始から終了まで編集していない原本が保存されており、必要であれば確認できると説明した。森山弁護士は麗子へ何かを尋ねようとしたが、麗子は聞かずに話し続けた。
「私だって、秀夫に無視されたことがあります。誕生日に花もくれなかった。結婚記念日を忘れたことだってあるんです」麗子の声は、先ほどまでの弱々しさを失っていた。灰色のジャケットの襟がずれ、首筋から百合の香水が強く漂った。
「忘れたことは謝る。君の誕生日に会社の事故対応で帰れなかった年もあった」秀夫は机の木目を見つめた。麗子の顔を見れば、昔のように先回りして謝り、なかったことにしてしまいそうだった。
「けれど、俺は君へ死ねと言っていない。古い物を食べさせて、体を壊せばいいとも書いていない。一度なら冗談だったかもしれない。でも、三十年続けば、それは俺の日常だ」
麗子は何か言い返そうとして口を開いたが、声は出なかった。会議室の窓から午後の日が入り、机の上の反訳書を白く照らしている。紙には、秀夫が毎朝聞いてきた言葉が、黒い文字で何行も並んでいた。
「本日のところは、資料を持ち帰って検討します」森山弁護士が会議を終えると告げた。麗子は椅子を引いて立ち上がり、秀夫を見下ろした。
「こんなことをして、子どもたちがあなたの味方をすると思っているの?」麗子はそう言い残し、鞄をつかんで会議室を出た。廊下へ消えるまで、百合の香水の匂いが後ろへ長く残った。
秀夫はすぐには立てなかった。相沢は何も尋ねず、冷めた緑茶を新しいものへ替えるよう受付へ頼んだ。しばらくして運ばれた茶には、小さな柏餅が一つ添えられていた。
「食べられるか?」相沢が尋ねた。秀夫は柏の葉を剥がし、白い餅を半分に割った。中の味噌あんは少し塩辛く、指には葉の青い香りが残った。
「食べられる。朝の鮭も半分残してある」秀夫が答えると、相沢はうなずいた。今日の協議で何かが決着したわけではないが、麗子の前で食べる物も言葉も、自分で選べた。
事務所を出ると、朝には閉じていたハナミズキの花が日差しの中で開いていた。秀夫は駅へ急がず、花の下をゆっくり歩いた。携帯電話には麗子から着信が二十三件入っていたが、秀夫は画面を閉じ、今夜は残しておいた鮭を茶漬けにして食べようと決めた。




