第5話 なくなったスリッパ
第5話 なくなったスリッパ
結衣の引っ越しが終わった翌週の土曜日、朝から細い雨が降っていた。専用庭のチューリップは花びらを閉じ、濡れた土の上には、麗子が昨日取り込まなかった洗濯ばさみが三つ落ちている。秀夫は台所で湯を沸かし、食パンへ薄くバターを塗りながら、壁の時計を何度も確認した。
麗子は友人たちとホテルのランチへ行くため、寝室で着替えていた。鏡台には口紅、頬紅、香水瓶が広げられ、脱いだ部屋着はベッドの上へ裏返しに投げてある。やがて麗子は、胸元に白い花の刺繍が入った紺色のワンピースを着て台所へ現れた。
「今日、帰りは六時を過ぎるから。夕飯は要らないわ」麗子はトーストを食べている秀夫を見下ろし、濃い桃色の口紅を指でなぞった。雨の日に革靴を履いて出勤する夫へ、濡れた靴で家へ入るなと言い続けてきた麗子は、その日、自分のパンプスへ防水スプレーをかけるよう秀夫へ命じた。
「玄関に置いてあるでしょう。むらにならないようにやっておいて」麗子は香水を首筋へ吹きかけ、秀夫の皿に残ったパンの耳をつまんだ。自分では食べず、流し台の三角コーナーへ落とした。
「分かった。気をつけて行っておいで」秀夫はいつもと同じ言葉を返した。防水スプレーをかけることはせず、麗子のパンプスと未開封の缶を玄関へ並べておいた。
午前九時四十分、麗子は白いスプリングコートを羽織って家を出た。玄関の扉が閉まると、秀夫は施錠された音を確認し、相沢へ短いメッセージを送った。すぐに《予定通り進めろ。共有物には触らず、写真を残すこと》と返ってきた。
十分後、家の前へ白い引っ越し業者のトラックが止まった。作業員は三人で、先頭の若い男は雨粒のついた帽子を脱ぎ、明るい声で挨拶した。秀夫は玄関へ敷物を用意し、あらかじめ作成した持ち出し品の一覧を渡した。
「大きな家具は、この本棚と机だけです。どちらも結婚前から使っている物で、こちらに写真と購入記録があります」秀夫はクリアファイルを開き、日付の入った古い写真を示した。学生時代の相沢が、本棚の前で焼きそばを食べている写真まで残っていた。
「ずいぶん物持ちがいいんですね。僕が生まれる前の本棚ですよ」作業員が笑うと、秀夫は棚板の傷へ指を置いた。その傷は、翔太が幼い頃、玩具の自動車を走らせてつけたものだった。
「息子が五歳のときにつけた傷です。ずっと妻から捨てろと言われていたんですが、結局残りました」秀夫はそう答え、棚から出した本を小さな箱へ詰めていった。料理の本、建材の資料、小説、結衣が父の日に贈った世界地図の図鑑が、雨に濡れないよう一冊ずつ包まれた。
三畳の部屋には、秀夫のワイシャツと仕事用の鞄、胃薬、電気かみそり、古い目覚まし時計がまとめて置かれていた。衣類はどれも紺、灰色、白ばかりで、一つの衣装箱に収まった。麗子から「あなたには似合わない」と言われて着なくなった若草色のセーターも、押し入れの奥から取り出した。
「これは持っていかれますか?」作業員が、紙袋へ入ったままの革手袋を持ち上げた。結衣が高校生のとき、初めてのアルバイト代で買ってくれた物だった。麗子から色が年寄り臭いと言われ、一度しか使っていない。
「持っていきます。大事な物です」秀夫は紙袋から焦げ茶色の手袋を出し、上着のポケットへ直接入れた。革には防虫剤の匂いが移っていたが、手を差し入れると、まだ指先まで柔らかく収まった。
家具や家電、食器、麗子が使っている物には触れなかった。テレビ、冷蔵庫、洗濯機、食卓、ソファ、食器棚を一つずつ撮影し、傷や汚れまで記録する。冷蔵庫の中も、勝手に食品を持ち出したと言われないよう、卵や調味料の位置が分かる写真を残した。
「冷蔵庫の中まで撮るんですか?」若い作業員が尋ねた。秀夫は、離婚の話し合いをする予定だから、後で何を持っていったか争いにならないようにしていると説明した。
「なるほど。僕なら全部置いて逃げちゃいそうです」作業員は冷蔵庫の横に落ちていた小豆を一粒拾い、ごみ箱へ捨てた。麗子が冬至に作った南瓜のいとこ煮から転がった豆で、四か月近く誰にも拾われなかったものだった。
秀夫は自分名義の通帳と印鑑を持ち出したが、残高証明書の写しを封筒へ入れて食卓へ置いた。麗子名義の通帳には触れず、共有財産と考えられる預貯金の一覧も相沢へ預けてある。生命保険、住宅ローン、固定資産税の資料は複製だけを持ち出し、原本を元の場所へ戻した。
昼前になると雨は上がり、雲の隙間から白い光が差し込んだ。作業員たちは玄関前でコンビニのおにぎりを食べ、秀夫も梅干しのおにぎりと温かいお茶を買ってきた。トラックの荷台から段ボールと毛布の匂いが流れ、庭の沈丁花の香りと混ざった。
「奥さんには、今日出ていくことを話していないんですか?」年長の作業員が、鮭のおにぎりを開けながら尋ねた。秀夫は少し迷ったあと、弁護士から安全を優先するよう助言されたと答えた。
「怒ると物を投げることがあるので、先に話せませんでした」
「それなら、早く終わらせましょう。雨がやんだうちに積んでしまいます」作業員は余計な事情を聞かず、最後の一口を麦茶で流し込んだ。秀夫は梅干しの種を包み紙へ戻し、自分一人の判断ではないことに、ようやく肩の力を抜いた。
午後二時過ぎ、すべての荷物がトラックへ積み込まれた。がらんとした三畳の部屋には、健康器具と麗子の旅行鞄だけが残っている。机が置かれていた畳は周囲より青く、壁には本棚の形に沿って薄い埃がついていた。
秀夫は掃除機をかけ、畳を固く絞った雑巾で拭いた。これから家を出る人間が掃除をする必要はないのかもしれないが、三十年暮らした部屋へ埃だけを残すことはできなかった。雑巾を洗うと、水は灰色に濁り、指先へ畳の青い匂いが残った。
最後に玄関へ立つと、靴箱の下に青いスリッパが見えた。結婚した年の冬、麗子が商店街で赤と青を一足ずつ買ったものだった。赤いスリッパは何度も買い替えられたが、秀夫の青いほうは、底の布が薄くなってもそのまま使われてきた。
「このスリッパ、積み忘れでしょうか」作業員が尋ねた。秀夫は一度しゃがみ、踵の潰れた青いスリッパを手に取った。
翔太が熱を出した夜、このスリッパを履いて廊下を何度も往復した。結衣が初めて歩いたときには、青い爪先を踏まれて転びそうになった。麗子が投げた湯飲みの欠片を踏み、底へ小さな傷がついたこともある。
「それは置いていきます。新しい部屋には、新しい物がありますから」秀夫はスリッパを元の位置へそろえて戻した。赤と青ではなく、青い一足だけが、広くなった玄関へ残った。
ダイニングテーブルには、離婚協議の申入書と相沢の名刺を置いた。書面には今後の連絡を代理人へ行うこと、婚姻費用について協議すること、共有財産を双方が勝手に処分しないことが記されている。秀夫はもう一度室内を撮影し、玄関の鍵を閉めて家を出た。
「お世話になりました」と言いかけて、秀夫は口を閉じた。家へ挨拶をするのか、まだ帰っていない麗子へ言うのか、自分でも分からなかった。代わりに作業員へ頭を下げ、トラックの助手席へ乗り込んだ。
午後五時半、麗子は紙袋を二つ提げて帰宅した。玄関を開けると、自分の赤いスリッパが見当たらず、秀夫の青いスリッパだけが置かれていた。赤いスリッパは、朝、麗子自身が寝室へ脱ぎ捨てたままだった。
「秀夫、私のスリッパはどこ?」麗子は靴を脱がずに呼びかけた。返事がないため、濡れたパンプスのまま廊下を歩き、寝室と三畳の部屋の扉を開けた。
秀夫の衣類、本、机、本棚、仕事用の鞄が消えていた。台所には麗子が朝使ったコーヒーカップが残り、洗濯籠の中からは秀夫のワイシャツだけがなくなっている。流しの水切り籠には、秀夫が使っていた茶碗と箸がきれいに洗われていた。
「何よ、これ」麗子はダイニングテーブルの書面を持ち上げた。読み進めるうちに紙を握る指が強くなり、端が折れ曲がった。
「離婚協議? 弁護士? ふざけないでよ!」麗子は相沢の名刺を床へ投げ、秀夫へ電話をかけた。呼び出し音は鳴ったが、秀夫は出なかった。
一度目、二度目、三度目と電話をかける。麗子は部屋を歩き回り、空になった三畳の部屋へ入るたび、畳へ残った机と本棚の跡を見下ろした。最後には留守番電話へ切り替わったため、麗子は息を吸い込み、低い声で話し始めた。
『ふざけないで。あんたが一人で生活できるわけないでしょう。洗濯機の使い方だって知らないくせに。謝るなら、今夜だけは帰ってきてもいいわ』
電話は着信拒否されていなかった。相沢の助言で、通話も留守番電話も記録される設定になっている。麗子はそれを知らず、自分がどれほど秀夫を必要としているかではなく、秀夫がどれほど無能かを十七分間話し続けた。
その頃、秀夫は新しい部屋で段ボール箱を開けていた。六畳の洋室には薄い灰色のカーテンが掛かり、窓辺には不動産会社からもらった小さなガーベラの鉢が置かれている。家具は古い本棚と机、折り畳み式の食卓だけで、冷蔵庫が動く低い音までよく聞こえた。
携帯電話が机の上で何度も震えた。画面へ麗子の名前が表示されるたび、秀夫の手は止まったが、電話には出なかった。代わりに相沢へ着信回数を報告し、緊急の用件は代理人へ連絡するよう、定型文だけを送った。
夕食は駅前の総菜店で買った焼き鯖と、インスタントの味噌汁だった。炊飯器の目盛りを見誤ったため、米は少し硬く、鯖の皮も温め直したせいで焦げていた。秀夫は一口食べ、次からは水を少し増やそうと手帳へ書いた。
食事の途中、秀夫は箸を置いた。これまでは物音がすると麗子の顔を見て、舌打ちをされれば何を間違えたのか探していた。新しい部屋では、冷蔵庫の音も、上の階を歩く足音も、誰かが怒り出す前触れではなかった。
秀夫は立ち上がり、玄関へ向かった。たたきには、量販店で自分が選んだ濃い緑色の室内履きがそろえてある。値段は九百八十円で、足を入れると底の布がまだ厚く、踵を柔らかく支えた。
「これでいい」秀夫は誰に聞かせるでもなく言った。食卓へ戻ると、冷めかけた味噌汁から若布の匂いが上がっていた。秀夫はもう一度箸を取り、最後の一口まで、自分の速さで硬い米を噛んだ。




