第4話 子どものためという言葉
第4話 子どものためという言葉
相沢法律事務所を訪ねた翌週、秀夫は翔太と結衣へ別々に連絡を入れた。麗子は料理教室の仲間と夜桜を見に行くと言い、朝から桜色のブラウスへアイロンをかけていた。秀夫のワイシャツが洗濯籠の底で丸まっていても、アイロンはブラウス一枚を仕上げたところで押し入れへ戻された。
《話したいことがある。今度の日曜日、時間を作ってもらえないか》
秀夫は二人へ同じ文章を送った。翔太からは、すぐに《分かった》と返事が届いた。結衣からは十分ほどたって、《一人で聞く話?》と短い返信が来た。
《お父さんは、一人ずつ話そうと思っている》
《お兄ちゃんも一緒がいい。一人で聞いたあと、お母さんに電話されたら、どう答えればいいか分からないから》
秀夫は携帯電話を持ったまま、台所に立つ結衣の後ろ姿を思い出した。麗子に責められているとき、結衣はいつも正解を探すように、父と母の顔を交互に見ていた。自分では子どもを争いに巻き込まないよう黙っていたつもりだったが、結衣はすでに、両親の間で何度も答えを選ばされていた。
《三人で会おう。母さんには、まだ話さなくていい》
日曜日の昼、三人は駅前のファミリーレストランで待ち合わせた。歩道沿いの花壇には赤と黄色のチューリップが並び、ベビーカーに乗った子どもが花へ手を伸ばしている。秀夫は約束より十五分早く着き、窓際の四人席で水を三つ用意して待った。
店内には焼いたハンバーグと油の匂いが漂い、隣の席では高校生が山盛りのフライドポテトを分けていた。秀夫はメニューを開いたものの、料理の写真を見ても食べたい物が決まらない。家で麗子から「何でもいいと言うのが一番面倒」と責められてから、外食では相手と同じ物を頼む癖がついていた。
「お父さん、早いね。待った?」最初に現れたのは結衣だった。薄い水色のワンピースに生成りのカーディガンを羽織り、肩には就職祝いに翔太から贈られた革の鞄を掛けている。卒業式でつけていた白い椿の髪飾りはなく、髪は黒いゴムで一つに束ねられていた。
「十五分くらいだ。何を食べる?」秀夫がメニューを渡すと、結衣は春野菜のドリアを選んだ。秀夫も同じ物を頼もうとしたが、結衣はメニューから顔を上げた。
「お父さん、チーズを食べると胃が重くなるんじゃなかった?」結衣に言われ、秀夫は指を止めた。家族で外食したとき、麗子が注文した物を残すと機嫌を損ねるため、苦手な料理でも同じ物を頼んできた。
「そうだったな。じゃあ、焼き魚の定食にするよ」秀夫は鰆の西京焼きを指差した。自分で選んだだけのことなのに、注文を取りに来た店員へ料理名を告げるまで、喉の奥が固くなっていた。
「悪い、電車一本逃した」翔太が息を切らして現れた。休日らしい濃紺のパーカーを着て、髪には風で飛んできたらしい桜の花びらが一枚ついていた。結衣が指で花びらを取ると、翔太は照れたように頭を振った。
「お兄ちゃん、遅刻五分。新社会人の妹よりだらしない」結衣は花びらを紙ナプキンの上へ置いた。翔太は、父親譲りだから仕方がないと言いかけ、口を閉じた。
「いや、親父は待ち合わせに遅れたことないな。母さんが三十分遅れてきても、ずっと立って待ってた」翔太は水を一口飲み、テーブルの端に置かれた呼び出しボタンを意味もなく押しそうになって手を引いた。三人とも話を始める理由を探しているうちに、厨房から食器を重ねる音が聞こえてきた。
「今日、二人に来てもらったのは、父さんと母さんのことを話すためだ」秀夫は鞄から何も出さず、両手を膝の上へ置いた。弁護士の名刺や録音の一覧を見せれば説明は早かったが、子どもたちへ妻の言葉を聞かせ、自分の証人にするつもりはなかった。
「母さんと離婚することにした。もう弁護士へ相談している。結衣の引っ越しが終わったら、父さんも家を出る」
翔太は水のグラスを握ったまま、すぐには口を開かなかった。結衣は紙ナプキンの角を折り、置かれていた桜の花びらを包む。窓の外をバスが通り過ぎ、店内へ入っていた日差しが一瞬だけ遮られた。
「やっぱり、卒業式のこと?」結衣が尋ねた。秀夫は首を横へ振り、卒業式だけではないと答えた。夫婦の間で何があったか、どこまで子どもへ話すべきなのか決めかね、三十年間続いてきたことだとだけ付け加えた。
「母さんのことだから、卒業式でお父さんを写真に入れなかったくらいで離婚するのかって言うよ」結衣はナプキンをもう一度折った。紙の角が少しずれると、爪で筋をつけて揃え直した。
「それだけじゃない。記録もある。弁護士には、長く続いた精神的な暴力として扱える可能性があると言われた」秀夫は二人の顔を順番に見た。匿名サイトの投稿や、保険金を望む言葉については、今は話さなかった。
料理が運ばれてきたため、会話は一度途切れた。鰆の皮には焦げ目がつき、付け合わせの菜の花から辛子の匂いが上がっている。結衣は熱いドリアの表面をスプーンで崩したが、湯気を逃がすだけで口へ運ばなかった。
「俺、小学生の頃、お父さんみたいにはなりたくないって言ったよな」翔太は注文した生姜焼きへ手をつけず、水滴のついたグラスを両手で包んだ。秀夫は鰆へ箸を入れたまま、十六年前の夕食を思い出した。
あの日、翔太はサッカー部の遠征用スパイクを欲しがっていた。麗子は、父親の稼ぎが少ないから安い物で我慢しろと説明し、翔太は秀夫へ向かって、父さんみたいな駄目な大人にはならないと言った。秀夫は何も言い返さず、翌月の小遣いを減らして希望していたスパイクを買った。
「ああ、覚えている」秀夫は嘘をつかなかった。忘れたと言えば、翔太が今まで抱えてきたものまで、なかったことになってしまう。
「母さんから、父さんは無能だから金がないって、ずっと聞かされてた。父さんは休みの日も寝てばかりで、家族に興味がないって」翔太はパーカーの袖で、グラスの水滴を拭った。働き始めて家賃、光熱費、税金を自分で払うようになり、毎月決まった額を家庭へ入れ続ける重さを知ったのだと話した。
「俺の大学の学費、一度も遅れなかった。奨学金も借りずに済んだ。父さん、昼飯を抜いてた時期があっただろ。俺は何も知らないで、高いスパイクを買ってもらった」
「昼飯は抜いてない。会社でもらった煎餅を食べていた」秀夫が答えると、翔太は顔を伏せた。秀夫は冗談のつもりで言ったが、翔太の手はグラスから離れなかった。
「親父、ごめん。俺、ずっと母さんと一緒になって、父さんを馬鹿にしてた」翔太は椅子に座ったまま、深く頭を下げた。生姜焼きの皿から湯気が消え、千切りキャベツの端に茶色い汁が染みていた。
秀夫は謝らなくていいとは言えなかった。あの夜、一人で磨いた新品のスパイクも、翔太が父親を見ずに礼を言ったことも覚えている。それでも、十一歳の子どもへ、夫婦の問題の責任を負わせることはできなかった。
「お前が悪かったんじゃない。父さんが何も説明しなかった。大人の言葉を信じた子どもに、責任はない」
「でも、言ったのは俺だ」
「そうだな。あの言葉は今でも覚えている」秀夫は鰆を一切れ口へ運んだ。甘い西京味噌のあとから菜の花の苦みが広がり、飲み込むまで少し時間がかかった。
「だから、今お前が謝ったことも覚えておく。どちらかだけ消す必要はないだろう」秀夫が言うと、翔太はようやく顔を上げた。目の縁を手の甲でこすり、生姜焼きを一切れ口へ入れた。
向かいでは、結衣が紙ナプキンを四角く折り続けていた。小学生の頃から、麗子が声を荒らげると始まる癖だった。紙がなければハンカチを折り、給食の献立表や菓子の包み紙まで、小さな四角にしていた。
「お父さんは、私たちのために三十年耐えたって思ってる?」結衣は父親を見ずに尋ねた。ナプキンは親指ほどの大きさになり、中に包まれた桜の花びらが端から少しだけ見えていた。
「二人が大学を出るまではと思っていた」秀夫が答えると、結衣は折った紙をテーブルへ置いた。指先には、強く押しつけた紙の跡が白く残っていた。
「そう言われると、私たちが離婚を邪魔したみたいになる。お兄ちゃんが大学へ入ったときも、私が高校を卒業したときも、お父さんはまだ早いって思ったんでしょう?」結衣のドリアは表面だけが崩され、器の縁でチーズが固まり始めていた。
「私は母さんが怒鳴るのも嫌だった。でも、お父さんが何も言わないことも怖かった。母さんが湯飲みを投げたときも、お父さんは黙って片づけた。だから、投げられるようなことをお父さんがしたのかもしれないって、ずっと考えてた」
秀夫は、床へ散らばった湯飲みの欠片を思い出した。結衣が一片を拾って指を切ったのに、秀夫は麗子を責めず、絆創膏を貼っただけだった。子どもの前で夫婦げんかをしてはいけないという言葉を守ったつもりで、目の前で起きたことの善悪さえ説明しなかった。
「父さんは、家を壊さないことばかり考えていた」秀夫は箸を置き、二人へ頭を下げた。食器を片づける店員の声や、子どもの笑い声が、下げた頭の上を通り過ぎていった。
「子どものためだと思っていた。でも、それだけじゃない。決断して、母さんから責められるのが怖かった。親戚や会社に知られるのも怖かった。父さんは自分で決められなかった理由を、二人の卒業へ預けてしまった」
結衣は、許すとも許さないとも言わなかった。翔太も父親をかばわず、冷めた生姜焼きを黙って食べていた。秀夫は、その沈黙から逃げずに座り続けた。
「お前たちに背負わせた。すまなかった」秀夫はもう一度言った。結衣は折ったナプキンを開こうとしたが、何重にもついた折り目は簡単には伸びなかった。
店を出ると、午後の風が駅前へ桜の花びらを運んでいた。翔太は仕事用の靴を買うと言い、商店街の方向へ歩いていく。結衣は父親と二人になっても、しばらく鞄の留め金を開けたり閉めたりしていた。
「母さんには、いつ話すの?」結衣が尋ねた。秀夫は、引っ越しの日まで直接は話さず、弁護士を通して書面を渡すと答えた。
「逃げるみたいに見えるかもしれない。でも、先に話せば、荷物を捨てられたり、会社へ来られたりする可能性がある。安全に家を出てから話す」
「分かった。住所は、母さんに聞かれても言わない」結衣は歩道の端で立ち止まり、花壇のチューリップを見下ろした。赤い花の間に一本だけ背の低い黄色い花があり、風を受けてもほとんど揺れていなかった。
「離婚していいよ。でも、私たちのためじゃなくて、お父さん自身のために離婚して」結衣は父親の返事を待たず、駅の改札へ向かった。途中で一度だけ振り返ったが、手は振らなかった。
秀夫は花壇の前に残り、ポケットから紺色の手帳を出した。これまでなら、子どもたちへ離婚の意思を伝えた日時と反応を、証拠のように記録しただろう。秀夫は開いたページに、短い一文だけを書いた。
「二人のためではなく、自分で決める」
書き終えてから、秀夫はその下へ夕食の買い物を書き加えた。鰆は昼に食べたから、夜は豆腐と新玉葱の味噌汁にする。そんな小さなことから自分で選び直せばいいのだと、駅前の八百屋へ向かって歩き始めた。




