第10話 デスノートの次のページ
第10話 デスノートの次のページ
離婚から半年が過ぎ、街路樹の銀杏が黄色く色づいていた。麗子は駅からバスで十五分ほど離れた、築三十五年の二DKで暮らしている。小さなベランダには前の住人が置いていった植木鉢が一つあり、植えた覚えのない白い小菊が、十一月の風を受けて咲いていた。
マンションの売却代金から財産分与と解決金の相殺を終え、麗子の手元にはまとまった金が残った。しかし、五十五歳から老後までの生活を、働かずに賄える額ではない。森山の紹介で就労相談窓口を訪ねた麗子は、地域の衣料品店で週四日働き始めていた。
午前七時、麗子は目覚まし時計を止め、布団から起き上がった。寝室の箪笥には自分の服だけが整然と収まり、椅子へ脱ぎ捨てた衣類も翌朝には必ず畳んでいる。秀夫がいなくても、洗濯も掃除も食事の支度も滞ってはいなかった。
朝食には、昨夜作った大根と厚揚げの煮物を温めた。味がよく染みており、大根は箸を入れると柔らかく割れた。麗子は一人分には大きすぎる鍋を見て、次は半分の量で作ろうと冷蔵庫へ貼ったメモに書き加えた。
「やっぱり、少し味が薄いわね」麗子は醤油を足し、自分で作った煮物の味を確かめた。以前なら秀夫の味覚がおかしいと言い、食卓に置いた醤油差しを夫の前へ押しつけていただろう。今は向かいの椅子がなく、言葉は冷蔵庫のモーター音に吸い込まれた。
麗子は臙脂色のカーディガンに黒いスラックスを合わせ、衣料品店の名札を鞄へ入れた。鏡の前で薄桃色の口紅を塗ったが、百合の香水には手を伸ばさなかった。狭い休憩室で香りが強いと、年下の店長から注意されたためである。
店の前には、冬物のコートと赤い毛糸の帽子が並べられていた。開店前の店内には新しい布と段ボールの匂いがあり、同僚たちはハンガーの間隔をそろえている。麗子は紺色のセーターを棚へ置き、値札が表を向くように一枚ずつ畳んだ。
「大城さん、そのセーターは下の棚です。そこは今日から広告商品の場所になりました」三十二歳の店長が、折り込み広告を見せながら言った。麗子の手はセーターを持ったまま止まり、相手の短いスカートと、少し剥がれた爪の塗料へ目が向いた。
「昨日は、ここへ置くように言われましたけど」麗子は声を低くした。昨日と今日で指示を変えるなんて、店長としての能力が足りないと言いかけたが、近くで段ボールを開けていた同僚が顔を上げた。
「そうですね。昨日まではそこでした。広告が変わったので、今日は移動をお願いします」店長は麗子を馬鹿にした口調ではなく、売り場の配置図を指で示した。麗子は反論を続ける理由を失い、セーターを下の棚へ移した。
「最初から、そう説明してくだされば分かります」麗子は最後に一言だけ加えた。店長は言い返さず、次の売り場へ歩いていった。麗子は相手の背中を見送り、セーターの角を必要以上に強く引いてそろえた。
昼休みになると、同僚の佐伯が小さな紙袋を開いた。庭で採れた柚子を使って焼いたパウンドケーキらしく、休憩室へ甘酸っぱい香りが広がった。佐伯は一切れずつ包んだ菓子を、周囲の同僚へ配り始めた。
「大城さんもいかがですか。少し焦げちゃったんですけど」佐伯は透明な袋に入った一切れを差し出した。麗子は、黒くなった端を見て眉を寄せた。
「焦げた物は体によくないんじゃありませんか」口にしてから、佐伯の手が止まった。ほかの同僚は何も言わず、自分の弁当箱へ視線を落とした。
「そうですね。無理に食べなくて大丈夫です」佐伯は菓子を紙袋へ戻し、向かいの席へ移った。麗子はコンビニで買ったサンドイッチの包装を開き、耳を切り落とされた柔らかいパンを一人で食べた。
午後の売り場では、七十代ほどの女性客が赤いカーディガンを手に取った。派手すぎるかしらと何度も鏡を見ている。麗子は年齢に合わないと言いそうになったが、女性客が袖口を撫でる指を見て、口を閉じた。
「顔が明るく見える色だと思います。中を黒にすれば、赤も強くなりすぎません」麗子が伝えると、女性客は鏡の前でもう一度カーディガンを合わせた。銀色の髪の横で赤い襟が揺れ、女性客は少し考えてから買うと決めた。
「あなたに聞いてよかった。娘は何を着ても同じだなんて言うのよ」女性客は財布を開きながら笑った。麗子は商品を丁寧に畳み、紙袋の持ち手を相手が握りやすい方向へそろえた。
「着たい色を着るのが一番です」その言葉を口にすると、秀夫の紺色のネクタイを笑った卒業式の朝が浮かんだ。麗子はレジの画面へ視線を移し、釣り銭を一枚ずつ数えた。
仕事を終えて帰宅すると、部屋は朝のまま片づいていた。流しには食器がなく、洗濯物も決めた場所へ畳まれている。麗子は厚揚げの煮物を温め、商店街で買った鰺の開きを焼いた。
魚の皮が焦げる匂いが台所へ広がり、換気扇が低い音を立てた。麗子は焼けた鰺を皿へ移し、焦げた尾を箸で折った。佐伯から勧められた菓子に、焦げていると言ったことを思い出した。
「お菓子を配るなら、きちんと焼いてから持ってくればいいのよ」麗子は食卓で口にした。以前なら秀夫が黙ってうなずき、佐伯という会ったこともない女性の欠点を一緒に聞かされていた。今は鰺の骨を外す箸の音だけがした。
食後、麗子はスマートフォンを開いた。「夫のデスノート」から、新しい投稿を知らせる通知が届いている。画面を押すと、夫の悪口や死を願う言葉が、以前と同じように何十件も並んでいた。
麗子は自分の投稿欄を開いた。「耐える妻三十年」という利用者名は、そのまま残っている。指を動かし、《元夫のせいで、私は家も家族も失いました。三十年間も尽くしたのに、あの男に人生を奪われました》と打ち込んだ。
送信ボタンへ指を近づけたところで、今日の女性客が赤いカーディガンを鏡へ合わせていた姿を思い出した。夫がいなくなっても、自分は年下の店長の爪を見て、菓子の焦げ目を見つけ、話しかけてきた相手を遠ざけている。秀夫を悪く書けば、今夜は少し気が済むかもしれないが、明日の休憩室で佐伯が隣へ座るわけではなかった。
「私が悪かったって書けと言うの?」麗子は画面へ問いかけた。答えは表示されず、送信前の文章だけが残っていた。
麗子は文字を一つずつ消した。夫へ謝る文章も、自分を責める文章も書かなかった。ただ、空白になった投稿欄を閉じ、通知の設定を解除した。
台所へ戻ると、鰺の頭と骨が皿に残っていた。麗子は骨を新聞紙へ包み、明日の可燃ごみに出す袋へ入れた。それから佐伯の名前を連絡帳で探し、《今日はお菓子を断ってしまってごめんなさい。柚子の香りは、とてもよかったです》と短い文章を送った。
返事はすぐには来なかった。麗子はスマートフォンを伏せ、小菊が揺れるベランダの窓を閉めた。誰かとの関係は、文章を一通送れば元へ戻るものではない。それでも、死ねと書く以外の言葉を選んだのは、あのサイトを使い始めてから初めてだった。
一方、秀夫の部屋では、朝から洗濯機が回っていた。陽当たりのよい窓辺には白いシャツが二枚干され、その隣で赤いガーベラが秋の光を受けている。シャツの襟にはアイロンをかけておらず、一枚は洗濯じわで少し曲がっていた。
秀夫は焦げたトーストへ苺のジャムを塗り、目玉焼きを皿へ移した。白身の端は茶色く縮れ、黄身は半熟のつもりが固くなっている。コーヒーは豆の量を間違え、湯の味が分かるほど薄かった。
「今日は全部失敗だな」秀夫はトーストを一口かじった。焦げた部分は苦かったが、食べられないほどではない。目玉焼きへ醤油を垂らしすぎたため、次からは小皿へ出してつけようと手帳へ書いた。
昼前、玄関の呼び鈴が鳴った。秀夫が扉を開けると、翔太が白菜と豚挽肉の入った袋を持ち、結衣が長葱と餃子の皮を抱えて立っていた。二人の上着から、冷たい外気と銀杏の葉の匂いが流れ込んだ。
「お父さん、ちゃんと片づけてる? 足の踏み場がないかと思って、靴下を二重にしてきたんだけど」結衣は笑いながら靴を脱いだ。濃い緑色の室内履きを見て、以前の青いスリッパより暖かそうだと言った。
「足の踏み場くらいある。昨日、掃除機もかけた」秀夫が胸を張ると、翔太は棚の上へ薄く積もった埃を指でなぞった。父親の掃除は床から上へ進まないらしいと言い、持参した布巾で棚を拭いた。
「人の家へ来て、最初に埃を探すな。母さんに似てきたぞ」秀夫が言った瞬間、三人の動きが止まった。秀夫は謝ろうとしたが、翔太が先に口を開いた。
「似ているところはあるよ。掃除が得意なのも、筍を茹でられるのも母さんから教わった。悪いところだけ受け継いだわけじゃない」
「そうだな。今の言い方はよくなかった」秀夫は言い直し、三人で台所へ材料を運んだ。狭い調理台へ、白菜、長葱、生姜、挽肉が順番に並べられた。
翔太が白菜を刻み、結衣が長葱を細かく切った。秀夫は挽肉へ調味料を入れたが、大匙と小匙を間違え、胡麻油を三倍近く加えてしまった。結衣が瓶を取り上げると、台所へ胡麻の濃い香りが広がった。
「お父さん、総務課長なのに、調味料の管理はできないんだね」結衣は笑い、白菜を足せば薄まると言った。秀夫は反射的に、すまないと口にしかけた。
「謝るほどのことじゃないよ。餃子が少し多くなるだけだ」翔太は冷蔵庫から残っていた白菜を出した。三人で刻むと、最初に用意した量の倍近い餡ができた。
「五十個も誰が食べるんだ」秀夫が尋ねると、結衣は冷凍すれば来週も食べられると答えた。来週という言葉を聞き、秀夫は食卓の端に置いた手帳へ目を向けた。
三人で餃子の皮を包み始めたが、秀夫の餃子だけは中央が膨らみ、端が閉じなかった。水をつけすぎるため、皮が指に張りつき、皿へ置く前に形が崩れる。結衣が作った餃子は、ひだが同じ方向へきれいに並んでいた。
「お父さんのだけ、餃子じゃなくて貝みたい」結衣が言うと、秀夫は餡を減らそうとした。翔太は形の崩れた一つを持ち上げ、これは父さん用の特大にすればいいと笑った。
焼き始めると、秀夫の餃子から中身が飛び出した。油へ肉汁が落ち、大きな音とともに三人の腕へ細かな油が跳ねた。結衣は声を上げて台所から逃げ、翔太は慌てて蓋を閉めた。
「お父さん、餃子まで家出させないでよ」結衣は廊下から顔だけを出した。秀夫はフライパンを見ながら、今度こそ謝りかけた。
「味は一緒だよ。次は水を少なくすればいい」翔太は崩れた餃子を自分の皿へ取った。皮が破れていても、焦げ目には羽がつき、生姜と胡麻油の匂いが食卓いっぱいに広がっていた。
三人は熱い餃子を頬張り、途中で水を飲みながら五十個の半分を食べた。残りは冷凍用の袋へ並べたが、秀夫の作った物だけ形が違うため、すぐに見分けがついた。結衣は袋へ「お父さん餃子・よく焼く」と書いた。
食後、秀夫が皿を洗っていると、結衣は棚の奥から黒い封筒を見つけた。中には、麗子の暴言を保存した記憶装置が入っている。結衣は勝手に触れず、棚の前で父親を呼んだ。
「お父さん、もう、あの録音は消したの?」結衣が尋ねた。秀夫は皿の泡を流し、濡れた手を布巾で拭いた。
「消していない。聞き返してはいないけど、削除しようとすると手が止まるんだ」秀夫は封筒を受け取り、中の記憶装置を確かめた。そこには三十年分の日時と、家の中で言われた言葉が保存されている。
「忘れなくてもいいんじゃない」翔太は冷凍庫へ餃子を入れながら言った。袋が大きすぎて入らず、冷凍してあった食パンを一度外へ出した。
「持っていることと、支配されていることは違うだろ。捨てられないなら、捨てなくていいよ」
秀夫は封筒の表へ「大城家記録・保管」と書いた。「精算完了」と書こうとして、ペンの先を止めた。あの家で過ごした時間には、麗子の暴言だけでなく、翔太が初めて歩いた日も、結衣が父の日にネクタイを選んだ日も入っている。すべてを一つの言葉で終わらせる必要はなかった。
封筒を戸棚の一番奥へしまうと、秀夫は新しい手帳を開いた。これまでの手帳には、学費の振込日、麗子を怒らせないための買い物、暴言を受けた時刻が並んでいる。新しい手帳の最初のページは、まだ白いままだった。
「来週も餃子を作るの?」結衣が覗き込んだ。秀夫は青いペンを動かし、大きめの文字で予定を書いた。
「来週土曜日、三人で餃子。今度は水を少なくする」
「胡麻油も少なくしてね。今日のは唇が光るくらい入ってたから」結衣は唇を紙ナプキンで拭き、父親の文字の横へ小さな餃子の絵を描いた。翔太は来週は鍋がいいと言い、三人で予定を餃子から鍋へ変えるかどうか、十分近く話し合った。
二人が帰ったあと、秀夫は窓の外へ干していたシャツを取り込んだ。襟にはアイロンがかかっておらず、乾いた布が少し斜めに折れている。秀夫はアイロン台を出そうとして、手を止めた。
「明日着る服くらい、明日の朝に決めればいい」秀夫はシャツを椅子の背へ掛けた。誰かに会う予定がなければ、多少しわがあっても困らない。
コーヒーをもう一杯淹れた。やはり薄かったが、今度は牛乳を少し足すと、柔らかな味になった。失敗した一杯を捨てずに、自分が飲みたい味へ変える方法も覚え始めている。
秀夫は青い室内履きを履き、上着を手に取った。外には午後の日差しが落ち、歩道の銀杏が風に吹かれている。玄関の鍵を開けても、どこへ行くのか尋ねる声はなかった。
「帰りに、コーヒー豆を買ってこよう」秀夫は自分へ聞かせるように言った。扉を閉めると、落ち葉を踏む乾いた音を立てながら、自分で選んだ道を商店街へ向かって歩き出した。




