エピローグ 九つの「ありがとう」
エピローグ 九つの「ありがとう」
十二月も半ばを過ぎ、商店街には赤や金色の飾りが揺れていた。クリスマスまであと一週間という土曜日、秀夫の部屋の窓辺には、結衣が買ってきた小さなポインセチアが置かれている。六畳の居間には折り畳み式の食卓を出し、その真ん中で銀色の鍋が白い湯気を上げていた。
「お父さん、これ、闇鍋?」結衣は生成りのセーターの袖をまくり、鍋の中をのぞき込んだ。春菊、白菜、長葱、鶏肉、鮭が隙間なく詰め込まれ、中央には椎茸が裏返しになって浮いている。
「寄せ鍋だ。入っている物は、全部見えているだろう」秀夫は台所から柚子を持ってきた。黄色い皮を薄く削いで刻むと、爽やかな香りが、鶏肉と鮭の煮える匂いに重なった。
「寄せすぎ鍋じゃない? 鮭と鶏肉を一緒に入れるなら、出汁を薄くしないと喧嘩するよ」翔太は灰色のパーカーを脱ぎ、背もたれへ掛けた。鍋の蓋を開けたまま話すため、眼鏡が湯気で白く曇った。
「喧嘩をしているようには見えないぞ。鶏肉は鶏肉の場所、鮭は鮭の場所で煮えている」秀夫は刻んだ柚子の皮を鍋へ散らした。深い緑の春菊、白い白菜、橙色の鮭の上へ黄色が加わり、狭い部屋の食卓が急に明るくなった。
「それなら、家族みたいな鍋だね。それぞれ勝手なことを言うけど、同じ食卓には座れる」結衣は窓の曇りへ指で丸を描いた。外のベランダには洗ったばかりの白いシャツが一枚残り、冷たい風に袖を振られていた。
「うまいことを言ったつもりだろうが、洗濯物を取り込むのを手伝ってくれ」秀夫が頼むと、結衣は笑って立ち上がった。ベランダから戻ってきたときには鼻の先が赤くなり、冷えたシャツから冬の日差しの匂いがした。
翔太は鍋の灰汁を取り、結衣は小皿へ柚子胡椒を分けた。秀夫が買ってきた柚子胡椒は思ったより辛く、結衣は箸の先ほど舐めただけで、慌てて麦茶を飲んだ。三人の箸が何度も鍋の中でぶつかり、そのたびに誰の白菜だったかという、どうでもよい言い争いが起きた。
「鮭、もう煮えたかな」結衣が箸を伸ばすと、翔太がまだ中は生かもしれないと止めた。秀夫は鍋用だから大丈夫だと言ったが、結局三人とも心配になり、鮭を裏返してもう一分待つことにした。
「お父さん、前回の餃子よりは進歩したね。今日は中身が鍋から逃げないもの」
「蓋をしているからな。俺だって学習する」
「鍋に蓋をするのは学習じゃなくて普通だよ」
結衣が笑うと、秀夫も箸を持ったまま笑った。以前なら料理をからかわれただけで、麗子の声を思い出し、自分の失敗を探していただろう。今は、鍋の蓋を忘れたことと、人間として役に立たないことが、まったく別の話だと分かっていた。
三人は鮭と鶏肉を取り分け、柔らかく煮えた白菜を食べた。柚子の香りが鼻へ抜け、春菊の苦みが鶏肉の脂を軽くする。秀夫の椀には長葱ばかり入り、翔太の椀には椎茸が三枚重なっていた。
「おいしい。春菊、もう一袋買ってくればよかったね」結衣は眼鏡を外し、湯気で曇ったレンズをセーターの裾で拭いた。翔太は、それでは春菊鍋になってしまうと言いながら、残った春菊を全部自分の椀へ入れた。
「うまいな。体の中から温まる」秀夫は鶏肉を噛み、熱い汁をゆっくり飲み込んだ。味は少し薄かったが、醤油を足すほどではなかった。
「お父さん、今、不満を探したでしょう」結衣が見抜いたように言った。秀夫は椀を持ったまま、どうして分かったのかと尋ねた。
「眉がちょっと動いた。味が薄いと思ったんじゃない?」
「少しだけな。でも、薄いほうが柚子の香りは分かる。これはこれでいい」
食卓の端には、秀夫が古本屋で買った随筆集が置かれていた。鍋敷きを探したときに本棚から落ちたため、そのままになっている。開いたページには、秀夫が鉛筆で線を引いた文章があった。
「九つまで満ち足りていて、十のうち一つだけしか不満がない時でさえ、人間はまずその不満を真っ先に口から出し、文句を言い続けるものなのだ。……なぜわたしたちは不満を後まわしにし、感謝すべきことを先に言わないのだろう」
結衣は文章を声に出して読み、本を閉じた。秀夫は鍋の汁をかき混ぜながら、その言葉を何度か頭の中で繰り返した。麗子は一つの不満を見つけると、残りの九つが見えなくなる人だったが、自分もまた、妻を怒らせないことばかり考え、子どもたちと食卓を囲める時間を数えなかった。
「お父さん、母さんに感謝しろって意味じゃないからね」翔太は先に釘を刺した。煮えすぎた鮭を崩し、骨がないか箸で確かめている。
「分かっている。感謝したからといって、されたことを許す必要はない。戻る必要もない」秀夫は答えた。何かに感謝することは、その相手へ人生を差し出す契約ではなかった。
「それなら、一つ目。今日、鍋を作ってくれてありがとう」結衣は指を一本立てた。秀夫も数えるように、箸を置いて右手を開いた。
「来てくれてありがとう。材料を買ってきてくれてありがとう。洗濯物も取り込んでくれた」
「それじゃ、もう三つだよ。お父さん、欲張り」
「九つまで数える話じゃなかったのか」
翔太は白菜を食べながら、鍋の灰汁を取った自分にも感謝してほしいと言った。結衣は、来る途中でポインセチアを落とさずに運んだ自分の功績も加えた。三人は鍋とは関係のないことまで持ち出し、九つの「ありがとう」を数え始めた。
「俺たちを大学まで出してくれて、ありがとう」翔太が七つ目に言った。秀夫はすぐに返事をせず、鍋の底に沈んだ白菜をすくった。
「二人とも卒業してくれて、ありがとう。父親らしいことが全部できたとは思っていないが、学校へ通う姿を見られた」
「じゃあ、お父さんが離婚してくれて、ありがとう」結衣は八本目の指の代わりに、両手から一本ずつ折った。秀夫は椀を置き、娘の顔を見た。
「それは、ありがとうと言われることなのか」
「うん。家を出てくれたから、私も母さんの機嫌を取る役をやめられた。お父さんが自分のために決めてくれて、よかった」
九つ目を誰が言うかで、三人はしばらく黙った。鍋の火を弱めると、沸騰していた汁が静かになり、柚子の皮が表面をゆっくり回った。窓辺のポインセチアは暖房の風を受け、赤い葉をわずかに揺らしている。
「来年も、三人で食べよう」秀夫が言った。感謝ではないと結衣が指摘し、翔太は来年の約束を先に入れるのも悪くないと笑った。
食後、三人は残った汁へ冷や飯と溶き卵を入れ、雑炊を作った。米が汁を吸い、卵の黄色と春菊の緑が鍋の中へ広がる。結衣は塩を入れすぎそうになり、翔太から手首をつかまれた。
「お兄ちゃん、料理奉行みたい。細かい男は嫌われるよ」
「食べる前から塩を入れる人には言われたくない」
「まあまあ。文句はあとにしなさい。先に感謝だろう」
「じゃあ、止めてくれてありがとう。細かいけど」
「余計な一言がついてるぞ」
三人は笑いながら雑炊を食べた。鍋底には少し米が焦げつき、香ばしい匂いがした。秀夫は鍋を洗うときに苦労しそうだと考えたが、今は温かいうちに最後の一口を食べることにした。
二人が帰ったあと、部屋は急に静かになった。食卓には使った小皿が重なり、床には結衣が落とした長葱の青い切れ端が一本残っている。秀夫はすぐに片づけず、薄くなった柚子の香りが部屋に残る間、椅子へ座っていた。
携帯電話を見ると、麗子から文章が一通届いていた。離婚後、必要な連絡は代理人を通していたため、麗子本人から届いたのは初めてだった。秀夫は迷った末、画面を開いた。
《今日、翔太に教えた通りに筍を茹でられたと聞きました。二人を大学まで育てられたのは、あなたが働いたからでもあります。今まで、それを言いませんでした》
謝罪の言葉は書かれていなかった。死ねと言ったことへの説明も、許してほしいという言葉もなかった。秀夫は返信欄を開いたが、すぐには文字を打たなかった。
感謝されたからといって、三十年の記録は消えない。麗子を許し、元の関係へ戻る必要もない。それでも、書かれている言葉を、書かれていない言葉で汚す必要はなかった。
《読みました。二人を育てたことについては、私も感謝しています》
秀夫はそれだけを送り、携帯電話を伏せた。許したとも、会いたいとも書かなかった。感謝することと、離れて生きることは、同時に選んでもよかった。
秀夫は新しい手帳を開いた。十二月のページには、今日の鍋の材料と、翔太たちが来た時刻が書かれている。その下へ、青いペンで一行を加えた。
「九つ目。温かい鍋を、おいしいと言える夜が来た。ありがとう」
窓の外では、商店街のクリスマス飾りが赤く光っていた。秀夫はベランダに残った洗濯ばさみを取り込み、室内履きの向きをそろえた。鍋の残り香が消える前に灯りを消し、自分で決めた時刻に布団へ入った。




