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第2話 死ねと書かれた朝食

第2話 死ねと書かれた朝食


 翌朝、秀夫が台所へ入ると、開け放した勝手口から三月の冷たい風が流れ込んでいた。専用庭では沈丁花が咲き、甘い匂いに混じって、隣家で干された洗濯物の柔軟剤の香りが漂っている。麗子は淡い藤色のカーディガンを羽織り、食卓でスマートフォンを眺めていた。


「おはよう」秀夫はいつもと同じ声で挨拶した。返事はなく、麗子の親指だけが画面の上を忙しく動いていた。結婚した頃には、挨拶を返さないまま朝を始める夫婦になるとは考えていなかったが、今では返事がある日のほうが珍しかった。


 麗子の白い皿には、表面がつやつやしたクロワッサンが二個と、大粒の苺が五個並んでいた。秀夫の前には、端が反り返って硬くなった食パンが一枚置かれている。冷蔵庫には昨夜の祝い膳から残した蛤の吸い物が入っていたが、秀夫の椀へよそわれることはなかった。


 秀夫は食パンを手に取り、鼻へ近づけた。バターの匂いはなく、古い小麦粉に似た臭いがする。台所のごみ箱を見ると、賞味期限が四日前に切れた食パンの袋が、苺のへたの下に押し込まれていた。


「これ、期限が切れているな」秀夫は袋を引き出し、印字された日付を確かめた。麗子はようやく顔を上げたが、夫ではなく、食パンの袋を汚い物のように見た。


「賞味期限でしょう。消費期限じゃないんだから、死にはしないわよ」麗子はコーヒーカップを持ち上げ、赤い爪で取っ手を二度叩いた。カップの横には蜂蜜の小瓶があり、麗子はクロワッサンへさらに蜂蜜を垂らしていた。


「四日過ぎている。それに、少し臭う。これは食べないよ」秀夫は食パンを皿へ戻した。麗子はカップを受け皿へ置き、目を細めた。


「細かいことばかり気にしているから出世できないのよ。部長になれる人なら、パン一枚で朝から妻へ文句なんて言わないわ」麗子は苺の先だけをかじり、酸っぱかったのか、残りをごみ箱へ投げた。秀夫は赤い実が食パンの袋の上へ落ちる音を聞きながら、冷蔵庫を開けた。


「文句じゃない。食べられない物は食べないと言っただけだ」卵のパックには二個残っていた。秀夫が一個を取り出すと、麗子は椅子の背へ体を預け、大きく息を吐いた。


「食べたくないなら、食べなければいいでしょう。自分で何か作る能力もないくせに」その言葉とは反対に、秀夫がフライパンを取り出すと、麗子は眉をつり上げた。昨日洗ったフライパンの底には水滴が残り、火にかけると小さな音を立てて蒸発した。


「朝から卵一個のためにガスを使うの? 油まで使って、洗い物も増やして、本当に無駄ばかりね」麗子は自分のクロワッサンを食べ終えると、指についた蜂蜜を紙ナプキンで拭いた。秀夫は何も答えず、油を薄く引いて卵を割った。


 白身が焼ける音とともに、香ばしい匂いが台所へ広がった。黄身の縁が白くなったところで火を止め、秀夫は目玉焼きを皿へ移した。冷蔵庫から麦茶を出すと、麗子はコーヒーを飲み終えた自分のカップだけを流しへ運んだ。


「私、お昼は恵美さんたちとホテルへ行くから。夕食は外で済ませてきて」麗子はクロワッサンの屑が落ちたままの食卓を残し、椅子へ掛けていた薄桃色のストールを肩へ巻いた。秀夫は塩だけを振った目玉焼きを食べ、黄身を拭ったパンの代わりに、戸棚からクラッカーを三枚出した。


「分かった。帰りは遅くなるのか」秀夫が尋ねても、麗子は返事をしなかった。玄関の扉が閉まってから、秀夫は台所の時計を確認し、紺色の手帳を開いた。


 三月二十六日、午前七時十二分。挨拶への無視、賞味期限切れの食パン、出世に関する侮辱、調理への非難。秀夫は感想を加えず、言われた言葉をできるだけ正確に書いた。以前は殴り書きだった記録も、今では会社の議事録と同じように、日時、場所、発言者、同席者の順に整えている。


 昨夜椅子へ掛けておいた紺色のネクタイは、麗子によって洗濯籠へ放り込まれていた。汚れてはいなかったが、結衣から褒められた物を麗子の目につく場所へ置いたのがいけなかったらしい。秀夫は別の臙脂色のネクタイを締め、紺色のほうは籠から拾って、自室の鞄へしまった。


 駅までの道には、昨夜の雨でできた水たまりが残っていた。公園の雪柳が白い小花をつけ、登校途中の小学生が傘の先で水たまりを突いている。秀夫はいつもの売店で無糖の缶コーヒーを買い、ホームの端で電車を待った。


「課長、おはようございます。昨日は娘さんの卒業式でしたよね」後ろから声をかけたのは、総務課の部下である山岸だった。灰色のスーツに、黄色い小花柄のネクタイを締めている。秀夫は缶コーヒーを鞄へ入れ、昨日の写真を思い浮かべた。


「ああ。天気も何とかもってくれたよ。山岸君、そのネクタイは春らしくていいな」秀夫が言うと、山岸は照れたように結び目を触った。五歳になる娘が選んだのだと話し、黄色い蝶々だと言い張るので買わされたと笑った。


「子どもが選んでくれた物なら、いい物だよ。大事にしなさい」秀夫はそう答え、自分の紺色のネクタイが鞄の底に入っていることを確かめた。電車がホームへ入り、鉄とブレーキの焦げた臭いが朝の空気を押しのけた。


 車内は混んでいたが、秀夫は運よく扉脇に立つことができた。窓の外では、住宅の屋根と満開に近い辛夷の花が後ろへ流れていく。山岸が別の車両へ移ったあと、秀夫はスマートフォンを取り出し、昨夜保存した匿名サイトを開いた。


 麗子が使っていると思われる投稿者名は「耐える妻三十年」だった。誕生日、家族構成、夫の勤務先の業種、娘の卒業日、昨夜の祝い膳の内容まで、家庭内の事実と一致している。画面には、深夜零時十四分に投稿された新しい文章が表示されていた。


《夫は娘の卒業式にも、よれよれの安物を着て来ました。私が三十年かけて育てた娘なのに、自分が立派な父親みたいな顔で写真へ入ろうとして気持ち悪かった。学費を稼いだくらいで、父親の役目を果たしたつもりなのでしょうか》


 秀夫は電車の揺れに合わせて手すりを握り直した。昨日のワイシャツは麗子が選んだ百貨店の商品で、スーツも年に二度しか着ない礼服用だった。そんなことを投稿欄へ書き返しても意味はないと分かっていたが、右手の親指は一度だけ返信ボタンの近くまで動いた。


《健康診断で血圧が高いと言われたらしいので、揚げ物を増やしています。薬を飲み忘れていても教えません。どうせなら心筋梗塞で急に死んでくれたほうが、介護をしなくて済みます。保険金が入ったら、友人とヨーロッパへ行きたいです》


 数年前、健康診断で血圧の再検査を勧められた時期に、食卓へ唐揚げや天ぷらが増えたことを秀夫は思い出した。麗子は働く男には肉が必要だと言い、食べ残すと料理を無駄にしたと責めた。その頃の秀夫は、妻なりに体を気遣っているのだと思おうとしていた。


 さらに下へ指を滑らせると、今朝の投稿があった。賞味期限切れのパンを出したところ、夫が神経質に騒いだと書かれている。公開時刻は午前七時二十一分で、麗子が食卓でスマートフォンを操作していた時間と重なっていた。


《少しくらい古いパンを食べて、お腹を壊せば会社を休むでしょう。そのまま居場所をなくして退職してくれたら面白いのに》


 秀夫は投稿全体が表示されるよう画面を保存した。投稿時刻、利用者名、ページのアドレスも一緒に記録する。匿名投稿だけで麗子が書いたと断定せず、家庭内でしか知り得ない事実との一致を別の表へ書き加えた。


 麗子のスマートフォンを勝手に開いたことはない。暗証番号を盗み見たり、通信履歴を調べたりもしていない。証拠を集めるために自分が法を踏み外せば、三十年間積み上げた記録まで濁ってしまうと、相沢から昔教えられていた。


 会社へ着くと、給湯室から味噌汁の匂いがした。早朝出勤の社員が、弁当用の即席味噌汁を飲んでいるらしい。秀夫は自席の観葉植物へ少量の水をやり、机の引き出しに入れてあった胃薬を一錠飲んだ。


「課長、昨日の稟議書、判子が一か所抜けていました。珍しいですね」山岸が書類を差し出した。秀夫は謝って判を押したが、朱肉の蓋を閉める手に力が入り、乾いた音が机の上へ響いた。


「体調、悪いんですか。顔色がいつもより白いですよ」山岸は声を落とし、自分の引き出しから小さな羊羹を一つ出した。娘の卒業祝いに取引先からもらった物だから、糖分補給にどうぞと言って秀夫の机へ置いた。


「ありがとう。昼に食べるよ」秀夫は羊羹をすぐには食べず、黄色い包装紙を指で撫でた。家の外では、パン一枚を食べないというだけで罵られることもなく、卵一個を焼いた費用を責められることもなかった。


 昼休みになると、秀夫は羊羹と缶コーヒーを持ち、建物の非常階段へ向かった。踊り場の窓には埃がたまり、下の飲食店から焼いた鯖の匂いが上がってくる。冷たいコンクリートの段へ腰を下ろし、秀夫は三十年前の名刺に書かれた番号を押した。


「相沢法律事務所でございます」女性の声が聞こえたため、秀夫は一度姿勢を正した。大城と名乗り、相沢健一へつないでほしいと頼むと、保留音が十秒ほど流れた。


「もしもし、大城さん。ずいぶん久しぶりだな」学生時代より低くなった声だったが、語尾を少し伸ばす話し方は変わっていなかった。秀夫は膝の上で、黄ばんだ名刺の角を押さえた。


「健一。三十年前に、お前がくれた名刺をまだ持っている」秀夫が言うと、電話の向こうで椅子がきしんだ。相沢は冗談を返さず、短く息を吸った。


「離婚するのか」相沢の声から、普段の気安さが消えていた。秀夫は非常階段の窓から、向かいの建物の屋上で揺れている白いシャツを見た。


「ああ。今度こそ、相談だけでは終わらせない」秀夫は言葉にしてから、手の中の羊羹を一口食べた。固いパンの臭いはもう残っておらず、舌の上には小豆の甘さがゆっくり広がった。


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