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第1話 最後の卒業式

第1話 最後の卒業式


 三月の朝、窓ガラスには薄い曇りが残り、専用庭の隅では植木鉢の沈丁花が白い花を開いていた。大城秀夫は寝室の姿見の前に立ち、白いワイシャツの襟を指で押さえながら、紺色のネクタイを締め直した。二十年以上使っている鏡は右上が黒く変色しており、そこへ顔が重なると、こめかみの白髪が実際よりも多く見えた。


「その色、顔が余計にくすんで見えるわよ。五十五にもなって、ネクタイ一本まともに選べないの?」麗子はベッドへ脱ぎ捨てられていた薄桃色のストールを拾い、肩へ掛けながら鼻で笑った。甘い百合の香水が狭い部屋に広がり、秀夫は昨夜から乾かなかった喉を一度鳴らした。


「結衣が、紺色で来てって言ったんだ。袴が深緑だから、並んだときに合うらしい」秀夫は結び目を指一本分だけ緩めた。麗子は鏡台の口紅を塗り直し、ティッシュへ唇を押し当てると、その赤い跡を丸めてごみ箱へ投げた。


「並ぶつもりだったの? どうせ写真には入らないんだから、何色でも同じでしょう」麗子はそう言って、先に部屋を出た。廊下には昨日取り込んだ洗濯物が籠のまま置かれ、秀夫の靴下だけが籠の底から片方はみ出していた。


 朝食の食卓には、麗子が自分のために買った苺のデニッシュと、秀夫が昨夜コンビニで買ったあんパンが並んでいた。秀夫が袋を開けると、黒胡麻が二粒、皿の外へ転がった。麗子はコーヒーを飲みながら何度も時計を見て、卒業式の日まで安いパンを食べるなんてみっともないと呟いた。


「これ、粒あんなんだ。結衣が小学生の頃、こしあんじゃなきゃ嫌だって泣いたことがあったな」秀夫が笑いかけても、麗子はスマートフォンの画面を指で滑らせていた。返事の代わりにカップが受け皿へ強く置かれ、冷めたコーヒーが縁から一滴こぼれた。


 大学の正門前には、紺や深緑の袴を着た卒業生が集まっていた。花束のセロハンが風に鳴り、露店で売られている焼き菓子の甘い匂いが、人の多い通路まで流れてきた。秀夫は胸ポケットの小さな箱を上から押さえ、録音中であることを確かめた。


「お父さん、ちゃんと来られたんだ。朝、母さんが先に出ちゃったって聞いたから」深緑の袴を着た結衣が、人の間を縫うようにして近づいてきた。白い椿の髪飾りが風で揺れ、慣れない草履の鼻緒が痛むのか、結衣はときどき右足を浮かせた。


「駅で迷う歳じゃないぞ。卒業、おめでとう」秀夫は紙袋から小さな花束を取り出した。黄色いフリージアと白いスイートピーを束ねたもので、花屋から勧められた薄緑のリボンが結ばれていた。


「わあ、いい匂い。私、この花が好きだって覚えてたの?」結衣は花へ鼻を近づけ、頬を緩めた。秀夫が答える前に、赤いスーツを着た麗子が結衣の肩を引き寄せ、花束の値段を尋ねた。


「三千円くらいの物を買ったんじゃないでしょうね。花なんて今日が終われば枯れるのに」麗子はリボンの端をつまみ、安っぽいと小声で付け加えた。結衣は花束を両腕で抱え直し、母親の指からそっと遠ざけた。


 式が終わる頃には雲の切れ間から日が差し、校舎脇の白木蓮が大きな花を開いていた。卒業生たちは桜の造花で飾られた看板の前に列を作り、翔太も仕事を早退して合流した。秀夫が四人で並べる場所を探していると、麗子は近くにいた女子学生へ自分のスマートフォンを渡した。


「すみません、この三人を撮ってくださる?」麗子は翔太の腕を取り、反対側へ結衣を立たせた。秀夫が一歩近づくと、麗子は笑顔のまま片手を上げて止めた。


「この人が入ると、せっかくの写真が貧乏くさくなるの。お父さんは撮る側でいいでしょう?」麗子は女子学生からスマートフォンを受け取り、そのまま秀夫へ押しつけた。女子学生は口元を引きつらせ、友人に呼ばれたふりをして足早に離れていった。


「母さん、四人で撮ればいいだろ」翔太が眉を寄せると、麗子は春風で乱れた前髪を直した。秀夫は息子がもう一度口を開く前に、スマートフォンを横向きに構えた。


「結衣、花を少し上げたほうがきれいに見えるぞ。翔太はもう半歩、母さんのほうへ寄ってくれ」秀夫は画面の中央へ三人を収めた。麗子は満足そうに笑い、翔太は唇を固く結び、結衣だけがレンズではなく、その向こうの父を見ていた。


 夕食には、麗子が百貨店で注文した祝い膳が並んだ。鯛の昆布締め、筍の木の芽あえ、蛤の吸い物は色鮮やかだったが、配達から二時間たっていたため、吸い物の表面には薄い膜が張っていた。秀夫は膜を箸の先で破り、冷えた蛤を口へ運んだ。


「結衣が立派に卒業できたのは、私が家計を切り盛りしたからよ。課長止まりの人のお給料で、私立大学へ二人も通わせるのは大変だったんだから」麗子は日本酒の入ったグラスを傾け、鯛の切り身を口へ入れた。四万八千円の祝い膳は、昨日、秀夫名義の家族カードで決済されていた。


「俺の大学の学費、父さんが残業して払ってくれたんだろ」翔太が言うと、麗子は箸を止めた。秀夫は胸ポケットの上からレコーダーへ触れ、息子へ首を振ってみせた。


「会社へ行けば誰だって給料はもらえるの。家で節約するほうが、よほど頭を使うのよ。それに、あなたのお父さんの親戚は、結衣の祝いにもろくな物を送ってこなかったでしょう?」麗子は、秀夫の姉から届いた手編みの膝掛けを思い出したらしく、あんな貧乏くさい物は使えないと笑った。結衣は木の芽あえを混ぜていた箸を置き、祝い膳を半分以上残して自室へ戻った。


 深夜、家の中から音が消えると、秀夫は物置代わりにされている三畳の部屋へ入った。壁際には使われなくなった健康器具や麗子の旅行鞄が積まれ、机の端には、いつ飲んだのか思い出せない胃薬の空袋が残っていた。秀夫は折り畳み椅子へ座り、胸ポケットからレコーダーを取り出して停止ボタンを押した。


 パソコンを起動すると、画面に年ごとのフォルダが並んだ。暴言の録音、日記、給与明細、学費の振込記録、胃潰瘍と不眠で通院した診療記録が、すべて日付順に保存されていた。端には、麗子が匿名サイトへ投稿した文章を保存するためのフォルダがあった。


《今日も役立たずが帰ってきた。早く死んで保険金だけ残してほしい》


 今日の投稿には、卒業式へよれよれの服で現れた夫が、立派な父親のふりをして写真に入ろうとした、と書かれていた。秀夫は投稿時刻と画面のアドレスが入るように保存し、卒業式で撮影した写真もパソコンへ移した。写真の中に秀夫はいなかったが、白いスイートピーを抱えた結衣だけが、真っすぐこちらを見ていた。


「お父さん自身のために、いつか決めてね」


 数年前、結衣が台所でこぼした言葉を、秀夫は思い出した。あの日の結衣は、母親が投げた湯飲みの欠片を拾いながら、指先から血を出していた。それでも秀夫は、就職するまで、卒業するまでと、決断を先へ延ばしてきた。


 秀夫は机の引き出しを開け、三十年前に相沢からもらった古い名刺を取り出した。紙は黄ばみ、電話番号の横には、相沢が学生時代から使っていた癖のある数字が残っている。窓の外を新聞配達のバイクが通り、冷えた部屋へエンジン音が短く響いた。


「今日で二人とも大学を出た。俺が勝手に決めた約束は、今日で終わりだ」


 声に出しても、家の中では誰も返事をしなかった。秀夫は名刺の番号を新しい手帳へ書き写し、明日の昼休みという言葉を丸で囲んだ。それから紺色のネクタイを椅子の背へ丁寧に掛け、三十年分の記録が入ったパソコンの電源を静かに落とした。


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