第76話 もう少し、あと少し
あれから数日。
玲は、朝から研究室に籠もっていた。
机の上には、形の違う小さな容器がいくつも並んでいる。
どれも、トリートメントの試作品だ。
「……うーん」
玲は一つを手に取り、蓋を開ける。
「これは……ちょっと重いかな」
次の容器。
「こっちは軽すぎる」
さらに別のものを手に取る。
「香りはいいんだけど……」
玲は髪の一房を指先でつまみ、感触を確かめる。
「もう少し、しっとりしてほしい」
試作品を並べ直しながら、玲は小さく息を吐いた。
シャンプーは、ようやく完成した。
だからこそ、その後に使うものも妥協したくなかった。
髪を洗った後のきしみを抑える。
指通りを滑らかにする。
毛先までまとまりやすくする。
それでいて、重たくならない。
香りも強すぎず、使うたびに心地よく感じてもらえるもの。
「……欲張りかな」
玲は苦笑した。
けれど、これが玲の性格だった。
一度作ると決めたなら、自分が納得できるものを作りたい。
「もう一回」
玲は材料を取り出した。
***
昼過ぎ。
研究室の扉が開いた。
「玲様、お昼ですよ」
エミリアだった。
「ありがとう」
玲は机から顔を上げる。
「でも、まだ食べる気分じゃなくて……」
「駄目です」
「え?」
「朝から何も召し上がっていませんよね?」
「……どうして分かったの?」
「マリアが言っていました」
「マリア……」
玲が苦笑する。
エミリアは昼食を机の端に置いた。
「研究が大事なのは分かります。でも、玲様が倒れたら、みんな困ります」
「うん……分かった」
玲は素直に頷いた。
すると、足元から小さな声がする。
『私もそう思う』
「アビーまで」
『朝からずっと研究してるもの』
「だって、もう少しで何か掴めそうなんだもん」
『だからこそ、ちゃんと食べて』
「はい……」
玲が食事を始めると、アビーは満足そうに玲の足元へ戻った。
その少し離れたところでは、雷電も伏せたまま玲を見ている。
「雷電も心配してくれてるの?」
「ワン」
『うん、だって』
アビーが通訳する。
『玲は夢中になると、他のことを忘れるから』
「……二人とも私のこと分かってるなぁ」
玲は笑った。
***
昼食を終えると、玲は再び研究に戻った。
「さて……」
さっきまでの試作品を一つずつ確認する。
「保湿は足りてる」
「でも、こっちは重い」
「こっちは軽いけど、まとまりが足りない」
紙に一つずつ書き込んでいく。
失敗。
また失敗。
少し改善。
けれど、まだ納得できない。
「……難しい」
玲は椅子の背もたれに体を預けた。
日本で化粧品を開発していた頃も、何度もこういう壁にぶつかった。
一回で理想のものができることなんて、ほとんどない。
だからこそ――。
「ここで諦めるわけにはいかないよね」
玲は立ち上がった。
***
夕方。
研究室に、マリアが顔を出した。
「玲様」
「マリア、どうしたの?」
「材料の在庫について確認したくて」
マリアが手にした帳簿を開く。
「トリートメントの試作で使っている材料ですが、今のところ問題ありません」
「ありがとう」
「ただ、完成したらシャンプーと同じくらい注文が来る可能性もありますよね?」
「うーん……どうだろう」
玲は考える。
「まだ試作品だから分からないけど」
「私は、かなり売れると思います」
「え?」
「シャンプーを買われたお客様が、次の商品を楽しみにしていると聞きましたから」
マリアは微笑んだ。
「だから、完成したら大変になりそうだなって」
玲も思わず笑う。
「そっか」
パール化粧品の商品を待ってくれている人がいる。
それを考えると、自然と気持ちが前向きになる。
「じゃあ、頑張らないとね」
「はい」
マリアが研究室を出ていく。
玲はもう一度、試作品に向き合った。
***
夜。
外はすっかり暗くなっていた。
研究室の中には、まだ明かりが灯っている。
「……これ」
玲は新しく作った試作品を見つめていた。
今までとは少し違う。
手に取った時の感触。
伸ばした時の滑らかさ。
そして、髪につけた時のなじみ方。
「……いいかも」
玲は自分の髪を指で梳く。
するり。
指が引っかからずに通った。
「……!」
もう一度。
するり。
「これ……」
玲の顔に、自然と笑みが浮かぶ。
まだ完璧ではない。
けれど、今までの試作品とは明らかに違う。
「重くない」
もう一度、毛先を触る。
「それなのに、ちゃんとまとまってる」
玲は試作品を見つめた。
「香りも……うん」
強すぎない。
これなら毎日使ってもらえる。
「……これ、かな」
その時、扉の向こうから足音が聞こえた。
「玲?」
「レオン?」
扉が開き、レオンが顔を覗かせる。
「まだ研究していたのか?」
「うん。でもね」
玲は嬉しそうに試作品を見せた。
「少しだけ、手応えが出てきたの」
レオンは容器を覗き込む。
「これが?」
「そう。まだ完成じゃないけど」
玲は試作品を大切そうに持つ。
「今までで一番いい感じ」
「そうか」
レオンは嬉しそうに微笑んだ。
「なら、もう少しだな」
「うん」
玲も頷く。
「もう少し」
その足元で、雷電が尻尾を振る。
アビーも玲を見上げた。
『頑張ってね、玲』
「うん。ありがとう」
玲はもう一度、試作品を見る。
焦らなくていい。
納得できるものを作ればいい。
待ってくれている人たちに、胸を張って渡せるものを。
「……もう少し」
玲は小さく呟いた。
「もう少しで、届きそう」
研究室の灯りは、その夜も遅くまで消えることはなかった。
トリートメント完成まで――あと少し。
ー76話 終―




