第6話 王城に残された聖女
王城。
玲が姿を消してから、二日が経っていた。
「……まだ見つからないのか?」
重々しい声が、王城の一室に響く。
「申し訳ございません」
報告に来た騎士が頭を下げる。
「城内はもちろん、王都の門も確認しております。しかし、今のところ、それらしい女性を見たという情報はありません」
「王都から出た可能性は?」
「門を通った記録には、それらしい人物は――」
騎士が言葉を濁した。
「ありません」
「……ふん」
男は苛立たしげに椅子へ腰を下ろした。
「聖女ではないのだ。そこまで躍起になって探す必要があるのか?」
その部屋の端にいた愛莉は、黙って話を聞いていた。
――あの人。
愛莉の頭に、玲の顔が浮かぶ。
召喚される前。
家の近所で、時々見かけた女性。
柴犬とチワワを連れて、いつも散歩していた。
何度か見かけたことがある。
けれど、それだけだった。
話したことはない。
まさか、あの人と同じ場所に召喚されるなんて。
召喚された直後、初めて近くで顔を見て。
「あ……」
と思った。
いつも犬を連れて歩いている人だ、と。
そして、少し話したことで初めて名前を知った。
――玲。
それだけの関係だった。
友達でもない。
知り合いと呼べるほどでもない。
それでも。
王城から突然いなくなったと聞けば、気になった。
「……あの」
愛莉が口を開く。
男が振り返った。
「何だ、聖女殿」
「一緒に召喚された人……」
「また、その話か」
「はい」
愛莉は少しだけ怯みながらも続けた。
「ちゃんと探した方がいいと思います」
「何故だ?」
「それは……」
愛莉は言葉を探す。
「あの人、すごく怖がっていたから」
「召喚されたばかりなのだから、混乱していただけだろう」
「でも……」
あの時の玲の表情。
ただ戸惑っていただけではなかった。
何かを警戒していた。
何かから逃げようとしていた。
そして――
突然、姿を消した。
「何か理由があったんだと思います」
男は鼻で笑った。
「聖女殿。あの女は聖女ではなかった」
「……」
「魔力の反応も違った。王国として必要なのは、聖女であるお前だ」
愛莉は唇を噛んだ。
「でも、だからって……」
「もうよい」
男が話を切った。
「それより、お前には聖女としてやってもらわねばならないことが山ほどある」
「……はい」
愛莉は俯いた。
その時だった。
「……お待ちください」
別の騎士が口を挟んだ。
「何だ?」
「一つ、確認したいことがあります」
「言ってみろ」
騎士が手元の書類をめくる。
「先ほどから、あの女性の捜索について話しておりますが……」
「それがどうした?」
「その女性の名前は?」
部屋が静かになった。
「…………」
誰も答えない。
愛莉が顔を上げた。
騎士が困惑したように周囲を見る。
「召喚記録を確認しましたが、聖女様の名前しか記載されておりません」
「何だと?」
「召喚された人数については記録があります。しかし、もう一人の女性については、名前も身元も記載がありません」
男が眉を寄せる。
「では、誰を探している?」
「……」
騎士が黙る。
愛莉は思わず口を開いた。
「玲……」
全員の視線が愛莉へ集まった。
「……何?」
「名前です」
愛莉は答えた。
「玲っていう名前です」
「玲?」
「はい」
愛莉は頷いた。
「一緒に召喚された人の名前です」
男が騎士を見る。
「記録に追加しておけ」
「承知しました」
騎士が書類へ目を落とす。
だが、すぐに眉を寄せた。
「……しかし」
「何だ?」
「姓は?」
「え?」
愛莉の表情が固まる。
「玲さんの……名字は?」
「…………」
知らない。
愛莉は玲の名前しか知らなかった。
考えてみれば当然だ。
元の世界でも話したことがない。
召喚されてからも、まともに会話をする時間などなかった。
「……分かりません」
愛莉が小さく答えた。
騎士がため息をつく。
「では、年齢は?」
「それも……」
「出身地は?」
「日本……です」
「それは聖女様と同じだろう」
「……はい」
「職業は?」
「……分かりません」
男が苛立ったように机を叩いた。
「では、何も分からんではないか!」
愛莉の肩が跳ねる。
「……すみません」
「お前が知っているのは『玲』という名前だけか?」
「……はい」
部屋に重い沈黙が落ちた。
愛莉は俯いた。
自分は、あの人のことを何も知らない。
ただ。
近所で何度か見かけた。
いつも柴犬とチワワを連れて散歩していた。
それだけ。
それなのに。
なぜか、胸の奥がざわつく。
「……あの人」
愛莉が呟いた。
「どうした?」
「いつも……犬を二匹連れていました」
「犬?」
「柴犬と、チワワです」
愛莉は必死に思い出す。
「いつも一緒に散歩していて……」
騎士が書類に何かを書き込む。
「特徴として記録しておきます」
「お願いします」
愛莉は小さく頷いた。
その時。
「失礼します!」
扉が勢いよく開いた。
別の騎士が駆け込んでくる。
「辺境から緊急報告です!」
男が顔をしかめる。
「またか」
騎士が一枚の書状を差し出した。
「魔物の出現数が、さらに増加しています」
「被害は?」
「村が一つ、襲われました」
「……!」
愛莉が息を呑む。
「死者は?」
「幸い、死者は出ておりません。しかし、負傷者が多数」
「魔物の種類は?」
「それが……」
騎士が言葉を濁す。
「本来、その地域には生息していない魔物が確認されています」
男の顔が険しくなる。
「どういうことだ?」
「分かりません」
「原因は?」
「現在調査中です」
「辺境騎士団長は何をしている?」
「現在、王都に滞在しております」
「まだいるのか」
「はい。援軍を求めて、王城へ何度も――」
「分かった。後で話をする」
男が手を振る。
騎士が頭を下げる。
「失礼します」
扉が閉まった。
部屋には再び沈黙が戻った。
愛莉は胸元をぎゅっと握る。
魔物。
辺境。
そして――
玲。
何故だろう。
胸の奥が嫌な感じにざわついている。
「……玲さん」
愛莉は小さく呟いた。
いつも犬を連れて散歩していた人。
自分が一方的に見かけていただけの人。
それなのに。
「無事なら……いいけど」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
その頃。
王都の冒険者ギルドでは――
「……これで身分証になるんだ」
玲が、出来上がった冒険者証を嬉しそうに眺めていた。
自分の名前が刻まれた、小さなカード。
玲。
この世界で初めて手に入れた、自分自身の身分証だった。
玲は知らない。
王城では今、自分の名前を知っている者が――
たった一人しかいないことを。
そして、その一人でさえ。
玲の名字も。
年齢も。
どこに住んでいたのかも。
何も知らない。
王城に残された記録には、玲の名前すらなかった。
けれど。
愛莉が伝えた。
「玲」
その名前が、初めて王城の記録に刻まれた。
――その頃。
王都の冒険者ギルドには、もう一つの記録が作られていた。
冒険者・玲。
Fランク。
そして。
その玲の隣には――
柴犬の雷電と、チワワのアビー。
二人の世界で。
同じ一人の女性を指す記録が、別々に生まれ始めていた。




