第71話 自ら掘った穴
「……まずい」
グスタフ・ローゼンベルクは、執務室の机に両手をついた。
「まずい、まずい、まずい……」
昨日から何度、この言葉を口にしただろう。
国王が、一ノ瀬玲の件を調べている。
それだけなら、まだいい。
だが――。
食事の配膳担当が変更された記録。
その変更を指示したのが、自分だった。
そして、その使用人についても調べられている。
「……まずい」
グスタフは額の汗を拭った。
「まだ、私が毒を入れたとは分かっていない」
そうだ。
毒を入れたのは自分だが、直接手を下したわけではない。
命令しただけ。
その命令を受けた者も、すでに王城を辞めている。
「大丈夫だ」
グスタフは自分に言い聞かせた。
「まだ大丈夫……」
だが、その直後。
扉の向こうから声がした。
「宰相閣下」
「っ!」
グスタフは飛び上がりそうになった。
「何だ?」
「国王陛下が、過去の税務記録についても調査されているようです」
「…………」
グスタフの顔から血の気が引いた。
「税務記録?」
「はい」
「なぜ……」
思わず呟く。
玲の件だけではなかったのか。
まさか。
まさか、そこまで調べているとは。
「……まずい」
また一言。
「もう下がっていい」
「失礼いたします」
扉が閉まる。
一人になったグスタフは、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと机の引き出しを開ける。
中には、過去数年分の帳簿が入っている。
税の徴収額。
国庫への納入額。
その差額。
一度に見れば、たいした金額ではない。
だからこそ、グスタフは続けてしまった。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
それを何年も。
「……これだけだ」
帳簿を見つめる。
「これだけなら……」
だが、国王が調べている。
このままでは見つかる。
グスタフは立ち上がった。
「どうする?」
処分するか。
しかし、今になって帳簿を処分すれば怪しまれる。
ならば――。
「数字を合わせればいい」
グスタフは帳簿を開いた。
過去の記録を確認しながら、数字を書き直していく。
「これで……」
一冊。
二冊。
三冊。
少しずつ修正していく。
ところが。
「……あれ?」
グスタフの手が止まった。
別の帳簿と数字が合わない。
「おかしい……」
慌てて別の記録を取り出す。
そちらとも合わない。
「待て……」
額から汗が流れる。
「これを直したら……こっちも直さないと……」
一つを隠そうとすると、別の数字との矛盾が生まれる。
グスタフは次第に焦っていった。
「まずい、まずい、まずい……!」
その時だった。
「宰相閣下」
突然、扉が開いた。
「何だ!」
グスタフは慌てて帳簿を閉じた。
入ってきたのは、財務を担当する役人だった。
「国王陛下から、税務記録の提出を求められております」
「……今か?」
「はい」
グスタフの顔が引きつる。
「どの記録を?」
「過去数年分、すべてです」
「…………」
グスタフは黙り込んだ。
よりによって――。
今。
「分かった」
「では、こちらを」
役人が書類を差し出す。
グスタフはそれを受け取った。
「……すぐに用意する」
「承知しました」
役人が出ていく。
グスタフはその場に立ち尽くした。
「……終わった」
いや。
まだ終わっていない。
「まだだ」
グスタフは首を振る。
「まだ、何とかなる」
その日の夕方。
国王の執務室には、集められた税務記録が並んでいた。
「陛下」
侍従が一冊の帳簿を開く。
「こちらをご覧ください」
国王は数字を確認した。
「……昨日までの記録と違うな」
「はい」
「どこが?」
「こちらです」
侍従が指を示す。
昨日確認した記録では、数年間にわたって小さな差額が存在していた。
ところが、提出された帳簿では、その差が不自然なほど綺麗に消えている。
国王は眉を寄せた。
「誰が修正した?」
「確認したところ……」
侍従が別の書類を差し出す。
「この帳簿を管理していた者が、昨日の時点では修正していなかったことが分かっています」
「では、いつ修正された?」
「昨夜です」
国王は黙った。
「……私が調査を始めた後か」
「はい」
国王はゆっくりと椅子に背を預けた。
玲の食事。
宰相の指示による配膳担当の変更。
そして――。
国王が調べ始めた直後に、不自然に書き換えられた税務記録。
偶然ではない。
「グスタフは、自分で証拠を作ってしまったな」
国王は静かに呟いた。
侍従も頷く。
「はい」
国王は机の上にある二つの記録を見比べた。
「この帳簿を修正した者を調べろ」
「承知しました」
「それから、玲の食事に関する記録もすべて保管しておけ」
「はい」
国王は窓の外を見た。
怒りはあった。
だが、それ以上に疑問が残っている。
なぜグスタフは、そこまでして玲の食事に関わったのか。
そして――。
なぜ、召喚されたばかりの玲を消そうとしたのか。
玲が聖女だと正式に判定されたわけではない。
それでも、召喚された者である以上、聖女である可能性はあった。
その可能性を確かめることもなく。
もし本当にグスタフが毒を盛らせたのなら――。
「……何を恐れていた?」
国王は低く呟いた。
そして、その日のうちに一通の書簡をしたためた。
宛先は――。
ヴァレンシュタイン侯爵家。
玲を保護している侯爵家へ、今回の調査について知らせるためだった。
翌日。
ヴァレンシュタイン侯爵家に、王家の紋章が押された書簡が届いた。
「……王家から?」
ハンクが封蝋を見つめる。
「何の用だ?」
ケイトも隣から覗き込む。
「開けてみましょう」
ハンクが封を切る。
書簡に目を通していくうちに、その表情が険しくなっていった。
「……ハンク?」
ケイトが不安そうに尋ねる。
ハンクは黙ったまま、書簡を握りしめる。
そして――。
「玲に毒を盛った件だ」
「え……?」
「王が調べている。そして……」
ハンクの声が低くなる。
「その指示を出したのが、宰相――グスタフ・ローゼンベルクだった可能性が高いらしい」
ケイトの顔から、血の気が引いた。
「……宰相が玲ちゃんを殺そうとしたの……?」
ハンクは書簡へ目を落とした。
怒りを押し殺すように、拳を握る。
「まだ調査の途中だ。だが……王は、かなりの証拠を掴んでいる」
「……玲ちゃんは、何も知らないのよね?」
「ああ」
「なら……」
ケイトは胸元で手を握った。
「玲ちゃんには、今は知らせないでおきましょう」
ハンクも頷く。
「俺もそう思う」
辺境でようやく手に入れた、玲の穏やかな暮らし。
それを、王都の騒ぎで壊したくはなかった。
「王が最後まで調べると言っている」
ハンクは書簡を見つめる。
「なら、俺たちは待つしかない」
だが、その目には強い怒りが宿っていた。
グスタフ・ローゼンベルク。
もし本当に玲を殺そうとしたのなら――。
その罪を、決して許すつもりはなかった。
―71話 終―




