第69話 まずい、まずい、まずい
「まずい……」
王城の一室。
宰相――グスタフ・ローゼンベルクは、机の前を行ったり来たりしていた。
「まずい、まずい、まずい……」
何度目か分からない呟きが漏れる。
原因は、先ほど耳に入ってきた噂だった。
――国王が、一ノ瀬玲の件を調べ始めたらしい。
「なぜ今になって……」
グスタフは頭を抱えた。
玲は、もう死んだと思っていた。
あの食事に毒を仕込ませた。
自分の指示で配膳担当を変更させ、食事に毒を入れさせた。
それで終わったはずだった。
「……なのに、生きていた」
グスタフは青ざめた顔で呟く。
そもそも、玲を消そうとした理由だって、それほど大したものではなかった。
愛莉は扱いやすい。
だが、玲は違う。
二十九歳。
社会人として働いていた経験もある。
召喚されたばかりだというのに、周囲の言葉を何でも信じるような雰囲気ではなかった。
何かを聞かれれば、自分で考える。
何か疑問があれば、調べようとする。
「……面倒なことになりそうだと思っただけだ」
グスタフは自分に言い聞かせるように呟いた。
そして、もう一つ。
自分には隠しておきたいことがあった。
――税の横領。
とはいっても、大金を一度に奪ったわけではない。
何年もかけて、少しずつ。
税の計算をほんの少しだけ誤魔化す。
徴収額をわずかに調整する。
帳簿の数字を少しだけ動かす。
一度に見れば、大した金額ではない。
「……本当に、少しずつだ」
グスタフは呟く。
だが、それを何年も続ければ、それなりの額になる。
そして、もし玲がそのあたりに気づけば――。
「まずい」
また一言漏れた。
グスタフは机の引き出しを開ける。
そこには、過去数年分の帳簿が保管されていた。
「……これをどうする?」
処分するべきか。
いや。
急に処分したら怪しまれる。
では、そのままにしておくか。
それも怖い。
「どうすればいい……」
グスタフは帳簿を手にしたまま、部屋の中を歩き回る。
「いや、待て」
ふと足を止めた。
「玲が生きていることを、国王が知っただけだ」
まだ自分が毒を盛ったとは分かっていない。
そうだ。
まだ大丈夫だ。
「落ち着け、グスタフ」
自分に言い聞かせる。
「食事の担当を変更しただけなら、理由はいくらでも作れる」
そう思った瞬間。
――コンコン。
扉が叩かれた。
「宰相閣下」
「っ!」
グスタフの肩が跳ねる。
「な、何だ?」
「先ほど、国王陛下が厨房の記録を調べていると……」
「!」
グスタフの顔が引きつった。
「……そうか」
「はい」
「それだけか?」
「はい。ですが、当時の配膳担当だった使用人についても調べているようです」
「……」
グスタフは固まった。
やがて、小さく呟く。
「まずい」
「はい?」
「いや、何でもない」
使用人が退室すると、グスタフは頭を抱えた。
「まずいまずいまずいまずい……!」
自分で配膳担当を変更した。
その記録が残っている。
しかも、その使用人はすでに王城を辞めている。
「……まさか」
グスタフは慌てて引き出しを開けた。
そこには、当時の指示書の控えがある。
「これも……残っているのか」
額に汗が浮かぶ。
捨てるべきか。
だが、今さら処分すれば余計に怪しまれる。
「どうする……」
グスタフは椅子に座り込んだ。
しばらく考えた末――。
「……いや。何もしない方がいい」
自分に言い聞かせる。
「何もしなければ、何も分からない」
そう呟いた直後。
ふと、別のことに気づいた。
「……横領の帳簿は?」
グスタフの顔が青ざめる。
慌てて別の引き出しを開ける。
「……ある」
ほっと息を吐く。
だが。
「これ……今年の帳簿と数字が合わないじゃないか」
グスタフは自分で書き換えた数字を見つめた。
「……まずい」
また始まった。
「まずい、まずい、まずい……!」
グスタフ・ローゼンベルク。
彼はまだ知らない。
自分が隠そうとしているものが、少しずつ繋がり始めていることを。
そして――。
玲を消そうとした、あの日の小さな判断が。
自分自身を追い詰める最大の証拠になろうとしていることを。
「……私は、ただ面倒を避けたかっただけなのに」
グスタフは頭を抱えた。
その姿は、もはや恐ろしい宰相というより――。
自分で掘った穴から抜け出せなくなった男そのものだった。
ー69話 終ー




