第63話 後編 王都に落ちた影
王城。
国王は執務室で、一枚の報告書を手にしていた。
そこに記されていた名前を、もう一度目で追う。
――一ノ瀬玲。
「……召喚された娘か」
ぽつりと呟いた。
あの日。
異世界から召喚された三人。
女子高生の姫川愛莉。
そして、一ノ瀬玲。
犬を二匹連れた女性だった。
玲について、国王の記憶は決して多くない。
召喚直後、それぞれ別の部屋へ案内された。
その後、玲は王城から姿を消した。
当時は、それほど深く考えていなかった。
召喚された者の中で、聖女とされたのは愛莉。
王城としても、愛莉を中心に動いていた。
だが――。
今になって、ひとつの疑問が浮かぶ。
「……なぜ、あの娘は王城を出た?」
国王は報告書を机に置いた。
召喚された異世界人が、王城から何の説明もなく姿を消した。
普通なら、それだけでも大きな問題だ。
ましてや今、その女性が生きているという。
しかも――。
「ヴァレンシュタイン……」
報告書にある名前。
レイ・ヴァレンシュタイン。
一ノ瀬玲と同一人物なのか。
まだ確証はない。
だが、もしそうなら。
「……私は、あの娘に何もしてやれなかったのではないか」
国王は静かに目を伏せた。
あの時。
もっと本人と話していれば。
もっと事情を確認していれば。
何故、王城を出たのか。
どこへ行ったのか。
なぜ、犬を連れていたのか。
何ひとつ知らない。
「……王として、見過ごしていたのかもしれんな」
小さな後悔が胸に残る。
だが、国王はまだ知らない。
玲が王城から逃げた理由を。
命を狙われていたことも。
その原因となった毒のことも。
そして――。
それを知っているのは、この場にいるもう一人だけだった。
「陛下」
宰相が静かに声をかける。
「はい」
「一ノ瀬玲が、現在も生存している可能性がございます」
「そうだな」
国王は頷いた。
「ならば、確認しなければならない」
そして、しばらく考えた後。
「ヴァレンシュタイン侯爵家へ書簡を送れ」
「……侯爵家へ、ですか」
「ああ」
国王は淡々と告げた。
「レオンハルト・ヴァレンシュタイン伯爵夫人について、確認したい」
「承知いたしました」
宰相は頭を下げた。
その声は、いつもと変わらなかった。
表情も変わらない。
完璧な宰相の顔。
だが――。
執務室を出た瞬間。
扉が閉まる。
「…………」
宰相は廊下で立ち止まった。
「まずい」
小さく呟く。
一歩、歩く。
「まずい……」
さらに一歩。
「まずい、まずい……」
足取りが早くなる。
「まずいまずいまずいまずい……」
廊下を行ったり来たりする。
すれ違った侍従が、不思議そうに振り返った。
「宰相閣下?」
「……何でもない」
そう答えながらも、宰相の顔から血の気が引いていた。
「なぜ……生きている?」
あの女は死んだはずだった。
いや。
死んでいなければならなかった。
食事には確かに毒を入れた。
ならば――。
「……食べなかったのか?」
宰相の脳裏に、あの日の食事が蘇る。
玲のために用意された食事。
それを運んだ使用人。
「……あの食事を手配したのは、誰だった?」
記憶を辿る。
厨房。
配膳。
使用人。
一人ずつ思い浮かべる。
だが、誰にも相談することはできない。
このことを知っている者は、自分以外にはいない。
単独で行った。
だからこそ――。
今も、一人で怯えるしかない。
「まずい……」
宰相は額を押さえた。
「まずいぞ……」
王は、ただ事実を確認しようとしている。
けれど自分にとっては――。
あの女が生きているという事実そのものが、最大の脅威だった。
その頃。
王家の紋章が押された一通の書簡が、静かに用意されていた。
宛先は――。
ヴァレンシュタイン侯爵家。
王都に落ちた小さな影は、
ゆっくりと辺境へ向かい始めていた。




