第59話 ヴァレンシュタイン家の来訪
翌朝。
玲は、いつもより少し早く目を覚ました。
「……緊張する」
ベッドの上で、玲は小さく呟いた。
今日は、レオンハルトの家族が辺境の屋敷を訪れる日。
昨日の夜に突然知らされたこともあり、玲は朝から落ち着かなかった。
『玲、おはよう』
足元からアビーの声が聞こえる。
「アビー……」
『大丈夫だよ』
「何が?」
『玲、朝からずっとそわそわしてるから』
「……だって緊張するんだもん」
『私がいるから大丈夫!』
「そうだね」
玲が笑う。
すると雷電が玲の足元へやって来た。
「ワン!」
「雷電もいるね」
『そうそう。雷電もいるから大丈夫だよ』
「うん」
玲は二匹を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
◇◇◇
朝食を終えた頃。
屋敷の外から、馬の蹄の音が聞こえてきた。
カッ、カッ、カッ――。
「来た……」
玲は窓の外を見る。
立派な馬車が、屋敷の前でゆっくりと止まった。
「……本当に来た」
胸がどきどきする。
そんな玲の手を、レオンハルトがそっと握った。
「大丈夫だ」
「はい……」
「俺がいる」
「……ありがとうございます」
『私もいるよ!』
アビーが元気よく言う。
「うん」
『雷電も!』
「ワン!」
「……ありがとう」
玲は苦笑した。
ただ――
(雷電は大丈夫かな……)
昨日の夜から、それだけが少し心配だった。
◇◇◇
やがて玄関の扉が開く。
最初に入ってきたのは、威厳のある男性だった。
落ち着いた雰囲気を持ちながらも、その瞳には優しさが感じられる。
「久しぶりだな、レオン」
「父上」
レオンハルトが一歩前へ出る。
玲も続いて前へ出た。
「お初にお目にかかります。一ノ瀬玲と申します。よろしくお願いいたします」
玲が深く頭を下げる。
「顔を上げなさい」
男性が穏やかに声をかけた。
「そんなに緊張しなくていい」
「はい……」
「君が玲か」
「はい」
「レオンから話は聞いている」
玲が隣のレオンハルトを見る。
「……何を話したんですか?」
「色々だ」
「色々って……」
玲が困ったように笑った、その時だった。
「ワンッ!!」
突然、大きな鳴き声が響いた。
「……雷電?」
玲が足元を見る。
雷電は胸を張り、侯爵家の一行を真っ直ぐ見上げていた。
「……」
玲には、何となく分かった。
「雷電、自分の紹介もしてって言ってるの?」
「ワン!」
雷電がもう一度鳴く。
『そうだよ!』
アビーがすかさず言った。
『雷電、自分だけ紹介されてないって怒ってる』
「やっぱり……」
玲は苦笑しながらしゃがみ込む。
「ごめんごめん。雷電も大事な家族だもんね」
「ワン!」
雷電が尻尾を振る。
「では……」
玲は立ち上がり、侯爵へ向き直った。
「こちらは雷電です。柴犬で、私の大切な家族です」
「ワン!」
雷電は胸を張る。
まるで、
――俺もよろしくな。
とでも言っているようだった。
「ははっ」
男性が笑う。
「ずいぶん堂々とした犬だな」
「ありがとうございます」
玲が笑う。
「雷電も、よろしくお願いしますと言っているようです」
「そうか」
男性が雷電を見る。
「こちらこそ、よろしくな」
「ワン!」
雷電は満足そうに尻尾を振った。
その様子を見ていたアビーが言う。
『玲、この人のお名前は?』
「あ……」
玲が男性を見る。
「申し訳ありません。まだお名前を伺っていませんでした」
「そうだったな」
男性が穏やかに笑った。
「私はハンク・ヴァレンシュタイン。レオンの父親だ」
『ハンク?』
「そうだ」
『じゃあ、ハンクだね!』
「……ははは」
ハンクが楽しそうに笑う。
「随分と親しみやすい子だな」
『よろしくね、ハンク!』
「ああ。こちらこそよろしく」
アビーが嬉しそうに尻尾を振った。
◇◇◇
続いて、後ろから一人の女性が入ってきた。
「レオン。元気そうで安心したわ」
「母上もお元気そうで何よりです」
女性は玲へ向き直り、柔らかく微笑んだ。
「初めまして、玲さん」
「初めまして」
「ケイト・ヴァレンシュタインです。レオンの母です」
「よろしくお願いいたします」
「そんなにかしこまらなくても大丈夫よ」
ケイトは玲の手を優しく取った。
「レオンが選んだ方ですもの。あなたに会えるのを楽しみにしていたのよ」
「……ありがとうございます」
その言葉に、玲の胸が温かくなる。
するとアビーがケイトの前へ歩み出た。
『ケイト!』
「まあ」
ケイトが少し驚いた顔をする。
『私、アビーだよ!』
「ふふっ。あなたがアビーなのね」
『うん!』
「よろしくね、アビー」
『うん! よろしく、ケイト!』
ケイトがしゃがみ込み、アビーの頭を撫でる。
「まあ、本当に可愛いわね」
『ありがとう!』
「レオンのことも、いつも見ているの?」
『うん!』
「玲のことは?」
『もちろん!』
アビーは胸を張った。
『玲は私の大事な家族だから!』
「……アビー」
玲の胸がじんと温かくなる。
ケイトも優しく微笑んだ。
「そう。じゃあ、あなたも私たちの家族ね」
『本当?』
「ええ」
『じゃあ、ケイトも大好き!』
「あらあら」
ケイトが嬉しそうに笑う。
玲は思わず口元を押さえた。
(アビー……本当に馴染むの早いな)
◇◇◇
次に入ってきたのは、一人の男性だった。
「久しぶりだな、レオン」
「兄上」
男性が玲へ向き直る。
「初めまして。マシュー・ヴァレンシュタインだ」
「初めまして。一ノ瀬玲です」
「家族からはマットと呼ばれている。玲さんもそう呼んでくれて構わない」
「マット……」
玲が頷く。
すると――
『マット!』
アビーが元気よく呼んだ。
「……!」
マシューが目を丸くする。
『マットって呼んでいいんだよね?』
「ああ」
マシューが笑う。
「もちろん」
『じゃあ、マット!』
「はははっ!」
マシューが声を上げて笑った。
「気に入ったよ、アビー」
『私もマット好き!』
「もう仲良くなったのか?」
レオンハルトが呆れたように言う。
『だってマットって呼んでいいって言ったもん』
「それはそうだが……」
マットがレオンハルトの肩を軽く叩く。
「レオン」
「何だ?」
「お前、随分と賑やかな家族を作ったな」
「……否定はしない」
レオンハルトが苦笑する。
◇◇◇
そして最後に、マットの隣にいた女性が一歩前へ出た。
「初めまして。エレナ・ヴァレンシュタインです」
「初めまして。一ノ瀬玲です。よろしくお願いします」
「玲さん。お会いできて嬉しいわ」
エレナは柔らかな笑顔を浮かべている。
そしてアビーへ視線を向けた。
「あら……」
エレナがしゃがみ込む。
「あなたがアビーちゃんね?」
『うん! アビーだよ!』
「まあ、本当にお話しできるのね。可愛いわ」
『ありがとう!』
「よろしくね、アビーちゃん」
『でもね』
「?」
『アビーちゃんはいらないよ』
「え?」
『ちゃんはいらないの』
エレナが一瞬きょとんとしたあと、楽しそうに笑った。
「ふふっ。分かったわ」
そしてアビーの頭を優しく撫でる。
「じゃあ、アビー。これからよろしくね」
『うん!』
アビーは嬉しそうに尻尾を振った。
「……」
玲は思わず口元を押さえる。
(本当に、すごいな……)
人見知りという言葉を知らないのだろうか。
その時――
「ワンッ!」
突然、雷電が大きな声で鳴いた。
「……雷電?」
玲が振り返る。
雷電は少し不満そうに、アビーとエレナを見ている。
「……」
玲には、何となく分かった。
「もしかして……」
玲は苦笑する。
「俺も忘れるな、って?」
「ワン!」
『そうだよ!』
アビーが笑う。
『雷電、自分もよろしくって言ってる』
「はいはい」
玲は雷電の頭を撫でる。
「雷電も、よろしくお願いします、ね」
「ワン!」
エレナが笑顔になる。
「もちろんよ。雷電もこれからよろしくね」
雷電は満足そうに尻尾を振った。
『よかったね、雷電』
「ワン!」
◇◇◇
しばらくして、一行は応接室へ移動した。
紅茶とお菓子が用意され、自然と会話が始まる。
「レオン」
マットが弟を見る。
「辺境での生活はどうだ?」
「悪くない」
「そうか」
マットはニヤリと笑う。
「王都にいた頃より、ずいぶん表情が柔らかくなったな」
「そうか?」
「そうだよ」
ケイトも頷く。
「昔はもっと無愛想だったもの」
「母上まで……」
『昔のレオンって、どんなだったの?』
アビーが食いついた。
「アビー?」
『知りたい!』
マットが楽しそうに笑う。
「そうだな……」
「兄上」
「子供の頃の話くらいいいだろう?」
『聞きたい!』
玲も思わず興味を持った。
「私も……少し聞きたいです」
「玲まで?」
「だって、レオンハルトさんの子供の頃って知らないので」
「……」
レオンハルトが困ったような顔をする。
マットは楽しそうに話し始めた。
「レオンは子供の頃から真面目でな」
「へえ」
『うんうん』
「剣の稽古が嫌になると、こっそり木陰で本を読んでいた」
「えっ?」
玲がレオンハルトを見る。
「本当ですか?」
「……一度だけだ」
「一度だけじゃないでしょう?」
ケイトが笑う。
「三回よ」
「母上」
エレナも楽しそうに笑う。
「お義父様に見つかって、ものすごく怒られていたわ」
『ふふっ』
アビーが笑う。
『レオン、昔から怒られてたんだね!』
「アビー」
『でも可愛い!』
「……」
玲は笑いをこらえられなかった。
「ふふっ」
「玲まで笑うのか?」
「ご、ごめんなさい」
けれど、レオンハルトも少し笑っている。
家族の前で見せるその表情を見て、玲は胸が温かくなった。
(これが、レオンハルトさんの家族なんだ……)
自分が知らなかった彼の姿を知っている人たち。
そして、その人たちは玲を拒むことなく、最初から温かく迎えてくれている。
◇◇◇
しばらくすると、アビーが玲の膝へ戻ってきた。
『玲』
「なあに?」
『私、この家族好き』
「……うん」
玲はアビーの頭を撫でる。
「私も」
その言葉を聞いて、レオンハルトが玲を見る。
「玲」
「はい?」
「ありがとう」
「……?」
「家族を好きになってくれて」
玲は少し驚いた。
そして、優しく笑う。
「こちらこそ」
「え?」
「こんな素敵な家族に会わせてくれて、ありがとうございます」
レオンハルトの表情が柔らかくなる。
ケイトはそんな二人を見て、嬉しそうに微笑んでいた。
◇◇◇
しばらくして。
「少し外を見てもいいかしら?」
エレナの言葉をきっかけに、皆で屋敷の外へ出ることになった。
侯爵家の馬車を確認しながら、玲たちは玄関前へ向かう。
「立派な馬車ですね」
玲が感心していると――
「ワン」
雷電が馬車へ向かって歩き出した。
「……雷電?」
玲の胸に、嫌な予感が走る。
「雷電!」
呼び止める。
しかし――
遅かった。
雷電は馬車の横で立ち止まる。
「…………」
そして。
片足を上げた。
「ちょっと待ってーーー!」
『雷電ーーー!』
「ワン!?」
玲が慌てて駆け寄る。
「雷電! 昨日言ったよね!?」
「ワン……」
『玲、雷電やったよ』
「見れば分かるよ!」
『これ、侯爵家の馬車だよ?』
「そうなの!」
『すごいね』
「褒めないの!」
「ワン!」
雷電はなぜか誇らしげに胸を張っている。
「もう……!」
玲が雷電を抱き上げる。
「本当にすみません!」
マットが腹を抱えて笑っている。
「ははははっ!」
「笑わないでください!」
「いや、悪い。だって……」
マットは笑いながら雷電を見る。
「レオンのところは、本当に賑やかだな」
「……兄上」
レオンハルトが呆れたように息を吐く。
ハンクも笑っている。
「まあ、元気があるのはいいことだ」
「お父様まで……」
ケイトも微笑む。
「ふふっ。雷電もこの家の一員なのね」
『雷電、自己紹介したんだよ』
「アビー、それは自己紹介とは違うと思う……」
エレナも笑いながらアビーを撫でる。
「アビーも雷電も、本当に可愛いわね」
『ありがとう、エレナ!』
玲は雷電を抱いたまま、家族の顔を見渡した。
最初は、とても緊張していた。
侯爵家の人たち。
レオンハルトの家族。
失礼のないようにしなければ。
気に入ってもらえなかったらどうしよう。
そんなことばかり考えていた。
けれど――
そんな心配は必要なかったのかもしれない。
アビーはいつの間にか家族と仲良くなり。
雷電も鳴き声と態度で、しっかりと自分の存在を主張した。
そして何より――
レオンハルトが家族の前で見せる、いつもとは少し違う表情。
それを知れたことが、玲には嬉しかった。
「……もう」
玲は笑う。
「賑やかすぎますね」
するとレオンハルトが玲を見る。
「嫌か?」
「いいえ」
玲は首を横に振った。
「嬉しいです」
その答えに、レオンハルトが優しく微笑む。
『玲』
「なあに?」
『私、ここ好き!』
「うん」
玲はアビーの頭を撫でる。
「私も好きになれそう」
こうして――
玲にとって「最難関」だと思われていたヴァレンシュタイン侯爵家との初対面は、思いがけず賑やかで、温かな時間となった。
アビーはすっかり家族の輪に入り込み。
雷電は最後まで雷電らしく。
そして玲もまた、少しずつその輪の中へ入っていったのだった。
――第59話 終――




