第32話 レオンハルト編 ――知らなかった身分
夕方。
辺境騎士団での仕事を終えたレオンハルトは、自分の屋敷へ戻っていた。
騎士団長としての仕事が終わっても、まだやることは残っている。
執務室の机には、伯爵家当主として処理しなければならない書類が積まれていた。
「……多いな」
思わず呟く。
騎士団の仕事だけでも十分忙しいというのに、貴族には貴族の仕事がある。
レオンハルトは一枚ずつ書類に目を通していった。
しばらくして。
――コンコン。
扉が叩かれた。
「レオンハルト、いる?」
聞き慣れた声。
「玲か。入っていいぞ」
「お邪魔します」
扉が開き、玲がアビーを抱いて入ってくる。
「こんばんは」
「どうした?」
「薬草のこと、何か連絡来たかなと思って」
玲はそう言いながら、部屋の中を見回した。
「仕事中だった?」
「ああ。気にするな」
「ごめんね」
「別に構わない」
玲は少し申し訳なさそうにしながら、向かいの椅子に座った。
「それで、薬草は?」
「まだギルドから正式な報告は来ていない」
「そっか……」
玲は残念そうに肩を落とす。
「早く試してみたいんだけどな」
「そう急ぐな」
「だって、材料が揃わないと何もできないじゃん」
玲が頬を膨らませる。
その様子がおかしくて、レオンハルトは小さく笑った。
「……何?」
「いや」
玲は何か言いたそうにレオンハルトを見る。
「?」
「レオンハルトって、こういう仕事もするんだね」
「当たり前だろう」
「騎士団長だから、ずっと騎士団にいるのかと思ってた」
「俺だって屋敷に戻れば仕事はある」
「大変だね」
「お前に言われたくはないな」
「なんで?」
「薬草に石鹸に化粧水。やることが増えているだろう」
「……それは楽しいからいいの」
玲が笑う。
「研究は仕事でもあるけど、好きだから」
「そうか」
そんな話をしていると――。
――コンコン。
再び扉が叩かれた。
「団長、失礼します」
今度はグレンの声だった。
「入れ」
扉が開く。
グレンが数枚の書類を手に入ってきた。
「あ、グレン!」
「玲、来てたのか」
「うん。薬草のこと聞きに来たの」
「ちょうどいい」
グレンが書類を掲げる。
「冒険者ギルドから報告が来た」
「本当!?」
玲が勢いよく立ち上がった。
「薬草!?」
「まだ全部ではないがな」
「そっか……」
玲が少しだけ肩を落とす。
「だが、いくつか候補が見つかったらしい」
「本当!?」
今度は顔がぱっと明るくなった。
「どんな薬草?」
「詳しい内容はこちらに――」
グレンが書類を広げる。
玲が身を乗り出した。
「これ、どんな植物?」
「採取した冒険者からの報告もある」
「見せて!」
玲は書類を覗き込む。
レオンハルトは、その様子を眺めていた。
ついさっきまで「まだかな」と残念そうにしていたのに。
薬草の話になった途端、目の輝きが違う。
「……本当に好きなんだな」
「何が?」
「研究だ」
「うん!」
玲は迷いなく答えた。
その時だった。
グレンが持っていた書類の一枚が、机の上に置かれた。
玲の視線が、そこに書かれた文字に止まる。
「……あれ?」
「どうした?」
「これ……」
玲が書類を指差す。
「伯爵って書いてある」
「そうだな」
レオンハルトが答える。
「……誰が?」
「俺だ」
「…………」
玲の動きが止まった。
「え?」
「俺が伯爵だ」
「レオンハルトって……伯爵なの?」
「ああ」
「…………」
玲がレオンハルトを見る。
次にグレンを見る。
そして、もう一度レオンハルトを見る。
「……私、今まで普通に呼び捨てにしてたよね?」
「そうだな」
「伯爵って、偉い人だよね?」
「貴族としての爵位はある」
「やっぱり……!」
玲が頭を抱える。
「どうしよう……」
「何がだ?」
「これからレオンハルトって呼び捨てにしていいのかな」
「今まで通りでいい」
「でも……伯爵なんでしょ?」
「そうだ」
「じゃあ……レオンハルト……様?」
「やめろ」
即答だった。
「でも!」
「玲」
「はい」
「今まで通り呼べ」
「……本当に?」
「ああ」
玲は少し考える。
「……レオンハルト」
「それでいい」
「良かった……」
玲がほっとしたように息を吐く。
その様子を見ていたグレンが笑った。
「玲、今さらだな」
「だって知らなかったんだもん!」
「まあ、それはそうか」
玲はグレンを見る。
そして――。
「……ちなみに」
「ん?」
「グレンは?」
「俺?」
グレンが自分を指差した。
「俺は婿入りしてて子爵」
「…………」
玲が固まった。
「え?」
「子爵」
「グレンも貴族なの!?」
「一応な」
「一応って……」
玲の目が丸くなる。
「俺は元々、平民だぞ」
「え?」
「代々騎士を出してる家の生まれでな。俺も騎士になった。その後、グレイスと結婚して、あいつの家を継いだんだ」
「……なるほど」
玲は頷いた。
「だから子爵なんだ」
「そういうこと」
「……グレイスさんも子爵家だったんだ」
「ああ」
「そうだったのか……」
玲は少し驚いた顔をしてから、ふっと笑った。
「でも、グレイスさんって話しやすかったな」
「そうだろう?」
「うん。私の肌を見て、化粧品の話をすごく真剣に聞いてくれて」
「グレイスは美容関係の話が好きだからな」
「完成したら使ってみたいって言ってくれたし」
「楽しみにしていると思うぞ」
「じゃあ、ちゃんと良いものを作らないとね」
玲の目が再び輝く。
「薬草が揃ったら、次の試作ができるんだよね?」
「そうだ」
「よし!」
玲が拳を握る。
「頑張ろう!」
『玲、何を頑張るの?』
腕の中のアビーが首を傾げる。
「石鹸作り!」
『ああ』
「アビー、興味なさそうじゃない?」
『私は完成したら使ってみたい』
「そこは興味あるんだ」
『肌が綺麗になるなら』
「アビーは今でも十分綺麗だよ」
『そう?』
「そうそう」
玲とアビーのやり取りを見ながら、グレンが笑う。
レオンハルトも、思わず口元を緩めた。
玲は知らなかった。
自分が話している相手が伯爵であることも。
グレンが子爵であることも。
そして――。
そんなことよりも。
薬草と石鹸の話をしている時の方が、ずっと楽しそうだということも。
「では、薬草については引き続きギルドに頼んでおきます」
「お願いします!」
玲が頭を下げる。
「材料が揃ったら、すぐに教えてね」
「ああ」
「レオンハルトも!」
「分かっている」
「じゃあ、今日は帰るね」
玲はアビーを抱き直す。
「またね、レオンハルト」
「ああ。またな」
「グレンも」
「またな、玲」
玲が部屋を出ていく。
扉が閉まった。
静かになった執務室で、グレンがぽつりと言う。
「……団長」
「何だ」
「玲に爵位を知られて、ちょっと残念そうじゃないですか?」
「気のせいだ」
「そうですかねぇ」
「仕事をしろ」
「はいはい」
グレンが笑いながら書類をまとめる。
レオンハルトは再び机の上の書類へ視線を落とした。
だが――。
頭の片隅には、薬草の話をして嬉しそうに笑っていた玲の姿が残っていた。
もうすぐ。
玲の新しい研究が、また一歩進む。
それを少しだけ楽しみにしている自分に気づき――。
レオンハルトは、小さく息を吐いた。
――第三十二話 終――




