第2話 毒を盛られました~王城脱出~
目を覚ました玲は、見知らぬ天井をぼんやりと眺めていた。
「……夢じゃ、ないんだよね」
ゆっくりと上半身を起こす。
昨日まで自分が寝ていたのは、いつもの自宅のベッドだった。
それなのに今いるのは、やたらと広い部屋。
壁には見たことのない模様が施され、ベッドはふかふか。
窓の外には、見慣れない城壁と街並みが広がっている。
「異世界……」
ぽつりと呟く。
昨日、犬の散歩をしていたら突然、光に包まれて。
気付いたら、見知らぬ場所に立っていた。
しかも、隣には雷電とアビー。
「……普通なら、もうちょっと説明とかあると思うんだけどなぁ」
玲は深いため息をついた。
召喚された直後。
王族らしき人たちは、女子高生の愛莉ばかりを見ていた。
玲が「あのー、これは一体何ですか?」と尋ねても、一瞬だけ不思議そうに目を点にされただけ。
その後は、まるでそこに玲など存在していないかのように話が進んでいった。
愛莉は「聖女様」と呼ばれ、あっという間にドレスへ着替えさせられた。
そして晩餐会へ。
一方の玲はというと――。
「……放置」
思わず苦笑する。
部屋を与えられたことだけは、まだマシだった。
とはいえ、召喚理由も、この世界のことも、元の世界へ帰れるのかどうかも何一つ分からない。
「まぁ……考えても分からないか」
玲はベッドから降りた。
「とりあえず、お腹空いた」
その瞬間。
ぐぅぅぅぅ……。
「……」
雷電が玲を見る。
アビーも見る。
「見るな」
玲は恥ずかしそうに腹を押さえた。
「しょうがないでしょ。昨日から何も食べてないんだから」
雷電が小さく鼻を鳴らした。
「雷電だってお腹空いてるでしょ」
「ワン」
「アビーは?」
「……」
「アビー?」
ブラックタンのチワワは、じっと扉を見ている。
その表情が妙に険しい。
「どうしたの?」
『誰か来る』
「え?」アビーの言葉が分かる?何故?チート的な?
玲が聞き返した直後。
コンコン。
「聖女様、お食事をお持ちしました」
「……あ、はい」
玲は扉へ向かう。
だが。
『玲、待って』
アビーの声に、玲の足が止まった。
「何?」
『気をつけて』
「何に?」
アビーは食事の乗ったワゴンを睨んでいる。
『あれ、おかしい』
玲は首を傾げた。
「おかしい?」
『匂い』
雷電もワゴンに近づく。
そして――。
「ガルルル……」
低い唸り声。
「雷電?」
普段の食事なら、誰より先に飛びつきそうな雷電が、料理を見ただけで牙をむいている。
「……え?」
玲は一気に警戒した。
給仕の男が、不思議そうな顔をする。
「どうかなさいましたか?」
「あの……」
玲が料理を見る。
見た目は普通だ。
スープもある。
パンもある。
肉料理もある。
けれど。
アビーが言った。
『毒』
「…………え?」
『毒が入ってる』
「……」
玲の頭が真っ白になった。
「毒……?」
『そう』
「いやいやいや」
玲は思わず笑いそうになった。
「待って。何で朝ごはんに毒?」
アビーが玲を見る。
『玲』
「はい」
『殺されるんじゃない?』
「…………」
玲は固まった。
そして、恐る恐る料理を見る。
「私……命狙われてる?」
『たぶん』
「たぶんって……!」
玲の声が裏返った。
その瞬間。
ガシャーン!!
「えっ!?」
雷電が料理の乗ったテーブルへ突進した。
「ちょっ、雷電!」
皿が床へ落ちる。
スープが飛び散り、肉料理もパンも床に散乱した。
「雷電! 何してるの!」
「ワン!」
『正解』
アビーが堂々と言った。
「いや、アビーも褒めない!」
給仕の男の顔色が変わった。
ほんの一瞬。
それを玲は見逃さなかった。
「……あれ?」
男が慌てて料理を片付けようとする。
「も、申し訳ございません。すぐに別の食事を――」
「待って」
玲の声が低くなる。
男が止まった。
「これ、食べたらどうなるの?」
「……え?」
「毒なんでしょ?」
「!」
男の顔から血の気が引いた。
玲は目を見開く。
「……やっぱり」
背筋が冷たくなった。
夢じゃない。
異世界召喚も。
聖女扱いされている女子高生も。
そして――。
自分に盛られた毒も。
「私、本当に殺されるんだ……」
玲は呟いた。
怖い。
ものすごく怖い。
けれど。
隣を見る。
雷電が玲の足元に立っている。
アビーもいる。
「……」
玲は小さく息を吐いた。
「帰ろう」
『どこへ?』
「どこでもいい」
玲は立ち上がった。
「ここにいたら殺される」
その判断は早かった。
玲は元々、異世界で生きていく方法など知らない。
魔法も知らない。
この国の常識も知らない。
身分もない。
けれど――。
「死ぬよりマシ」
玲は部屋の中を見回した。
そして、散歩へ行くときに使っていたショルダーバッグを手に取る。
いつもの散歩袋。
雷電のリードやおやつ。
アビーの小物。
そして自分の財布。
「……これだけは持っていこう」
召喚されたときから身につけていた服。
バッグ。
犬たち。
それ以外は何もない。
玲は扉を開ける。
「行くよ」
「ワン」
『任せて』
こうして――。
一ノ瀬玲。
異世界での逃亡生活が始まった。
* * *
王城の中は広かった。
「……どっち?」
『右』
「右ね」
『その先、兵士』
「左?」
『左もいる』
「詰んでない?」
玲は柱の陰に隠れながら、小声でアビーと会話をする。
幸い、召喚されたばかりの玲を警戒している者は少ない。
何より、王族にとって玲は「どうでもいい存在」なのだ。
それが逆に幸いした。
愛莉には多くの侍女や護衛がついている。
だが玲にはほとんどいない。
「……無視されてて良かった」
こんな形で役立つとは思わなかった。
『来る』
「!」
玲は慌てて柱の陰へ隠れた。
兵士が二人、通り過ぎていく。
雷電は玲の足元でじっと伏せている。
「雷電、賢い」
「……」
「何その顔」
雷電は明らかに不満そうだった。
まるで、
『もっと早く逃げろ』
と言っているようだ。
「分かってるって」
玲はそっと廊下を進む。
途中で何度もアビーが止めた。
『待って』
「今度は何?」
『前に三人』
「三人……」
『隠れる』
「了解」
アビーの情報収集能力は異常だった。
玲としか意思疎通できないという欠点はあるものの、こういう状況では頼りになりすぎる。
そして雷電は――。
「……」
何も言わず玲の横を歩く。
その姿は、まさに番犬。
王城から脱出する飼い主を守るように、堂々と歩いている。
やがて。
『出口』
「……!」
目の前に、大きな扉が見えた。
「本当に?」
『うん』
玲の心臓が大きく跳ねた。
扉の向こう。
そこに何があるのかは分からない。
けれど。
この城に残るよりはずっといい。
「……行こう」
玲は扉を開けた。
外へ出た瞬間。
「……うわ」
広い。
城下町が広がっている。
石造りの建物。
見たことのない服装の人々。
馬車。
露店。
そして――。
「本当に異世界なんだ……」
玲は呆然と立ち尽くした。
ついさっきまで、自分は王城の中にいた。
そして今。
誰にも追われていない。
誰にも呼び止められない。
誰にも「聖女様」と呼ばれない。
それが妙に可笑しかった。
「……自由?」
『自由』
アビーが答える。
「そっか」
玲は笑った。
「じゃあ……とりあえず歩こう」
「ワン」
雷電が歩き出す。
「ちょっと待って、雷電」
玲も後を追う。
こうして、一ノ瀬玲は王城を脱出した。
――しかし。
「…………」
数時間後。
「お腹空いた」
玲は完全に限界を迎えていた。
「昨日から何も食べてないんだもん……」
「クゥン」
「雷電も?」
「ワン」
『私も』
「アビーもね」
玲は周囲を見る。
すると。
「……あ」
屋台があった。
香ばしい匂いが漂っている。
「串焼き……」
玲の目が輝いた。
「食べたい」
雷電の尻尾が揺れる。
『玲』
「分かってる」
玲はバッグを探る。
「お財布……」
いつもの財布を取り出した。
「……」
そして。
「…………ん?」
玲は財布を開いた。
中には――。
見たことのない硬貨が入っていた。
「…………」
玲は一枚つまみ上げる。
「何これ?」
金色。
銀色。
銅色。
日本円ではない。
どう見ても異世界のお金だ。
「私、こんなの持ってた?」
『知らない』
「だよね」
玲は首を傾げる。
だが。
店主に硬貨を渡すと――。
「おう、一本でいいか?」
「え?」
普通に受け取った。
「……使える?」
玲は恐る恐る串焼きを受け取った。
「…………」
匂いを嗅ぐ。
雷電も嗅ぐ。
アビーも嗅ぐ。
『毒はない』
「そこ重要」
玲は一口食べた。
「……!」
美味しい。
「美味しい……!」
玲は夢中になって食べた。
雷電も嬉しそうに食べる。
アビーにも少し分ける。
「……生きてる」
玲は串を持ったまま、しみじみ呟いた。
王城では毒を盛られた。
でも今は。
犬たちと三人……いや、一人と二匹で、異世界の屋台で串焼きを食べている。
「……人生って何が起こるか分からないね」
『玲』
「ん?」
『それより』
「何?」
『あれ』
アビーが玲のバッグを指す。
「バッグ?」
『中』
「何かあるの?」
玲はバッグを開ける。
そして――。
「…………」
見覚えのあるものが目に入った。
「……スマホ?」
いつも持ち歩いていたスマートフォン。
召喚されてから、一度も見ていなかった。
「そういえば……」
玲はスマホを手に取った。
「私、これ持ってたんだ」
電源ボタンを押す。
画面が点いた。
「……」
バッテリー残量。
通信表示。
そして。
「え?」
玲は目を疑った。
――圏外。
当然だ。
異世界なのだから。
「まあ、そうだよね」
玲は苦笑する。
しかし。
その直後。
スマホの画面に、見慣れない表示が浮かんだ。
【異世界モードを起動しますか?】
「…………は?」
玲は固まった。
雷電も固まった。
アビーは――。
『玲』
「うん」
『それ、何?』
「私にも分からない」
玲は画面を見つめる。
そして。
恐る恐る。
「……はい」
をタップした。
――ピコン。
画面が切り替わる。
そこに表示されたのは。
【異世界通販】
「…………」
【銀行】
「…………」
【収納】
「…………」
【マップ】
「…………」
玲は口を開けたまま動かない。
そして。
「…………これ」
ゆっくりとスマホを持ち上げる。
「もしかして……」
アビーが玲を見る。
雷電も玲を見る。
「私……」
一ノ瀬玲。
このとき初めて。
自分がとんでもないチート能力を手に入れていることに気付いた。
――ただし。
「……どう使うの、これ?」
本人はまだ何一つ理解していなかった。
そしてこの日から。
王城から見捨てられた「もう一人の聖女」は。
誰にも知られない場所で。
異世界の常識を、少しずつぶっ壊していくことになる。




