名前を呼ばない常連
Webブラウザで楽しめるARG(代替現実)ゲームとして開発した「コンセプトカフェ ステラリウム」のサイドストーリー。
ゲームをクリアした後に読んでいただくと、より楽しめるはずです。
https://celadon-strudel-70d511.netlify.app/
ステラリウムが開店したころ、佐伯は向かいのビルの一階にある眼鏡店で働いていた。販売の仕事を始めて十年以上になる。
残業の夜、夕食を取れる店を探していて、星だらけの看板を見つけた。コンセプトカフェというものに馴染みはなかったが、「ご紹介制ではありません。はじめての方も、どうぞ」という貼り紙に押されて扉を開けた。
開店からまだ十二日目だった。
店長のひかりは注文票を二回落とし、すばるはカクテルの名前を言い間違え、みおは接客中なのに本を読んでいた。るなはまかないのパンケーキを焦がして泣いていた。
ひどく不慣れで、ひどく楽しそうな店だった。
「キャストは五人なんです」
ひかりはそう説明した。
壁に掛けられたプロフィールカードには、五つの名前があった。ひかり、すばる、みお、るな、ほのか。
「今日は、ほのかさんは?」
何気なく聞くと、ひかりは注文票を持ったまま黙った。
「今日は、お休みです」
最初に答えたのはすばるだった。
「でもブログは更新するから! ほのかちゃん、ブログ書くの好きなんだよね☆」
言葉を重ねる速さに、佐伯はかえって何かを察した。
接客業を長くしていると、相手が話したいことと、触れてほしくないことが、言葉より先にわかる。佐伯はそれ以上尋ねず、北極星のギムレットを注文した。
それから週に一度、店へ通った。
ほのかには一度も会わなかった。
それでも彼女の名前は、店のあちこちにあった。
新しいコースターの星を五つにしたのはほのか。カウンターの高さを決めたのもほのか。ほしくずソーダの金平糖は、沈めてからすぐ飲まず、溶けるまで待つのがほのか式。
「ほのかちゃん、今日も撮る係なんだ〜」
イベントの集合写真を見せながら、るなはいつもそう言った。
「写真、上手なんですね」
佐伯が答えると、るなは安心したように笑った。
佐伯は、ほのかが存在しないのだと思ったこともある。
店の星空という世界観を完成させるために作られた、架空のキャスト。五つの星を揃えるためだけの、名前とプロフィール。けれど、その考えはすぐに捨てた。
架空の人物の好きな曲がラジオから流れただけで、すばるが黙り込むはずがない。架空の人物のために、みおが毎晩、端の椅子をまっすぐに直すはずもない。
夏の夜、佐伯は閉店間際まで残っていた。
二十一時になると、ひかりのスマートフォンが震えた。
四人がいっせいに画面を見た。数秒後、るなが「あがったよ」と言った。
「何がです?」
「ほのかちゃんのブログ!」
るなが店のタブレットを差し出した。記事には、今日もお店でがんばりました、と書かれていた。
佐伯はその日、開店からずっと店内にいた。
ほのかはいなかった。
「いい記事ですね」
佐伯は言った。
ひかりが顔を上げた。その目が、問いかけるように佐伯を見た。
気づいていますか。
それでも読んでくれますか。
佐伯は記事の下までゆっくりスクロールした。
「次の更新も楽しみにしています」
ひかりは、はい、と答えた。
それ以来、佐伯はほのかについて尋ねなかった。ブログが更新されれば読み、店で話題に上れば、そこにいる人のこととして頷いた。誕生日が二度あっても、海へ行ったはずの日に店番をしていても、間違いを指摘しなかった。
それは優しさだったのか、臆病だったのか、いまでもわからない。
二〇二四年十二月、店は突然、営業時間を短縮した。
数日ぶりに訪れると、すばるは笑わず、るなは目を腫らし、みおはグラスを磨き続けていた。ひかりだけが、いつものように丁寧な声で注文を取った。
「北極星のギムレットを」
佐伯は頼んだあと、少し考えた。
「それと、ほしくずソーダをひとつ」
提供を終えたはずのメニューだった。
ひかりの指が止まった。
「申し訳ありません。そちらは、もう」
「では、似たものを。金平糖を沈めたサイダーなら、何でも」
みおが奥から金平糖の瓶を出した。すばるが炭酸水を注ぎ、るなが五粒を数えた。ひかりが完成したグラスを、端の席へ置いた。
佐伯は乾杯をしなかった。
ただ、自分のギムレットを少し持ち上げた。
二十一時になっても、その夜はブログが更新されなかった。
翌年三月、「キャスト・ほのか卒業のお知らせ」が掲載された。
短い文章だった。理由も、卒業イベントの案内もなかった。
佐伯は閉店前の店を訪れ、花束を渡した。宛名のカードには、誰の名前も書かなかった。
「長い間、ありがとうございました」
ひかりが深く頭を下げた。
「こちらこそ」
佐伯は答えた。
「会ったことは、ありませんでしたけど」
四人が息を止めた。
「いい店を作ってくれた方でした」
るなが泣いた。すばるも泣いた。ひかりは頭を下げたまま肩を震わせた。
みおだけは泣かなかった。花束を端の椅子に置き、椅子をいつもの位置へ戻した。
それから一年以上が過ぎても、佐伯は週に一度、店へ通っている。
店員は四人になった。プロフィールカードも四枚になった。
けれど注文するとき、佐伯は今でも飲み物を五つ頼むことがある。
四人分と、自分の分。
そう説明すれば、数は合っている。
誰も、数え直したりはしない。




