5.
写真なんて、誰が撮っても同じだと思っていた。
今のスマホは高性能で、高画質で、ちゃんとしたカメラなどなくてもいっぱしの写真が撮れてしまう。スマホがうまく調節してくれるから、技術だって必要ない。
だから、写真部なんて興味はなかった。スマホがすべてやってくれるのに、何を学ぶというのだろう。
しかし、先輩のカメラを手にした瞬間、そんな考えはひっくり返った。
最初は人と向き合うための道具だった。けれど、いつの間にか、写真を撮ること自体が大きな目的になっていった。
被写体に何を選ぶか。どのように画面に入れるか。自分が永遠に残したい一瞬を探して世界を見つめ直す。
気が付けば膨大になってしまったデータを、なんでこんなものを取ったんだろうと首をひねりながら編集していくのも楽しみの一つになっていた。
しかし、そんな風にただ喜んでいられたのも、最初のうちだけだった。
やがて、気づいてしまったのだ。私には、どこにでもある、ありきたりな写真しか撮れないのだと。
私が撮ってきたような写真は、それこそ、誰にでも撮れるし、カメラではなくスマホでだって撮れるのだと。
――うすうすわかっていたその答えを、はっきりと突き付けられたのは、先輩の写真を見たときだ。
自分でも写真を撮るようになってからわかった。先輩の写真は、まったく違う。私には見えないものが見えているし、私が逆立ちしても撮れないような写真が、彼には呼吸をするように撮れるのだ。
一瞬で目を惹きつけられる。理由はわからないけれど、心をとらえて離さない。
なにより、先輩の写真には、必ず人が映っていた。
赤ちゃん。子ども。お母さんや勤め人。おじいちゃんやおばあちゃん。
ただの点の集合体でも、デジタルデータでもなく、生きている人の息吹がそこには閉じ込められていた。ただの無機物である一枚の紙から、ないはずの温度を確かに感じられた。
写真は心だ、なんて陳腐なセリフ、笑い飛ばしたいのに笑い飛ばせない。
被写体の選び方。主題の魅せ方。技術の活かし方。
先輩の写真はその全部を満たしていて、逆に、どれひとつも満たしていないような印象も受けた。
「……才能がある人に、ない人の気持ちなんてわからない」
コンクールで何度も賞をとっている人に、私の気持ちはわからない。
写真の面白さを教えてくれたのは先輩だが、同時に、才能の差を突き付けてきたのも先輩だ。
――だから、部活を辞めるのも不自然なことじゃない。
先輩は、もういないのだから。
追いかける背中は、もう私の前にはないのだから。
……撮りたい写真が、今はもう、一つも思い浮かばないのだから。




