3.
その次の日も、先輩は丘に現れた。淡い光と熱を纏いながら、桜の木の横に浮かび上がる。
学校から直行した私は、カメラを抱えて根元にうずくまっていた。今度こそ夢だと確かめたかったのに、レンズ越しの先輩はやけにはっきりくっきりしていて、相変わらず軽薄な口をきいた。
「おまえ、昨日もちゃんと眠れてなかっただろ。いい加減ちゃんと寝ろよ。でないと枕元に立てねえだろ。あいつなんか、夢枕に立ってやったら、超感激してくれたんだぜ」
試しにズームしてみると、ニヤニヤしただらしない笑みが、画面いっぱいに広がった。
「ほら、あいつって霊感あるだろ? だから、俺の気配は感じられるみたいなんだよな。でも、さすがに話はできなくてさ。それでどうしようかと思ってたら、夢ん中ならしゃべれたわけ。最初はあいつも驚いてたけど、あとは一晩中説教されてさ。いやあ、俺って愛されてるなあ!」
最愛の彼女に一晩中説教されてもでれでれしている先輩の調教は、さぞや苦労したことだろう。今更ながら同情する。
「そんで、いろいろ教えてくれてさ。向こう――あの世って言えばいいのか? そこで牛車みたいなの使えたり、高速船みたいなものに乗れたりしたのは、俺の人徳のおかげなんだってさ。みんなが俺の冥福を祈ってくれると、そういう便利アイテムが使えるんだと。俺がこっちとあっちをこんな短時間で移動できたのも、そのためってわけ。うんうん、ほんと、俺ってばさすがだよなあ。生前、徳を積みまくった甲斐があったぜ」
満足げに何度も頷く先輩に、私は白い目を向けた。
「…………先輩の、どの辺に、徳が?」
「……ええ~っ?」
カメラ越しの突っ込みに、先輩は非常に心外そうな声を上げた。
「そんなの、いくらでもあるだろ! 数え上げたらきりがないっての!」
「だから、例えば?」
「例えばあ? それはほら、えーと……、お、おまえにそのカメラやったじゃん!」
「捨てるからってもらっただけで、施しを受けたつもりはありませんが……」
「カメラの使い方も教えてやったし!」
「写真は技術じゃねえ、心だ! とか言って、子ども用の本を渡されただけですが」
「……っ、た、たまに、お菓子を差し入れしたりとかだなあ……!」
「先輩。もので釣るしか能がないんですか?」
「~~~っ」
どうやら痛いところをついたらしい。先輩は胸を押さえ、苦悶の表情を浮かべて膝から崩れ落ちた。
しかし、これくらいでは応えないのが先輩だ。すぐにゾンビのように立ち上がる。
「そ、そうだ! おまえ、他人と話せるようになったじゃん! カメラ通してが前提だけど」
「…………」
私は両手に力を込め、内心の動揺を押し殺した。
視線恐怖症、といっていいのだろうか。私は、直接、人の目を見て話すことができないのだ。
人の目が怖い……、つまり、他人の目に現れる真意に恐怖を覚えてしまうのである。
よっぽどの嘘つきでない限り、隠しても、隠しきれないのが人の目だ。目の中に現れた言葉とは裏腹な心情――、それに、不器用な私は、見て見ぬ振りも、気づかぬ振りもできなかった。
相手の隠している感情に気づいてしまったことを正直に言うわけにはいかないから、ヘタな嘘をつく。しかし、今度はそれを、私の目が雄弁に語ってしまうのだ。きっと相手は、私の嘘を見破るだろう。要するに私は、嘘つきだと思われることに、弱くて耐えられなかったのだ。
社交辞令が苦手なのも同じ理由だ。別に、それが嘘だと言っているわけではない。ただ、自分の言葉ではないから、私の耳には虚ろに響いてしまうという、それだけだ。
「おまえ、変なやつだなあ。ふつう、そんなことまで考えねえぞ?」
当時、先輩にはそう言われた。きっと、十人中十人が、先輩と同じことを答えるだろう。
皆が言う通り、それが礼儀だ、マナーなんだと割り切れれば良かったのかもしれない。けれど、私には無理だった。空気を真綿で包み込んで熨斗をつけて相手に差し出すような、心の中で舌を出しながら『礼儀』というタイトルを顔に張り付けるような、そんな気味悪さをすでに抱いてしまっていた。
「そういえば、一時期俺とはそれなしでも話せたよな?」
「…………まあ、そうですね。先輩は、特別なので」
「――えっ」
嬉しそうに頬を染める先輩に、私は声を抑えて言い足した。
「普通のひと扱いしなくていいんで、楽だったんです」
「ヒドっ! ……ってか、それってどういう意味?」
「その反応の通り、ヒドイ意味です」
もう一度がくりと膝をつく先輩を見下ろし、ため息をつく。
嘘ではない。本当に、ひどい意味でそう思っている。
みんなが、先輩のようであればよかったのに。
斎己先輩のように、単純で、いい加減で、図太い人ばかりであればよかったのに。
馬鹿みたいに全部、受け止めてくれる人であればよかったのに。
だけど、現実はそうじゃない。先輩みたいな人はほとんどいない。
だから、眼鏡やコンタクトレンズを試してみたこともあった。間に物を挟めば、直接目を見なくて済む。相手の感情を無防備に受け取らなくてもいい。
そう期待したのだが、実際は何の役にも立たなかった。むき出しの敵意も、隠しきれない侮蔑も、屈折すらせず、そのまま胸に突き刺さった。
その傷はなかなか癒えなくて、いつまでも私を苛み続けた。
そうしていつの頃からか、口を閉ざし、目を逸らし、隠れるようにして生きるようになった。こんな私になど、誰も近づかない。でも、それでいいのだ。そうすれば、会話をしなくて済む。
一人で登校して、一人で授業を受けて、一人で帰宅する。
そんな生活を繰り返していた私に、カメラを与え、写真部という居場所を与えてくれたのが斎己先輩だった。
(写真なんて……)
初めは気乗りしなかった。けれど、彼に勧められるまま、分厚いファインダー越しに世界を見つめた。人を見つめた。
暗くて小さいレンズを通り抜けて映る人の姿は遠かった。目どころか顔さえまともに判別できない。近くにいても、よく見えない。目が見えなければ、怖くない。
カメラのファインダーを通せば、人を正面から見つめてしゃべることができたのだ。
それは、私の世界を変える大発見。私の生活を根底から覆した大変革。
けれど。
「……でも、はっきり言って、余計なお世話でした」
「……へっ?」
先輩が目を丸くするのが、レンズを通してもはっきり見えた。
「確かに最初は話せるようになりました……が、最近、また話せなくなりました」
「へ? なんで?」
「……言いすぎて、自己嫌悪に陥るからです」
先輩は首を傾げたが、やがて「ははあ」と口の端を上げた。
「おまえ、コミュ障のくせに毒舌だもんなあ」
「……うるさいです」
「カメラ構えてたら最強だもんな!」
「うるさいです!」
私は憤慨したが、先輩はけらけらと笑っている。
毒舌とは言いすぎだ。しかし、せっかく話せるようになったのにうまくコミュニケーションが取れないのは、確かに生来の口の悪さが原因だった。
私の配慮の足りない一言で、反射的にゆがむ顔。傷ついた目。忌避するような態度。
それは目だけではなく全身からダイレクトに伝わってくる。結局、私は、またしゃべれなくなった。このまま誰とも話をしない方が、世のため人のためなのではないかと、改めて思った。
「それもこれも……先輩のせいです」
片手でカメラを構えたまま、もう片方の手を胸の前に持ち上げ、私は先輩に圧をかける。
「先輩がそうやって毒舌だとかからかうから、ますます口が悪くなって……。むしろ恨んでるくらいです。斎己先輩、うらめしや~……」
「――おまえ、それ逆じゃねえかっ?」
木の周りを逃げ惑う先輩は、エネルギーを使いすぎたのか、割とすぐに薄れて消えていった。




