◆第三十五章 赤備え
九度山の真田屋敷。
信繁と高梨内記の目の前には、豊臣の遣いが持参した千成瓢箪の包みが山のように置かれていた。大名であった盛親らとは違い、わずか数千石の将に過ぎない信繁への支度金としては、桁違いの莫大な量であった。
「左衛門佐様。入城時に必要な物があれば、何でもおっしゃってくだされ。当方にてすべてご用意いたしますゆえ」
恭しく平伏する遣いの者を見送りながら、内記は目の前に積まれた大量の黄金を見て深々とため息をついた。
「豊臣家の財力は、まこと底が知れませぬな。我らがここまでの破格の扱いを受けるとは……。すぐにでも支度を整え、大坂へ参りましょう」
逸る内記に対し、信繁は余裕を含んだ声で返した。
「今日明日にも戦が始まるわけでもなし。さほど急ぐ必要はなかろう。それよりも、我らの戦いに備えて入念な準備がいる」
その頃、屋敷の門前では、浅野家から遣わされていた見張り役の平松弥右衛門が、去っていく豊臣の遣いの背中を、いつまでも見つめていた。
翌朝、信繁は幸村と佐助を密かに呼び寄せた。
「いよいよ、大坂入りだ。二人には急ぎこれを取り揃えてもらいたい」
二人は目の前にあるきらびやかな黄金の輝きと、渡された調達すべき武具類の量に言葉を失った。十四年間の九度山での生活において、最低限の武具以外を持ち込むことは許されていなかった。そのため、刀、槍、鎧兜、弓など、すべてを新たに調達する必要があった。
しかし、調達する数を見て、佐助は目を丸くした。
「五百人分!?」
九度山で暮らす真田家の者は、せいぜい十名。書き間違いではと見上げる佐助に、信繁はにっこりと笑って頷いた。
「あ、それと……」
駆け出そうとした佐助を信繁が呼び止め、一枚の書き付けを渡した。
「これも頼む。値は張るが必ず揃えてくれ」
数日後。佐助は買い付けの帰りに、思わぬ光景を目にした。
屋敷の裏手で、監視役紀州浅野家の「違い鷹の羽」の家紋が入った羽織を着た使いの武士と、弥右衛門が声を潜めて密談していたのだ。
「……豊臣の遣いが接触した。間違いないな?」
「ああ。いよいよだ。……手はず通りに頼むぞ」
「承知した。『出立の折に必ず』と伝えておく」
ただならぬ雰囲気に、物陰に隠れて耳を澄ませ聞いていた佐助は、いつもと異なる弥右衛門の冷ややかな声色に背筋が凍る思いがした。
(我らが出立しようとしたその瞬間を狙って、紀州本国からの討伐の兵を引き入れる気だ……!)
佐助はすぐさま信繁にこの事を伝えた上、出立の日は幸村と共に徹底した警戒を敷くことを決めた。
出立の前夜。妻の竹林院や娘の阿菊たちが、夜遅くまで車座になり、大坂へ向かう男たちのために無言で紐を編み上げていた。それぞれを思い浮かべながら、信繁には燃えるような赤と黒、内記には渋みのある緑、幸村には凛とした紫、佐助には闇に溶け込む濃紺と、各々をイメージした柄が丁寧に編み込まれていた。決戦の地に赴く男たちの武具や刀には、彼女たちが祈りを込めて編んだその真田紐が、しっかりと結びつけられていた。
そして、いよいよ大坂へ向けて出立する朝。
屋敷の門を開け放った信繁たちの前に、大きな体を揺らしながら、弥右衛門が道を塞ぐように立ち塞がった。
先頭を歩く高梨内記は、いつもと異なる雰囲気を感じつつも、気さくに声をかけた。
「世話になったな、弥右衛門」
すると、門の影から十人ほどの完全武装した浅野の兵が現れ、弥右衛門の傍に集まった。
(やはり来たか……!)
佐助は反射的に腰の苦無に手をやり、幸村も刀の柄に手をかけ、警戒の色を隠さず身構えた。浅野の命に逆らえず、恩ある信繁たちをここで討ち取る気なのだ。
弥右衛門の巨体が、ずしりと一前に出る。信繁を庇うように佐助は割って入る。
「……真田左衛門佐様」
そう言葉を発した瞬間。
ドサッ!!
弥右衛門をはじめとする十名の兵たちが、一斉に地面に平伏し、地面に額を擦りつけながら、大声で叫んだ。
「お願いでござる! どうか、拙者たちも真田様の御家来衆に加えてくだされ!」
「は……?」
斬りかかってくるものとばかり思っていた佐助たちは、見事に虚を突かれ、あっけにとられた。
「浅野家とは、縁を切ってまいりました」
彼らは長年、真田家の監視役でありながら、信繁たちの温かな人柄に触れ、いつしか強い忠義を抱くようになっていたのだ。先日の裏切りの密談かと思われたあの会話は、浅野家との完全な決別に向けたやり取りだったのである。
「き、気持ちはまこと嬉しいが……」
内記は困り果てたように頭を掻いた。
「我らはこれから大坂城下で真田の赤備えの甲冑に身を包み入城する。弥右衛門の巨体に合うもの用意がないぞ。本国には家族もおろう、もう少し時間をかけて考えれば……」
すると、信繁はにこっと笑い、後ろを振り返った。
「佐助。……例のものを」
「……あっ!」
佐助は先日のやりとりを思い出した。
***
「あ、それと……」
駆け出そうとした佐助を信繁が呼び止め、一枚の書き付けを渡した。
「これも頼む。値は張るが必ず揃えてくれ」
書き付けを見た佐助は首を傾げた。常人を遥かに超える巨大な寸法の鎧兜である。
「これはいったい……」
信繁はゆっくり頷くだけであった。
佐助は一礼をし、急ぎ大坂方面へと出立した。
***
急ぎ荷駄から引っ張り出してきたのは、あの馬鹿でかい特注サイズの真紅の甲冑であった。
「弥右衛門。着てみよ」
信繁に促され、震える手で甲冑を身につけた弥右衛門。その寸法は見事なまでに、彼の巨体にぴったりと収まった。
「なぜ、拙者のためにこのような立派なものを……?」
「そなたなら、必ず我らと共に歩んでくれると信じておった」
信繁の言葉に、弥右衛門の大きな目からぼろぼろと大粒の涙が溢れ出し、「うおおおぉぉ!」と子供のように号泣し始めた。
最初から弥右衛門が仲間になることを見抜いていたとは、主君の人を見る目と、深い情愛に、佐助はただただ感心するほかなかった。
「皆の者、支度はよいか!」
信繁の朗々たる声が、九度山の朝の空気を震わせた。
「いざ、大坂城へ!!」
「オウー!!」
力強い声が、九度山の山々にこだました。
大坂城下。
「いったいどんな大将が現れるんだい?」
「信州の大大名だそうだぜ」
最前列に割り込もうとする者、子どもを肩車している父親、店先で大声を張り上げる物売たち、城門に続く道の沿道は、すでに数万の町民で埋め尽くされていた。
「真田左衛門佐信繁殿、ご入城!」
大坂城下に、先の四人の歓迎を遥かに凌ぐ、度肝を抜くほどの盛大な入城の列が現れた。総勢五百名、鎧兜を朱色に塗られた赤備えの行軍を見て、民衆は歓喜に沸いた。
信繁は、真紅に染め上げられた鹿角脇立朱塗具足を身に纏い、背後には真田の「六文銭」の旗印が鮮やかに翻っていた。信繁の腰に帯びているのは、かつて室町幕府十五代将軍・足利義昭から直接拝領したという名刀「九字兼定」であった。将軍家の血を引く者としての威容を漂わせるその姿は、まさに戦神の如き迫力であった。
信繁の大坂入りの噂を聞きつけ、道中で真田旧臣や浪人衆などが宿場ごとに合流し、その数は信繁の読んでいた五百にまで膨らんだ。
信繁のすぐ背後には、大助、高梨内記をはじめ、信繁に付き従うと決めた九度山の村人たちが続いていた。そしてその列の先頭近くには、真っ赤な特注の甲冑を着込み、悠々と揺れながら歩く巨漢・平松弥右衛門の姿があった。その刀にも、菊たちが編んだ土の温もりを感じさせる茶色の真田紐が揺れている。
さらに信繁のすぐ側には、見事な武具に身を包んだ幸村と佐助の姿があった。忍びの身分である二人は当初、武者行列に加わることを固辞したが、信繁らに強く説得され、侍として行進することになったのだ。幸村はどこか照れくさそうに顔を伏せがちであったが、佐助は堂々と胸を張り、誇らしげな笑顔を見せていた。
秀頼の馬印である金瓢箪が大路に立ち並び、豊臣の幹部らが一行を出迎える。先頭で静かに馬を進める信繁の姿に、城下は熱狂的な歓喜の渦に包まれた。
「あれが武田の旧臣、大御所様を二度までも苦しめたという、真田安房守様か!」
「いや、安房守様は数年前に身罷られたはず。あれは次男の左衛門佐信繁様らしいぞ」
「なんだい。何の功績もない次男坊に、この大仰な出迎えなのかい」
大坂の町民たちの遠慮のない声が耳に飛び込んで来る。苦笑する信繁の傍らで、佐助は苦虫を噛み潰したような表情で歩いていた。
一方、城内からその華々しい入城を見下ろしていた武将たちの顔には、複雑な感情が入り混じっていた。
「真田安房守の次男? なぜあれほどの扱いを受ける」
後藤又兵衛が腕を組み、不満げに鼻を鳴らす。
「……何やら裏がありそうですね」
毛利勝永の言葉には明らかな警戒の色があった。長宗我部盛親も明石掃部も、無言のままに、この新参者に対して訝しむような視線を送っていた。
総勢十万の野心が渦巻く大坂城の巨大な城門が、今、重々しい音を立てて閉ざされた。
天下を分かつ最後にして最大の決戦の火蓋が、いよいよ切られようとしていた。
◆第三十六章 「大坂城の主」に続く。




