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■第三十六章 大坂城の主

「これが……城、なのか……?」

 佐助がポツリと漏らすと、幸村も無言で頷く。


 巨大な石垣が天を突き、幾重にも連なる水堀が陽光を反射して煌めいている。

 幸村と佐助は、見上げるほどの高さを誇る五層八重の壮麗な天守、陽の光を受けて眩く輝く金箔の鯱鉾、延々と続く長大な多聞櫓、そして城内を縦横に走る幅広の往還や、鉄板で覆われた巨大な門の数々に目を奪われていた。さらには、南蛮渡来の意匠が凝らされた豪奢な庭園や、何千という兵と兵糧を収容できる無数の蔵など、途方もない富と力の結晶であるその威容に圧倒され、ただ口を開けて立ち尽くしていた。


「初めて信州の上田城に入った時、その広さと堅牢さに、これこそ日の本一の城だと驚きましたが……。」


 二人の反応に、少し前を歩いていた信繁と高梨内記が振り返り、思わず顔を見合わせて笑った。

「無理もなかろう。我らですら、初めてこの城を見た時は腰を抜かしかけたものだ。かつて太閤殿下が築き上げたこの城には、城下町まで城内にすっぽり入り、数万の民が暮らしている。城というより、町、いやもうこれは国だな」


 内記が語る通り、道幅の広い城内の町筋には武具屋や食料を商う店が軒を連ね、ひっきりなしに荷車が行き交い、活気と狂騒が渦巻いていた。

「とはいえ、随分と浪人の数が増えたな。みな、一旗揚げようという野心に満ちた顔をしておる」

 信繁は、すれ違う荒くれ者たちを冷静に観察していた。幸村と佐助も、大坂城の巨大さに驚いていながらも、周囲への目配りは怠っていない。すでに徳川の伊賀者も紛れ込んでいることであろう、油断はできなかった。


 入城後間もなく、主だった浪人衆が本丸の大広間に呼び集められた。

 金碧障壁画が輝く広大な座敷には、名だたる将たちがずらりと居並んでいる。信繁も末席近くに座った。

 遠く一段高い上段の間には見目麗しい豊臣秀頼と、その生母・淀殿の姿があった。暗殺を警戒しての事であろう、上段の間までの両脇には、屈強な武者達が控えていた。


 ここ大坂城の主である秀頼が進み出て、集まった浪人衆に向けて感謝と激励の言葉をかけようと口を開きかけた、その時であった。


「秀頼。軍議を」


 淀殿が、冷ややかで隙のない声で秀頼を制した。秀頼は少し戸惑ったような表情を見せたが、すぐに母に従い、黙って座り直した。

 その光景に、広間の空気が微かに張り詰める。豊臣家の実権が誰の手にあるのかを、誰もが悟った瞬間であった。


 続いて、豊臣家筆頭家老である大野修理亮治長が進み出た。

「皆の者、これより豊臣軍の陣容、ならびに兵を預ける侍大将を発表いたす!」

 大野の張り上げた声が広間に響き渡る。

 秀頼の本隊や、大野治房や木村重成といった豊臣ゆかりの旗本勢の陣容のあと、浪人衆からの侍大将の発表が続いた。

「長宗我部宮内少輔盛親! 兵五千!」

「おおっ!」

 かつて土佐一国を治めた大名・盛親の名が呼ばれると、広間はどよめきと歓声に包まれた。

「後藤又兵衛基次! 兵三千!」

「毛利豊前守勝永! 兵三千!」

「明石掃部頭全登! 兵二千!」

 実戦経験の乏しい豊臣ゆかりの旗本勢とは異なり、歴戦の勇士たちが次々と侍大将に任じられる度、浪人衆からは感嘆と期待の入り混じったどよめきが湧き起こった。


「真田左衛門佐信繁! 兵三千!」

 その名が呼ばれた瞬間、広間には先ほどまでの熱とは違う、何とも言えない微妙な空気が流れた。

 盛親や又兵衛のように名を馳せた武将ならいざ知らず、実戦経験に乏しい安房守の「次男坊」が、彼らと同格の侍大将に任じられ、三千もの兵を預かるというのだ。


「ふん。親父殿ならいざ知らず、戦働きも知らぬ次男坊が侍大将とはな。俺の方がよほど適任であろうが」

 夜叉のような風貌をした巨漢の武将――塙団右衛門が、あからさまに不満の声を漏らした。その声に同調するように、周囲の浪人たちもヒソヒソと囁き交わしている。

 信繁は表情一つ変えず、ただ静かに平伏して受け入れた。


 軍議が終わり、浪人衆が三々五々引き上げていく中、信繁がひとり城内の奥まった廊下を歩いていると、前方から数人の家臣を連れた大野治長が歩いてくるのとすれ違った。

 信繁はすぐさま歩みを止め、道を譲って頭を垂れた。


「おお、真田 殿。此度の働き、大いに期待しておるぞ」

 治長は足を止め、信繁を見下ろしながら冷ややかな口調で声をかけた。その顔には笑みが浮かんでいたが、目は全く笑っていなかった。

「はっ。右府(秀頼)様の御為、力の限りを尽くします」

 修理は頷きながら、値踏みするような眼で信繁を見た。

「豊臣家の一切はこの修理が取り仕切っておるゆえ、何かあれば何なりと申されよ」

 修理を見送り振り返ると、そこに一人の若い侍が笑顔をたたえて立っていた。


「木村長門守重成にございます」


 秀頼とほぼ同年代と思われる、見目麗しい若武者が人懐っこい笑みを浮かべて立っていた。すらりとした背格好と、戦国の世には不釣り合いなほどの爽やかな空気を纏っている。

「左衛門佐様!お目にかかれるのをずっと楽しみにしておりました!」

 重成は目を輝かせて信繁に歩み寄った。


「徳川を二度も破った安房守(昌幸)様は、私の憧れでございます! そして、左衛門佐様が第一次上田合戦で見せた決死の囮りの突撃や、小田原攻めの折に松井田城を開城させた見事な調略……世間ではあまり知られておりませぬが、私はすべて調べ尽くしておりまする。父上に劣らぬ見事な戦ぶり、感服いたしました!」

 重成の口から次々と飛び出す己の初陣や過去の戦功の詳細に、信繁は目を丸くした。大坂城では「戦知らずの次男坊」と侮られるのが常であったため、ここまで己を知る者がいるとは思いもよらなかった。


「木村長門守様、買い被りというものでございます。私は父の背を追っていたに過ぎません」

 謙遜する信繁に対し、重成はさらに身を乗り出し言い放った。


「ところで左衛門佐殿。貴方様が、足利宗家……源氏の正統の血を引いているというのは真でございますか?」


 その言葉に、信繁はピタリと動きを止めた。

「……何の話か分からりませぬ。我ら真田は清和源氏を名乗ってはいるが、所詮は一介の国衆の出に過ぎません」

 とぼける信繁であったが、重成はニコニコと笑いながら信繁の腰元を指さした。

「でも、その刀。前将軍・足利義昭公が所持されていた、足利家に伝わる名刀『九字兼定』ですよね? 義昭公が、ただの国衆の次男坊にそのような重宝を譲るとは思えませぬが」

「ぐっ……」

 信繁は答えに窮した。だが、ふと目の前の若者を見ると、そこには野心や悪意といった泥臭いものは一切なく、ただ純粋な好奇心と親愛の情だけがあった。


(不思議なお人だ……この方になら、話しても良いような気がしてくる)

 信繁は、人を無意識のうちに丸め込んでしまう重成の天性の才能に惹かれ、小さくため息をついた。

「……まったく、恐れ入りました。もし事実だとして、どこまでがその噂をご存じなのですか?」

「知っているのは淀の方様や大野修理殿など、ごくごく一部の首脳陣だけでございます。私も、たまたまお二人が密談されているのを耳にしてしまっただけでして」


 そして重成は、顔を寄せて小さく囁いた。

「ご安心を。この件は絶対に口外いたしませぬ! 左衛門佐様、どうか共にこの大坂を守り、徳川を打ち負かしましょう!」

 そう言って、爽やかな風を残し、軽やかな足取りで去っていった。野心と疑心暗鬼が渦巻く有象無象の坩堝であるこの大坂城で、信繁は初めて、心の中に清々しい風が吹き抜けるのを感じた。



 その日の夜。

 真田の陣屋に、密かに一つの影が訪れた。奥女中の身なりをしたその使いの者は、信繁の前に平伏し、声を潜めて言った。

「……我が主、淀の方様がお呼びでございます」


 信繁は静かに頷き、刀を腰に差した。

(戦の采配を握ると豪語する大野修理、実質の権力を握る淀の方様、そして城の主たる秀頼公……はて、誰がこの城の『真の主』だか)

 信繁は、豊臣家内部に深く静かに巣食う不協和音を肌で感じながら、薄闇の大坂城の奥深くへと歩みを進めた。


◆第三十七章 「淀の方」に続く



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