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◆第三十一章 決意

『お前の真の父はわしではない。室町幕府第十三代将軍・足利義輝公。そして母は、「越後の龍」上杉謙信公である』


「な……っ!?」

 信繁は絶句した。将軍家と越後の龍……。歴史の頂点に君臨する二人の名が、自らの両親として記されているのだ。信繁の視線は、吸い込まれるように昌幸の筆跡を追った。手紙には、かつて昌幸が知る由を得た、二人の密やかな運命の交差が綴られていた。


『永禄二年。越後を平定したばかりの謙信公は、五千の兵を率いて上洛を果たした。かつての栄光は地に落ち、没落しつつある足利将軍家とはいえ、謙信公にとっては絶対の主筋。純粋な「義」の行動であった。

 幕府再興に向けて真っ直ぐに命を燃やす若き将軍・義輝公は、腐敗した京の都の、将軍家に不似合いなほど質素な謁見の間でも、決して気高さを失うことなく、その澄んだ目で謙信公と向き合った。

 自らが女性であることを隠し、男の武将として振る舞ってきた謙信公だったが、名ばかりとなった足利将軍家を立て直すべく苦労を重ねてきた義輝公は、人の本質を見抜く秀でた力の持ち主、対面の場で一瞬にして謙信公が女性であることを見抜き、その背景にも自らと同様深い事情を抱えて孤独と戦っていると察した。

 義のために生き、孤独を抱える二つの魂が惹かれ合うのに、さして時間はかからなかった。幕府再興の夢を語り合ううち、二人は互いの立場を忘れ、ただの男と女として熱く体を重ねた』


 手紙を持つ信繁の手が小刻みに震えた。

 幕府再興に燃えた悲劇の剣豪将軍と、義を重んじる越後の軍神。その二人の運命的な出会いが、自らの命の始まりだというのか。まるでおとぎ話のように聞こえる内容も、信繁の体には不思議と何の疑いもなく真実として溶け込んで来た。


『越後へ戻った後も、孤独を抱える二人の心は、お互いを惹き合った。時に忍んで落ち合っていたのやもしれん。やがて、身ごもった事に気づいた謙信公は、密かに双子の男女を産んだ』


(双子の男女……!?)


 今まさに真実を読み進める信繁を、直江兼続は神妙な顔で見守っていた。


『その後、父・義輝公は三好らの手にかかり、お主を抱く事もなく非業の死を遂げられた。さぞかし無念であったことであろう。悲報に触れた謙信公は、三好ら逆賊の討伐を誓うが、遠く離れた越後の地ではどうする事も出来ず、義輝公の想い、いつか必ず幕府再興を成す事を胸に、越後近隣の平定を急がれた』


 さらに昌幸の手紙は続く。


『謙信公は、幼き頃から不思議な力をお持ちであった。未来を見通す力。わしも初陣の川中島でその一端を垣間見た。悲しきその力により自らの寿命を知ることとなった謙信公は、熟慮の末、まだ宿敵であった御屋形様(信玄)の宿老であったわしに、幼き我が子を預ける事になされた。

 どこまで見通されていたのかは、今となっては定かではないが、結果として御屋形様に続いて謙信公も亡くなられ、我ら真田は生き残った」


 上杉家中でも謙信が女性であることを知る者は数えるほどであった。その後上杉家は家督相続で家中が分裂して戦い、そんな折に実子の存在が明るみに出れば、真っ先に命を狙われる事になったであろう。


『お主は一度だけ、母謙信公と会っておる。先が短い事を悟られた謙信公が、最後に一目我が子と会いたいと望まれ、一度だけ』


(謙信公と……私が?)


『信繁よ、あの冬の鷹狩りを覚えておるか』


(鷹狩り……? 兄上と三人で出かけた、あの冬の……)


『あの時、お主が言っておったのう。不思議な人に会ったと』


 信繁は直感的に気づいた。あの時、山小屋で隠棲していると言っていた、確か『斉藤影家』と名乗っていた御仁……。肩口に傷があり、時折咳き込まれ、細身で筋肉質だが、どこか女性のようなしなやかさのある体つき、今でもなぜか鮮明に覚えていた。


『あの方がそなたの母、上杉謙信公じゃ』

(あの方が……、謙信公!?私の、母上……!)


 あの時の会話が蘇る。幼い頃はどのような遊びをしたのか、大きな病気やけがなどはしたことないか、父や母はどのような人か、兄とは仲良くやっているか、答える間も向けられた慈しむようにいたわるあの眼差し。


 信繁は激しく目頭が熱くなるのを覚えた。


『そう、お主は、足利宗家の血と、毘沙門天の化身とまで言われた謙信公の血、お二人の高貴な血脈を受け継いでおる。そして、生前の足利十五代将軍・足利義昭公からも、密かに正式に足利宗家の家督相続も受けておる』


(足利宗家……、私が……)


 かつて太閤秀吉の引き合いで、京の足利邸を訪ねた時の義昭の言葉がフラッシュバックした。



『おお、よう来てくれたの。顔を見せてくれ』

『今日、信繁殿に来てもらったのは、天下のお伽衆たる私の昔話に付き合ってもらおうと思っての』

『老い先短い老人が持っているより、必要な者の元でこそ輝くものだ。……何より、わしが貴殿に持っていてもらいたいのだ』


 そして、義昭がいかに兄・義輝の事を尊敬し、信頼していたかの話をされた。

 信繁はこう聞いたのだ。「なぜ私にその話を」と。


 その時、義昭はにっこりと頷きながらこう言った。

「いつか、わかる日が来よう」と。




(……あの時、義昭さまはすべてをご存じだったのだ!)

 義昭から受け取ったものの本当の重みに、信繁は息を呑んだ。


 さらに信繁の目を釘付けにしたのは、もう一つの衝撃の事実であった。


『そして、常にお前の影となり支え続けている幸村。あやつがお前と同じ血を分け合った、双子の妹じゃ』


「な……っ!?」


 信繁は思わず手紙を落としそうになった。

 いつも自分の傍に付き従い、男として振る舞い、生死を共にしてきた幸村。


 かつて父・昌幸に伝えた事がある。

「初めて会った時から、まるで失くした半身を見つけたような……魂の深いところで繋がっているような……」と。

 幸村への想いを打ち明けた過去の自身の言葉が、強烈な真実味を持って脳裏に蘇る。


 ある時内記が言った言葉。

『どこがと言われると困るんですが、時々信繁様と幸村がすごく似ている、と思う時があるんですよね』

 あの時の内記の笑いも、決して偶然ではなかったのだ。



 突然突きつけられた巨大な血脈の秘密と、近すぎる家族の真実に、信繁の心は激しく混乱した。

「私が……足利将軍家の正統な血脈……。毘沙門天の血。幸村が、双子の妹……。父上は、なぜ今までこれを……」


 読み終えた信繁は、しばらく呆然として動けなかった。

 直江兼続と速水守久の二人は、黙って信繁の様子を見守っていた。


 我に返った信繁は、直江兼続に近づいて言った。


「こ、これは……、誠の事でございましょうか」

 兼続はまっすぐ信繁を見つめ、深く、大きく頷いた。


 少し間をおいて、速水守久が静かに口を開いた。

「その血を欲している方がおられます」


 速水は前に出て、信繁の手を取った。

「大坂城のお方様(淀殿)は、徳川の偽りの源氏に対抗し得る、真の武家の棟梁たる『正義の血脈』を求めておいでです。真田左衛門佐殿。いざ東西手切れの際、大坂城ではあなた様をお迎えする覚悟ができております」


 兼続もまた、信繁を見据えて言った。

「安房守殿は、あなたという最強の駒を、最後の最後まで隠し通された。だが、その血の持つ運命にどう向き合い、どう行動するかは、信繁殿次第だ。豊臣と共に徳川を砕くか、このまま流人として平穏に暮らし歴史に埋もれるか……安房守殿は我らを集め、あなたの『覚悟』を試しておられるのだ」


 三人を一堂に引き合わせた昌幸の、死してなお狂いのない恐るべき采配。

 父は、信繁が自らの意志で立ち上がる、完璧な舞台を用意してこの世を去ったのだ。


 戦国の世に生まれ、父に従い、常に隣国の大きな力に抗って生き続けてきた。徳川の世となり、この九度山で家族と共に静かに暮らし、父昌幸が亡くなった今、戦の無いこの世の中を長男大助ら次の世代へ紡いでいく。そう思っていた未来。

 だが今、目の前には、天下の覇権を揺るがすほどの巨大な道が、急速に口を開けて待っていた。


 わずか数刻の滞在の後、帰路に就く兼続と速水を見送りながら、まだ信繁の心臓は大きく高鳴っていた。暗雲は遠く東の空へ抜け、西からは星空が顔を出し始めていた。


 信繁の寝室。開け放たれた襖から、夏の虫たちの鳴き声がにぎやかに聞こえる。

 竹姫との間には、二歳の大八と、生まれたばかりの阿菊が穏やかな寝息を立てている。信繁が阿菊の小さな手を取ると、ぎゅっと力強く握り返してくる。

 戦乱の絶えた世、決して裕福ではないが、妻や子供たち、内記や幸村、佐助ら仲間との平和な時間。このささやかな幸せをあえて手放さずとも良いではないか。戦乱の世に戻れば、この小さな二人もまた、真っ当な人生を歩むことすら叶わなくなる。


(その血を欲している方がおられます)

 必死の形相で訴えかける速水。


(豊臣と共に徳川を砕くか、このまま流人として平穏に暮らし歴史に埋もれるか……あなたの『覚悟』を試しておられるのだ)

 冷静沈着な兼続の重みのある言葉。


 何度考えても堂々巡りが続き、信繁は苦悩するように頭を振った。


「眠れないのですか?」

 竹姫が半身を起こして、信繁に優しく声をかけた。

「ああ……。すまぬ、起こしてしまったか」

 隣で寝返りを打つ大八を、竹姫が背中を優しく撫でている。

「少し夜風にあたってくる」

 信繁の背中を、竹姫はただ優しく見送った。


 見上げる夜空には、満天の星が広がっていた。あの星々の中のどれかが、父・昌幸の鋭い瞳のように自分を見下ろしている気がした。


 頭では分かっていた。今この平和を保っている徳川の世に、あえて豊臣の天下を取り戻すことなど、平地に波瀾を起こすようなものだ。大戦に巻き込まれる庶民は、誰もそんなことを願ってはいない。昌幸の葬儀に参列してくれた九度山の民の、ささやかながらも幸せな表情。絶えぬ笑顔。戦乱の世の百姓たちの、生死の境地に生きる獣のような目つきとは程遠い温和な目。

 ましてや自らの体に流れる足利宗家の血に、今更何の価値があろう。豊臣の世より更に時計の針を戻すようなものだ。


 しかし、事実を知った信繁の体の奥底では、得体の知れない何かがふつふつと湧き上がっていた。時間が経つにつれ、それは明確な熱を帯び、大きく存在感を増していく。

 脳裏には、これまでに散っていった者たちの顔が浮かぶ。

 半蔵との死闘の末に討たれた戸隠の棟梁・凛。繊細で包み込むような慈悲に満ちた義父・大谷吉継。潔癖で不器用だが真っすぐだった石田三成。そして、三成の義に殉じ、すべてを受け止めて天下の大戦に臨んだ島左近。

 さらには、己の分身として過酷な生を強いられてきた妹・幸村や、信繁の誕生の秘密を受け止めながら、越後の人質時代から支えてくれた上杉景勝、直江兼続。


 巨大な理不尽に奪われた大切な者たちが、走馬灯のように蘇る。その犠牲の上に成り立った「偽りの天下」を、黙って見過ごす事ができようか。真実を知り、今まで考えた事の無いような激しい感情が、体の奥底から溢れ出ているようだ。


 信繁は刀を抜いた。

「九字兼定(くじかねさだ)」

 美濃国関の刀工、和泉守兼定作の打刀で、刀身に護符の九字「臨兵闘者皆陣列在前」が刻まれている名刀である。足利義昭から拝領した将軍家に伝わる重宝の一つである。


 その刀で、自らの指を小さく傷をつけた。

 じわりと流れ出る赤い血。その血はなぜか、今まで見てきた己の血とは異なる気がした。これほどまでに濃く、底知れぬほど深い赤い色をしていただろうか。


(血の覚醒か……)


 満天の星空を見上げる信繁の瞳には、確かに新たな光が宿っていた。

 天下にとって未だ無名と言えるこの男は、この九度山の夜気に何を想うのか。


 ◆第三十二章 「垂れ込める暗雲」に続く


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